渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ホットドッグ ~アメリカ生まれ~

2023年12月19日 | open


刻みピクルス入りのホットドッグ
などは最高だ。

ホットドッグは北米へのドイツ
移民が1860年頃に普及させた
らしい。大元はフランクフルト
で1840年代に発明されたようだ。
米国で広まったのは西部開拓
時代だ。日本の幕末から明治
にかけて。
アメリカでは一人当たり年間
60食が消費される国民食とな
っているようだ。

私は米国食としてはハンバーガー
よりもホットドッグのほうが断
然好きだ。
1970年。東横線から湘南電車の
ホームに降りて階段裏にあった
ホットドッグ屋のドッグは、今
からするととてもしょ
ぼい味で
はあったが、小学生の
時には格
別にうまく感じた。

味は崎陽軒のシウマイ的な感じ。
いうならば、本格本場物ではな
い日本独自の原初的ファースト
フードのチープ感があるが、な
かなかこれはいけるぞ、という
不思議な印象だ。インスタント
ラーメンやネスカフェ粉末コー
ヒーのうま
さに通じるような。
ラーメン店でラーメンが1杯100
円の時代、ハマのホームのドッグ
は1個が150円だった。非常に高か
った。まだ日本人には馴染みの
ないソーセージ料理だったのだ
ろう。
横浜から中目黒まで毎週水曜に

歯医者に通っていたが、小学生
のお小遣いでは毎週食べられる
物ではなかった。せいぜい頑張
って月一。今では考えられない
程にホットドッグは高かった
からだ。
その頃、マクドナルドのハンバ
ーガーさえ日本には存在して
いなかった。
私のホットドッグ食いの歴史は
横浜の鉄道のプラットホームで
始まった。

 

ホットドッグ - Wikipedia

 

 


残念な街路樹

2023年12月19日 | open



広島県三原市には、道路整備後
に街路樹が植えられた通りがあ
る。クスノキだ。
街路樹を植樹すること自体は
とてもよいことかと思える。
だが、この道路の並木は、樹木
同士の感覚が非常に狭い。
クスノキはかなりの大木になる
事など想定していないのだろう
か。
都市計画として問題はなかった
だろうか。
樹木の間は普通車1台分を停め
られるほどの間隔しか空いてい
ない。

これは東京のケヤキ並木だが、
せめてこれくらいの間隔を空け
たほうがよかったのではなかろ
うか。将来の事を考えるならば。




原付ノススメ

2023年12月19日 | open




日本の産業育成と健全な国際
的モーターリゼーションの発
達、日本の交通社会の完成の
為に、私は国民の多くが原付
に乗る事をおすすめしたい。


二輪車の呼び方

2023年12月19日 | open
 


モーターサイクル。
モーターバイク。
モト。
モトシクレータ。
モトラッド。
モトチークロ。
オートバイ。
自動二輪。
単車。
二輪。
バイク。
 
他にも様々な呼び方がある。
バイク(日本語の造語)という
言葉が使われ始めたのは1970
年代初期からだった。
バイクとは英語では自転車の
事を指す。
米語のモーターバイクは日本語
に直訳すると原動機付自転車
が、日本ではそれは小排気
発動機付二輪車の事を指す。
単車というのは、古い日本語で、
軍用二輪の側車付きに対して、
二輪車のみを指して単車と呼ん
だ。
オートバイというのは完全な
日本語で造語だ。オート+バシ
クルをベースに創作された日本
語。
自動二輪は自動車に対しての
区別として作られた日本語だ。
正確には自動二輪車という。
自動二輪は、これは免許証など
にも記載される法律用語として
も使用されている。
警察等が一般的に使う呼称は
ートバイが多い。自動二
輪とは
免許区分以外ではあまり
呼ばな
い。
 
バイクという単語は、私が中学
に入る1973年あたりから使われ
始めた。嚆矢は漫画家の望月三
起也だった。
「ワイルド7」という歴史的人気
劇画(1969-1979)の中で、最初
はオートバイと呼んでいたのを
途中からバイクと呼び始めた。
「緑の墓」編からだ。
そして、1970年代前期には、
それまでのオートバイという
呼称よりもアメリカ風味のテイ
ストを感じさせるバイクという
言葉が、特に若者たちのサブカ
ルと結合して流行した。とりわ
け暴走族の大発生と共に不良
少年たちは好んでバイクと呼ん
だ。
不良たち以外の人たちや体制派
りの大人たちは必ずオート
バイ
と呼んだ。
あと、古いレーシングライダー
1980代末期までもオート
バイと
二輪の事を呼んでいた。
レーシングライダーで二輪の事を
バイクと呼ぶのは最近の新世代か
らだ。
ただ言語の普及は恐ろしいもの
で、日本車が二輪世界選手権を
席巻していた頃、世界のトップ
ライダーたちも「バイク」と呼
び始めた。日本語造語なのだ
英語圏やスペイン語圏の人
たち
にもスンナリと来たのだ
ろう。
元世界チャンピオンの
国人
ケニー・ロバーツも今

