私が生まれて初めてオート
バイに乗ったのは2歳の頃だ。
ヤマハYDS-1。
私の家は母方の親族も父方の
親族も、1950年代から1960
年代にかけてオートバイに乗
る者がかなり多かった。
初めて乗ったオートバイでは
タンクに跨り、目の前の突
起物を必死に掴んでいた。
そこはダメと別場所を握り
直されたが。
近所を一周して帰って来た
時、まだ幼すぎる私を乗せ
て大叔父がバイクで走行し
てきた事に母が仰天して私
を下ろそうとしたら泣き出す。
そしてまたタンクに乗せる
とキャッキャと喜ぶ。
そして、エンジンを切ると
泣き出す。
再度エンジンをかけると声出
して手を叩いて喜ぶ。
私はその時の記憶が鮮明に
残っている。
私の様々な記憶は1歳頃から
あるが、その時の大叔父の
セリフも覚えている。
「ほれ。泣き止むじゃろ?
おかしな子じゃのう」
私の子は1才半の時にはごく
普通に言葉を話し、普通に会話
していたが、母によると私もそ
の年齢頃には普通に会話をして
いたらしい。
ただ、セリフが鮮明に記憶に
刻まれているのであるから、
言語は理解していたのは確かだ
ろう。
私のその生まれて初めての
原体験は、タンクを運転者
の股の前面に備えた「オート
バイ」であるから可能だった
ことだろうと思う。
これがスーパーカブであった
なら、不可能であったことだ
ろう。
しかし、生まれて初めて自分
自身の一人だけの力で二輪車
を走らせたのは、ホンダのス
ーパーカブだった。
中1になる年の正月、父の広島
県の実家に行った。
国鉄駅からは歩いても行ける
が、荷物があったのでタクシ
ーで向かった。
すると、敷地がライトで照ら
されたら、必死にバイクをキッ
クしている人がいる。
一つ学年が上の東京のイトコ
だった。
タクシーから降りて、「なに
やってるのー?」と訊くと、
親戚の氷屋のおっちゃんのカブ
を勝手に敷地内で乗り回して
いるのだという。
面白そうだから、私も早速、操
作の仕方を教えて貰って乗って
みた。
衝撃的だった。
なんだこれ?
アクセルひねったらいくらでも
前に進むぞ。
ギアはロータリーなので、さら
に上があるかと間違えてトップ
からローにループ戻し入れして
しまいギャンギャンと後輪が鳴
いた。
「違うよー」とイトコの兄貴が
言う。「こうだよ」と手本を見
せてくれた。
上手かった。
そのうち、母屋のほうから「ご
飯だよー」と伯母と叔母の声が
する。はーいと返事して家に
入った。
翌朝はイトコと二人で敷地内で
カブを乗り回した。
所有者の叔父も「よう乗るん
か?(ちゃんと運転できるのか)」
と言うだけで、「外に出たら
いけんでー」と言いながら自由
にカブを乗らせてくれた。
昨夜の短い時間よりもたっぷり
と乗り、充分に楽しめた。
すると、外の道路を走ってる
バイク警官が敷地に入って来た。
「免許証」と言う。
はあ?とか思っていたら「免許
証!免許証を見せなさい!」と
再度言う。
「免許?んなもんないっすよー」
と答えると「歳は?」と問う。
「じゅーに」と言ったら向こ
うが「はあ?」
と言った。
まあ、私は中1の終わりから今
の身長だったので、その時も
高校生くらいに見えたのだろう。
それに言葉が地の言葉でないの
で不審に思ったらしく、まじま
じと私のことを上から下まで眺
めてる。
その時、母屋から東京の叔母が
出て来て、「敷地内で乗ってる
んですから。ほら、あんたたち
は家の中に入ってなさい」と取
り繕ってくれた。
本当は、塀で囲まれた敷地内で
ないと自動車の運転は私有地内
でも禁止ではあるが、生垣のあ
る敷地内に勝手に入ってくるオ
マワリもオマワリだ。一族もオ
マワリと先公揃いだが、どうも
好きじゃねえよ、サツは。
明治時代は、サツと薩摩をかけ
て、おいコラ官憲が多かった薩
