
家で立ち飲み珈琲を淹れます。


本燃焼開始。

一気に沸きます。

すぐに沸くので火を消す。

ククサに珈琲を淹れる。

今回はこれ。UCC。可もなく不可もなく

キッチンでそのまま立ち飲み。


ゼッケン75綿貫舞空選手(ヤマハ伊藤
レーシング)はマイク・ワゾウスキー
メットで決勝に臨む。
映画『東京エマニュエル夫人・個人教授』
(1975年日活)という古い映画に出て
くる1975年当時の筑波サーキットだ。
私がよく知り始める77年時点でも筑波は
こんな感じだった。
マシンはヤマハTZだ。350か250。
ピットもこんな感じだった。
1975年時点で完全にイン側の脚を開く
ハングオフ走行をしている。
スタントは現役レーシングライダー
だろう。
このスタント者のフォーム・・・。
平さんか?とも思ったがどうだろう。
1956年11月生まれの平忠彦さんの
デビューは19才の時である。
この映画公開は1975年11月だ。
当然撮影はそれ以前となる。
となると、この走行シーンの時点では
平忠彦さんは18才ということになり、
該当しないことになる。
しかし、フォームがよく似ている。
世界選手権では1975年時点ではイン側
の膝を開くハングオフ走法はごく一般的
だったが、やはり世界戦でも膝を路面
にこすって走っていたのはヤーノ以降
はケニー・ロバーツに代表される程度
だった。
75年時点で国内ライダーでハングオフ
をする人は極めて少ない。
ただし、ハングオフをしても、膝は
ヤーノ・サーリネンのようには路面に
擦らなかった。日本人も膝をこすり
出すのは70年代末期からだ。
膝こすり専用のニースライダーが登場
したのは世界戦においても1983年から
だ。それまでは粘着テープを重ね貼り
していた。さらにツナギに直にスライダー
が取り付けられるようになったのは
1984年の世界戦からだ。83年シーズンは
フレディ・スペンサーでさえもサポーター
のようなタイプのスライダーにしたり、
ケニーと同じ強力粘着テープを重ね貼り
したりしていた。フレディはケニーより
も強く膝を擦るので、デビュー当時
その膝出し走法は「第三の車輪」などと
呼ばれていた。
1975年の世界グランプリシーン。
1973年のWGP中に死亡したヤーノ・サー
リネンとケニー・ロバーツ以外は世界戦
でも膝を擦るライダーはほぼいない。
ゆえにスライダーは膝には着いていない。
(1975年ヤマハ広報から)
ただ、本作映画では、夜間走行のシーン
ではタンクの上に懐中電灯を載せて
ライト風にしている。
耐久レーサーではないTZを使用してる
ので、いろいろと無理がある。
転倒死亡事故のシーンでも、TZは使わ
ず、別な旧式市販公道バイクを燃やし
ていた。
この映画はサーキット走行シーン以外
はまったく興味がない作品なのだが、
1975年当時の筑波が映っていること
と、当時のマシンが見られるのがいい。
ただし、コースを走ってピットイン
するまでは2ストの音だが、停止して
アップのシーンの時には4ストマルチ
エンジンの音声になっている。映像
作品などでは2ストマシンなのに効果
音が4ストという例はよくある話だ。
この作品を観ていて気付いた。
1981年の劇画『ケンタウロスの伝説』
は、この映画から多くの要素を拝借
している。
まず、『ケンタウロスの伝説』で何度
か出てくる「鶴見サーキット」は筑波
がモデルであることが挙げられるが、
劇画連載の1981年当時の筑波は、1970
年代の草レース場のようなサーキット
のままだった。もてぎなどは、まるで
今のミニサーキットよりも殺風景だ。
もてぎはツインリンクもてぎとなって
から国際コースとして整備された。
次に、本作品で描かれている事故で
死んでしまうレーシングライダーの
恋人がヒロインであるという設定は
まるごと『ケンタウロスの伝説』に
使われている。
さらに、そのレーシングライダーの
弟とそのヒロインが肉体関係を持って
しまうという設定もそのままだ。
『ケンタウロスの伝説』の原作者の
オサムさんは、この『東京エマニュエル
夫人・個人教授』を多くの部分で下敷
きにしていることが看取できた。
これ、『ケンタウロスの伝説』連載
からきょうまで39年経って、初めて
私は気づいた。