に入ってからは「バイク」
と呼ぶし、現役チャンピオン
だったスペイン人のロッシも
「バイク」と呼んだ。両人と
日本車乗りの欧米人だ。
 
バイクという呼称がまだ一般的
には未定着だった80年代初期、
Bikeというバイク雑誌が誕生し、
ファッションや旅先情報等、な
かなかポップな内容で若者たち
に人気を博した。
現代に続く二輪車をめぐる多用
な楽しみ方を初めて紹介展開し
たバイク専門誌だった。
まだ、当時はまだ老人しか行か
なかった温泉とかを紹介したり
もしていた。るるぶの走りのよ
うな雑誌だった。今はその手の
二輪雑誌は腐る程ある。先鞭を
つけたのは雑誌Bikeだった。
80年代中に廃刊。
今だと大受けしそうな編集だっ
たが、世の中は走りに徹する
風潮が高まり、旅行バイクなど
はかったるいお遊戯的に捉えら
れ始めていたので、創刊初期
の爆発的伸びから一気に販売
不振に陥ったようだ。
講談社の人気雑誌ベストバイク
が廃刊になったのは圧力だが。
ベストバイクは高速道路料金
訴訟をジャーナリズムの立場
から全面的に報道支援してい
た。訴訟勝利の展開の決着が
ついて高速道路料金が現実的
に改正された直後に編集部閉
鎖、廃刊となった。
一つの「日本の姿」を表して
いた。
 
私個人は二輪の事をいろいろ
呼ぶが、一番好きな呼称は
「オートバイ」だ。
これは古く、大正時代には使
われていた外来語改造の日本
語だ。
長いものに巻かれるのが好き
なくせに、3行以上の文を長文
とする現代脳スカ世代は、長
い単語も嫌いなようで、軒
み「バイク」と呼んでい
る。
それは、1970年代の抵抗文化
としての新語使用ではなく、
出来上がった空気に流される
スタンスとして。みんなが言っ
ているから言う、みたいなもの
で。
 
私はバイクという単語も使う
が、好みの単語は「オート
イ」だ。「二輪」もよく
使う。
「単車」はあまり使わない。
単車という呼び方は、つい最近
までは西日本の人たちは全員
がオートバイの事を単車と呼
んでいた。大阪から西は全員
が単車呼び。
学生の時、まだバイクという
単語が全国版ではなかった頃
に西日本の学生たちと交流し
たら、全員が単車と呼んでい
たし、広島県内の私の親戚た
ちも皆が単車と呼んでいた。
東京ではその旧語はすでに
死語となっていたのが1980
年代前期だった。
だが、バイクという単語が全
に広まって一般化したの
は、
1980年代末期あたり
からだ。
 
私はあえて言う。
オートバイと。
オートバイ乗りである、と。
 
1981年時。まだバイクという
呼称は全国化してはいなかった。
 

嵐を呼ぶ男 〜近藤真彦&西城秀樹〜

2023年12月19日 | open



ある放送局では裕次郎の「嵐を
呼ぶ男」をカバー演奏して歌う
時に、「やくざ」という単語は
いけないという事で「やんちゃ」
に変更させた。

ナンセンスである。
言葉狩りは、自分らの保身だけ
を目的としたもので、本質的な
問題取り組みとは無縁なところ
にある。


おじや

2023年12月19日 | open



朝食は、昨夜の残りスープを
使っておじやにした。
「おーい、藤吉。おじやにする
きに」
てな具合で。
これが滅法うまいときてる。
冬は鍋ぜよ〜。


色を選べる四輪車 ~日本のクルマ社会~

2023年12月19日 | open




四輪車でもとりわけ軽自動車は
色の選択肢が豊富に用意されて
いるケースが多い。
普通自動車の場合は色数が少な
い。


軽自動車は東京大阪等の主要都
以外の地方では圧倒的に多い。
驚くほど多い。
走っている四輪車のほとんどが
軽自動車である程。
それは、地方では完全なる国民
の生活に欠かせない足として四
輪車が存在しているからだ。
車がなければ買い物も通院も
まったくできない。
都市部とは交通機関の発達が
雲泥の差だからだ。
高齢者の免許返納を推進云々は
あれは都会に住んでいる人が言
っている事だ。地方では元気な
80才代はごく普通に車を運転
して移動する。でないと移動
できないからだ。
つまり、車が無くば生活はでき
ない。


地方で軽自動車が爆発的に売れ
いるのは、維持費とコンパクト
さによる小回りが利く点だろう。
長距離は移動しない。
そして、広島県三原市のように
軽自動車には車庫証明が要らな
いという地域もある。

