川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

北松浦半島・平戸・生月島 九州路に友人たちを訪ねて(8)

2011-05-28 11:10:26 | 出会いの旅

4月28日(木)晴れ

 長崎県松浦市今福・梶谷(かじや)城跡~松浦鉄道・田平平戸口駅(日本最西端の駅)~平戸大橋~生月(いきつき)大橋~博

館・島の館(勇魚取り・かくれキリシタン)~塩俵の断崖~大バエ灯台~平戸城~千里が浜・鄭成功児誕石・廟~ホテル・蘭風

  27日夜。一日の疲れをものともせず、砂恵子さんは手作りの料理でもてなしてくれた。ぼくも妻もいい気になって千年の知己のように遅くまで語り合った。酒も進んだ。

 ぼくは社会科の教師になったが生徒が授業に興味を持ってくれなくて苦労した。大学進学に無縁な学校でぼくの「政治経済」など何の意味もないと拒否されたのだ。そこからぼくの自覚的な教師人生が始まったといえる。

 砂恵子さんは数学の先生であった。さぞや苦労したことだろうと思った。受験に関係ない生徒に「なぜ、数学を勉強しなければならないのか」と問われて、太刀打ちできる「先生」がそうはいるとも思えない。ぼくなどは受験に大いに関係あっても数学は苦手で一切勉強しなかった。やがて恐怖症になったくらいだ。

 昼間「せんせい!」と砂恵子さんに声をかけた卒業生の嬉しそうな姿を思った。いい先生だったのだなあ。

 そんな所から話が弾み始めたのかな。友達になってくれるかもしれないとぼくの心も弾んできたのだろう。

 28日は快晴。お二人が案内してくれる北松浦半島は教員生活の舞台だったところだ。

 

 ①梶谷城跡http://lunabura.exblog.jp/14066075/   

 長崎県松浦市に入ると間もなく細い山道を登ってすばらしく展望のよい梶谷城跡に出た。案内板にはこうある。

梶谷(かじや)城は、松浦党の初祖・源久公が築城したと伝えられており、築城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説がある。いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、相当長年月にわたって断続的に利用された松浦党の重要な山城である。」

 中世、玄界灘・東シナ海一帯に「日中韓民衆の共同体(「倭寇」ともいう)」(山下さんのことば)を形成した「松浦党」の一大拠点だったのだろう                                                      

 近くに松浦東高校の立派な校舎が見えた。この3月末に閉校となった。砂恵子さんが最後に働いた学校だ。島々からフェリーで通う生徒も多かったという。

②島の館http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/ikitukis/ihakubutu/ihakubutu.htm

平戸大橋・生月(いきつき)大橋と渡ってついた生月島の入り口にある博物館。主として捕鯨に関わる展示を見た。この写真にある模型は江戸時代の沿岸捕鯨の様子をわかりやすく生き生きと見せてくれる。

 網を使った捕鯨の様子のジオラマ(模型)

③大バエ灯台から北東部を望む(生月島)

 生月島の北端、何十年も昔から来てみたかったところ。中高時代の下宿にこの島から来た人が居た。先日来、食べさせてもらった鯛は岩本くんがこの海域で釣ったものだという。 

④平戸城からの景観http://www.geocities.jp/joysunny/hirado/hirado008.htm

 帰りに松浦氏の本拠だった平戸城に連れて行ってもらった。秀吉と親交があった松浦鎮信(まつら・しげのぶ)は1613年、この城を自ら焼いて家康に恭順の姿勢を示し、平戸藩の安泰を図ったという。城は模擬復元されたものだが、お城からの眺めは格別である。

IMG_3178

⑤鄭成功廟http://www.hirado-net.com/user/08teifes/08teifes.html

岩本くんが最後に連れて行ってくれた所。今宵の宿「蘭風」の近くの丘の上にある。

 鄭成功は1624年、この地で生まれたという。父・芝龍は福建の海商(密貿易商)とある。東アジアの海を牛耳っていた海賊の親玉だったのかな(母マツは平戸の人)。松浦一族とはつきあいが深かったのだろう。遠い昔、「倭寇」の大半は漢人だったと聞いたこともあるが自分から勉強したことはない。山下さんや岩本くんに「松浦党(まつらとう)」の地を案内してもらった今度こそ、本の一冊ぐらいは読んでみよう、と思った。この年になってもなにも知らないことが多すぎるなあ。

 岩本ご夫妻とはホテルの玄関でお別れした。ゆうべ、たしか岩本くんが国技館で相撲をみたいと言っていた。そんなときにまた、砂恵子さんにもお会いできるかもしれないなあ。「有り難うございました」。

 

 


 原発依存の町造りリーダー・高木孝一敦賀市長の講演記録

2011-05-28 03:02:03 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

 1983年1月26日石川県羽咋郡志賀町で開かれた「原発講演会」(地元の広域商工会主催)での高木孝一敦賀市長の講演(全文)と称するものを読みました。日本全国、原発利権に群がり、この国とこの星を危うくしても恥じない者たちの日頃の言動の実態です。

 こんな者たちに拍手して原発立地に荷担した各地の市町村民も同罪だとぼくは思っています。事ここに至っても自分たちは被害者だとのみいいつのる人たちの精神の荒廃ぶりにはあきれ果てます。この国に救いはないのかもしれないと思うほどです。
 



