川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

故郷の歴史の中に生きる人  九州路に友人たちを訪ねて(6)

2011-05-25 08:57:29 | 出会いの旅

4月26日(火)晴れ

 清正(せいしょう)公さま~黒髪山(閻魔石像・乳待坊展望台)~有田・李参平座像(陶製)・大銀杏~唐津・虹ノ松原~漁師村

(昼食・イカの活け作り)~鏡山(領巾振山ひれふりやま)~北波多村・法安寺~伊万里市役所~岩本さん宅(泊)

 

  山下さんは私たちのためにフィールドワークの計画をたてておいてくれた。有田の陶祖・李参平の末裔に当たる金ヶ江さんにもお話を聞けるようにしておいてくれたが、それは勝手ながら次の機会にしてもらった。有田は10年前、弘子さんに案内してもらっていたせいもあるが、今回は何よりも山下さんと故郷山内の関わりの様子を知りたかったからだ。山下さんと一緒でなければ絶対に行くことのない地元の歴史の中を歩いてみたかった。

 

 ①踊瀬の清正公さま

 僕らが降り立った永尾駅からほど近い踊瀬(おどりせ)という小さな集落の裏山に「明神さん」の社(やしろ)があり、虎に跨る(またがる)武将が刻まれた石碑がご神体として祀(まつ)られていた。「文化八未(ひつじ)八月吉日建立」の銘があるという。文化8年とは1811年。

 正史によれば加藤清正は1611年、熊本城内で死去したことになっているが山下さんの研究によればそれは影武者で、本当の清正は徳川の目を逃れて武雄城主・後藤家信にかくまわれた後、無念のうちに死去し、この丘に埋葬されたという。これは武雄藩最大の秘密とされ村人にも守秘義務が課された。

 200年後の世の人がこうして石像を作り神として祀ったのは、清正の無念の霊を鎮め、後の世の人々への「祟り(たたり)」を封じ込めようとの切なる思いからであろうという。いつの頃からか村人たちはこの丘を「セイショウコウさん」と呼んだ。

 村人からの聞き取りや古文書の研究を通して山下さんはこの話を「伝説」として切り捨てるわけにはいかないと考えている。400年近くものあいだ踊瀬の人々が「話すな」の戒めを堅く守り、塚を祀り続けてきた想いと意味はあまりにも大きく重いからだ。

 今年は清正の死後400年に当たる。ご神体の石碑を祀ってからは200年だ。節目の年に期すところがあるように思えた。武雄市の高齢者大学の講師に呼ばれて話す計画があるようだ。明神さんに鳥居を建てる構想もあると聞いた。

 地区の人々が長く秘密にしてきたことを表に出すのである。その可否を皆さんに相談してもらった。熱心な議論の末、賛成が得られたという。

 丘の入り口や畑で山下さんが土地の人と挨拶を交わしていた。こうやって訪ねては400年のいいつたえに耳を傾けてきたのであろう。故郷に生きる歴史家の思いをかいま見てぼくの心まで温かくなるようだった。

 

 ②黒髪山 石造閻魔(えんま)大王 

 黒髪山までは旧山内町で山下父子(父は故・四郎さん)の手になる説明板があちこちにある。

 

武雄市重要文化財

石造閻魔王立像

指定年月日 昭和五十六年三月三十日

一見して異邦の作を思わしめるこの
閻魔王像は、天正十年(一五八二)韓国
渡来の像で、運搬人二百人を要してたとの
銘が像背にある。
 全高一八五センチメートル、鎌倉期に
完熟したといわれるわが国における閻魔
王信仰の一端をうかがうことができる。
 閻魔王は、冥界にあって、亡者の罪業
を裁断するといわれる一三王のうちの中
心的存在であり、極楽往生の為に我が国
でが信仰されるようになった。
彫刻としては、いたって簡略であるが、
石造彫刻における半肉彫像に移る室町
末期の作として民俗文化財としても
重要である。

昭和五八年三月
武雄市教育委員会


        黒髪山●http://hasamiooen.fc2web.com/2009-report-54-1.html

 

③乳待坊(ちまちぼう)展望台から  雌岩・雄岩

 展望台からは遠くに犬走の山下家のあるあたりも見える。岡方というだけあってけっこう高い台地の上にあることが分かる。山下さんはこの巨大な岩の下あたりまで歩かしてくれた。洋裁で使う「チャコ」の原料を採取する場所がこのあたりにあったという。四国参りの人たちが遺したミニ88カ所もあった。

黒髪山の乳待坊(ちまちぼう)の奇岩

 

④鏡山(唐津市)

 車を走らせて虹ノ松原を見たあと、「漁師村」でイカの活け作りをご馳走してくれた。刺身になっても生きている代物だ。妻はもう大感激。鏡山には唐津湾を見下ろす展望台がいくつかあり、「松浦佐用姫」の悲恋の物語から「領巾振山(ひれふりやま)」とも呼ばれているという。

  ●松浦佐用姫http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/matsura/sayohime.html

 朝鮮半島は玄界灘のすぐ向こう。6・7世紀の歴史の舞台を俯瞰しているような気になる。

  ●http://iyashi.midb.jp/best/808

 

⑤法安寺(唐津市北波多)

 山下さんの「世界史」の授業の締めくくりの舞台は岸岳の麓の法安寺というお寺。波多三河守(はた・みかわのかみ)という武将の巨大な像がたっていた。ぼくには馴染みのない名前だが山下さんの説明に次第に興味をそそられた。

 岸岳に拠る波多氏は玄界灘周辺に日韓民衆の共同体(一般の歴史学者は「倭寇」という)を形成した「松浦党」の一派。三河守は秀吉の朝鮮出兵を批判して追放・改易された。(美貌の妻を秀吉に献上しなかったために恨まれたという説もあるらしい)。

 この寺は波多氏とその家臣たちの無念の怨霊を鎮魂し、後世の人々への祟りを封じるため近代になって創建されたという。

 ●「岸岳城跡法安寺」http://web.people-i.ne.jp/~houanji/framepage.html

岩山に無数の仏像が刻まれている。日本一大きいという釈迦涅槃(しゃか・ねはん)像もある。それらをみながら境内を散歩していると聞き慣れたご詠歌が流れてきた。

 明星の いでぬる方の 東寺  暗き迷いは などかあらまじ

 ぼくの故郷・室戸岬の最御崎寺(ほつみさき寺・四国霊場24番)のテーマソング。山下さんとは親しい若い住職の日々の演出だと思われるがぼくには懐かしさと共に滅亡した波多氏への感興をかき立ててくれた。去りがたい思いの中で「山下・世界史」の時間は終わった。昔、池商の生徒たちが魅了された山下節とはこういうものであったのか。

 夕刻、伊万里市役所駐車場まで送ってくれ、岩本くんにバトンを渡してくれた。

  ●法安寺http://web.people-i.ne.jp/~houanji/framepage.html