かつて、日本の二輪産業を支えた
のは50ccの原付バイクだった。
それにより日本の二輪は空前絶後
の1980年代オートバイブームを
迎えた。そこらじゅう誰でもバイ
クに乗っている国内状況が生まれ
た。年間250万台売れた二輪は、
今では1/10の販売台数に落ち込ん
だ。今日本の二輪産業は命が風前
の灯だ。
一方、四輪車の世界は順調で安定
した伸びを見せている。
四輪車メーカーの決算黒字は上昇
しか見せていない。
それは、四輪車が移動手段として
国民に定着しているからだ。
そして、それはかつて二輪が原付
によって支えられていたように、
四輪では軽自動車の普及が自動車
産業の底力となっている。

日本の原付50はどうして誰も乗ら
なくなったのか。
それは、かつて二輪車はエンジン
を切って押せば歩行者と法的にも
認められ、買い物や外出でも歩道
に駐車しても駐車違反対象には
ならなかった。そうした時代が
数十年続いた。
だが、現代コンプラクレーマー
の魁のようなクレーマーたちの
通報が突然降って湧いた。
まるで「オバQ」や「ちびくろ
サンボ」をつるし上げた疑似似非
良質市民ムーブメントのように。
一部の人間が火をつけたが、それ
が燎原の火のごとく広がった。
「恐れた人(企業等)」がいたか
だ。
二輪の駐車違反はある時突然警察
権力により一方的に断行された。
そして取り締まりが突然始まった
昨日まで歩けていた道を歩くと
逮捕する、みたいなものだ。
そして、日本の二輪車産業は死滅
へと向かった。現在は延命措置を
対処療法的に施しているが、日本
から二輪車が消滅する日は時間の
問題だ。
今日本国内で二輪に乗っている人
たちは、個人的な趣味で乗ってい
る「浮動層」ばかりだ。配達等の
職務乗車を除けば。
何かあったら即二輪に乗るのを
やめる。そうした存在。そうした
不安定な存在にかろうじて支え

られているのが日本の産業の中
における二輪製造部門だ。

だが、それら日本国内の二輪乗車
層は、奇しくも構造的には、意図
的な権力の二輪規制の歴史の中で、
抵抗戦線の一員を構成する構造の
中にいる。本人が意識せずとも。
ただ、浮動票と同じく浮動層は
いつでもその立場を任意に放棄
できるので、構造変革の起爆剤
にも確実な定着力にもならない。
日本の二輪史の中で唯一の例外
は、1980年代初期~末期に私
たちが起こした社会ムーブメント
よって、ライダー自身の手によ
って行政変革を実現した高速道路
料金訴訟運動だけだ。
あれにより二輪車の高速道路料金
枠が初めて設置された。
それは30数年を経た21世紀のこん
にちの料金枠としても
現存で生き
ている。

あれがなければ、上からの搾り上
げはやりたい放題だった。
それまでは29人乗りのマイクロ
バスと同じ料金を二輪車は徴収
されていたのだ。
現実的に二輪枠の高速道路料金を
設置させた歴史的な訴訟は、法学
の世界では「行政訴訟の奇跡」と
いわれている。

四輪車は現在進行している二輪車
のように消滅の危機はない。
それは前述したように、国民の足
として軽自動車が完全生活必須
アイテムとして堅固に存在して
いるからだ。
二輪車の原付は四輪車の軽自動車
の二輪車版として想定されて普及
が成功したが、作為的勢力により
潰された。
そしてそれは二輪車社会全体を潰
す方向にベクトルが作用し、現在
絶命寸前の日本の二輪産業の状
を発生させるに至った。

今の状況は、誰か特定の者たちが
仕掛けて作り上げたものだが、
我々国民のうち二輪車に乗る人間
たちにも責任がある。
80年代の歴史的大改革を成し遂げ
たような巨大国民運動もなにも
せず、ただ指を咥えてお上の言い
なりになって尻尾を振っているだけ
が二輪乗車国民の全体像となって
しまっているからだ。
そして、それらはコンプラ警察
気取りの良市民ぶる似非国民の
層をも形成している。
今の二輪乗りたちは自分で自分の
首を絞めているのだ。

かつて家庭の主婦や学生たちまで

の多くの人が原付に乗ってタウン
ビークルとして二輪を使用して移
動した。どの家庭にも原付バイク
があったような光景が国内に広が
っていた。今の軽自動車の普及定
着のように。
任意保険制度もそうした社会情勢
を鑑み、ファミリー特約等が新設
された。
それが本来のモーターリゼーション
として正しく健全な交通社会の姿
だ。

そうした光景が広がる完備された
国は栄える。事実日本がそうだっ
た。

だが、そうした明るい未来を予見
させた日本の時代は終了した。
今日本は、最期の断末魔に実は
喘いでいる。
もしかすると、100年後には日本
という国さえも存在しないかも
しれない。
これ、絵空事や冗談ではなく。



年末年始のモスバーガーの攻め手

2023年12月19日 | open
 

 
年末年始にかけてモスバーガー
の突き抜け戦略が来た。
黒毛和牛のハンバーガー。
これはうまそうだ。
 
年始からは別バージョンで追撃。
こちらもうまそうだ。