正真。
と み)8月作。
安政4年は慶応義塾の前身
の蘭学塾を福沢諭吉が開く
安政5年の前年になる。
安政3年にはハリスが下田
に上陸して開国を迫り、
安政6年には横浜が初めて
開港した。米国の圧力によ
り。
日本の幕末動乱が開始され
たのが嘉永年間に続く安政
年間(1855~1860)だ。
武士たちは来たるべき日本
の危機を乗り越えるべく、
憂国の志から武芸に精進し、
強靭な利刀を武士の誰もが
求めた。
そうした幕末の気風を反映
した当時までで史上最強の
強靭刀剣を製作したのが
信州の山浦真雄(さねお)
だった。
江戸に出て剣術修行。
だが、どうしても自分が
気に入る刀が存在しなか
ったので自らが刀工にな
った。
そうした例は実は切れ物
強靭日本刀製作者の場合
はかなり多い。
真雄が製作した刀剣は強
靭そのもので、雄藩武士
の荒試しにおいて比類な
弟の山浦環(たまき)源
清磨(すがまろ)が世に
有名だが、兄真雄との鉄
の共同研究以降、作刀の
質性が変化し、丈夫な利
刃を以て成す刀に昇華し
た。
清磨正真物の脇差(時価
1500万円)の作を私は
東京銀座刀剣柴田で手に
取って鑑賞した事がある。
実刀精査により、清磨が
どのような炉を使ってい
るのか、どのような手法
で焼きを施したのかが看
取できた。
長州打ちなので江戸を離
れていた時期の清磨の作
だ。
ただ、清磨の江戸離れに
ついては、通常は出奔に
よりパトロンの幕府講武
所の重職の幕臣窪田清音
(すがね)が激怒したと
されているが、それには
疑義がある。
犯罪者としてではなく、
堂々と手形通行で長州ま
で山浦環は入っているか
らだ。手形を発行したの
は窪田だったのではなか
ろうか。
そして、長州駐鎚により、
ある鉄に対する発案を
山浦環は得たのだった。
環は正行銘を江戸に帰還
後に「清磨(すがまろ)」
に改銘した。
当然、幕臣の窪田清音
(すがね)への配慮から
だ。
(一般的には刀剣界では
いわゆるキヨマロと呼び
馴らしている。兄のほう
もマサオと。それが慣例
読み。情緒(じょうしょ)が
いつの間にかジョウチョ
と読まれるようになった
ようなものか)
この希代の刀剣作者山浦真雄
(2006年記事)