 只今ご紹介頂きました敦賀市長、高木でございます。えー、今日は皆さん方、広域商工会主催によります、原子力といわゆる関係地域の問題等についての勉強会をおやりになろうということで、非常に意義あることではなかろうか、というふうに存じております。…ご連絡を頂きまして、正しく原子力発電所というものを理解していただくということについては、とにもかくにも私は快くひとつ、馳せ参じさせて頂くことにいたしましょう、ということで、引き受けた訳でございます。

……一昨年もちょうど4月でございましたが敦賀1号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着したというふうなことで、世界中が大騒ぎをいたした訳でございます。私は、その4月18日にそうしたことが報道されましてから、20日の日にフランスへ行った。いかにも、そんなことは新聞報道、マスコミは騒ぐけれど、コバルト60がホンダワラに付いたといって、私は何か(なぜ騒ぐのか)、さっぱりもうわからない。そのホンダワラを1年食ったって、規制量の量(放射線被曝のこと)にはならない。そういうふうなことでございまして、4月20日にフランスへ参りました。事故が起きたのを聞きながら、その確認しながらフランスへ行ったわけです。ところがフランスまで送られてくる新聞には毎日、毎朝、今にも世の中ひっくり返りそうな勢いでこの一件が報じられる。止むなく帰国すると、“悪るびれた様子もなく、敦賀市長帰る”こういうふうに明くる日の新聞でございまして、実はビックリ。ところが 敦賀の人は何食わぬ顔をしておる。ここで何が起こったのかなという顔をしておりますけれど、まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。あるいは北海道で採れた昆布までが…。

敦賀は日本全国の食用の昆布の7~8割を作っておるんです。が、その昆布までですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで全く売れなくなってしまった。ちょうど4月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう…。そこで私は、まあ魚屋さんでも、あるいは民宿でも100円損したと思うものは150円貰いなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。100円損して200円貰うことはならんぞ、と。本当にワカメが売れなくて、100円損したんなら、精神的慰謝料50円を含んで150円貰いなさい、正々堂々と貰いなさいと言ったんでが、そうしたら出てくるわ出てくるわ、100円損して500円欲しいという連中がどんどん出てきたわけです(会場爆笑、そして大拍手?!)。

100円損して500円貰おうなんてのは、これはもう認めるもんじゃない。原電の方は、少々多くても、もう面倒臭いから出して解決しますわ、と言いますけれど、それはダメだと。正直者がバカをみるという世の中を作ってはいけないので、100円損した者には150円出してやってほしいけど、もう面倒臭いから500円あげるというんでは、到底これは慎んでもらいたい。まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。

いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故が起きて困ったとかいう人は全く一人もおりません。まあ言うなれば、率直に言うなれば、一年一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。

…(原発ができると電源三法交付金が貰えるが)その他に貰うお金はお互いに詮索せずにおこう。キミんとこはいくら貰ったんだ、ボクんとこはこれだけ貰ったよ、裏金ですね、裏金!まあ原子力発電所が来る、それなら三法のカネは、三法のカネとして貰うけれども、その他にやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域である訳でございます。それをどれだけ貰っているか、を言い出すと、これはもう、あそこはこれだけ貰った、ここはこれだけだ、ということでエキサイトする。そうなると原子力発電所にしろ、電力会社にしろ、対応しきれんだろうから、これはお互いにもう口外せず、自分は自分なりに、ひとつやっていこうじゃないか、というふうなことでございまして、例えば敦賀の場合、敦賀2号機のカネが7年間で42億入ってくる。三法のカネが7年間でそれだけ入ってくる。それに「もんじゅ」がございますと、出力は低いですが、その危険性……、うん、いやまあ、建設費はかかりますので、建設費と比較検討しますと入ってくるカネが60数億円になろうかと思っておるわけでございます…(会場感嘆の声と溜息がもれる)。

…で、実は敦賀に金ケ崎宮というお宮さんがございまして(建ってから)随分と年数が経ちまして、屋根がボトボトと落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、6000万円でしたけれど、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走って行った(会場ドッと笑い)。あっ、わかりました、ということで、すぐカネが出ましてね。それに調子づきまして、今度は北陸一の宮、これもひとつ6億で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木孝一個人が奉賛会長になりまして、6億の修復をやろうと。今日はここまで(講演に)来ましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた、富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所を作らせたる、1億円寄付してくれ(ドッと笑い)。これで皆さん、3億円既に出来た。こんなの作るの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び笑い)。まあそんな訳で短大は建つわ、高校は出来るわ、50億円で運動公園は出来るわね。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の街づくりが出来るんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)お薦めしたい。これは(私は)信念を持っとる、信念!

……えー、その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか…。こいうふうに思っております。どうもありがとうございました。(会場、大拍手)

  ◇           ◇           ◇    

この講演が効を奏してか、会場となった志賀には北陸電力の志賀原発1号機が建設され、運転を開始しています。

 ★引用文献:内橋 克人著 「原発への警鐘」 講談社文庫
出典● http://www.yochomachi.com/2011/04/blog-post.html