摩っぽを揶揄してマッポと言う
のが警官に対する揶揄言葉とし
て新東京では成立した。明治の
壮士絢爛の頃は。
マッポという言い方は、私の少
年時代にもごく普通にオマワリ
を揶揄する時に使っていた。
で、その時から、原動機付二輪
車の自己運転の楽しさを知った。
その後は、免許がないので一般
公道は走れなかったが、ヤマハ
の2スト5速車でオフコースを走
り回った。
困ったのは、バイクの乗り方を
リターンギヤで身体が覚え込ん
でしまったので、16才で初めて
教習所に行って自動二輪免許の
実車走行の1限目にロータリー
式に乗せられた時、変速をかな
り逆に間違えて教習中止になっ
た事だ。
教習所のベンチで見ていたクラ
スメートたちは大笑いしてる。
「おめー、だっせーなー。無免
でコースで乗ってる時のほうが
上手いじゃん」と。
教習時間内ラストで申し入れて
リターン式に乗せて貰った。
教官驚いていた。「どこで乗っ
てたんだ?」と。
教習車はヤマハRD350だった。
2ストの丸タンクの古い型式の。
ホンダCBもあったが、RDのほう
が私にはしっくりきた。
当時、教習車は自分で選べた。
指定割り当てではなく、教習前
に「きょうは私はこれ」と選べ
た。
私はRDばかりを選んでいたが、
先に他の人に取られてしまう
こともあった。
それに、そのRDは整備バッチ
リで絶好調の吹け上がりだった
のだ。CBはもったりしていて、
好きになれなかった。
私の初体験は2歳頃のヤマハで
あり、自主運転はホンダのカブ
だった。
だが、私が自分で開花したマシ
ン一体化の感性の萌芽はヤマハ
GTの2ストマシンによる。
ミニトレ、世界最高!なんて思
っていた。
そして、晴れて公道を走れる免
許を得る教習所においても、ヤ
マハRD350の鬼吹けマシンが
一番好きだった。
免許取得後に初めて所有した
バイクは、例のイトコ兄がくれた
カワサキの2ストマシンだった。
イトコ兄はスズキのGT380=サン
パチにも乗っていた。モスグリ
ーンの渋いバカっぱやバイクだっ
た。
私はそのカワサキが盗まれてし
まって後(警察からの通報で発見
したが)、高校時代にはホンダの
4ストを2台乗ったが、やはり2スト
が好きだった。これは感性のマッ
チングの問題だ。カワサキの2スト
が好きだった。
スーパーカブは、ギネスにも載る
程にやはり名車だと思う。
ただ、私はカブは好きだし認めて
いても、私自身がカブを所有して
乗ろうとはあまり思わない。
吹け上がりがもったりしすぎてい
てたるいからだ。
もちろん、それもカブの味なのだ
けど。まるで農耕馬のようなタフ
ネスさも。
だが、私自身は、クォーターホー
スやサラブレッドのような馬に乗
りたいというのがある。
農耕馬は否定しないが、乗って
走りたいのはそれではない。私
自身は。
それでもカブは名車である。
こんなタフネス実用車は他に無い。
カブの真似っこバイクで、スズキ
が2ストのバーディーというのを
出していた。
昔てのはいい加減なもんで、中学
の数学教師が乗っていて、それを
よく先生と仲良し生徒たち(全員
ツッパリくん)が先生公認で校庭
で乗らせて貰っていた(笑)。
私はよく両輪ドリフトをやって
イェイ!と喝采を受けていた。
先生は「おい!壊すなよー!」と
叫んでいる。
その先生は、僕らが高校生になっ
てからも、宿直の日に中学に遊び
に行くと歓迎してくれた。
みんなツッパリ君だったけど、な
んだかグレてはいなかったように
思える。
教師たちもいい男が多かった。
私の人生、バイクあり。そして
人あり。
今も、バイクと人と共に生きて
いる。
都内に住む学生時代の友人と
2004年のカレンダー
らすると。
同じ日並びの7月は2021年も
あるが、2021年は22日と23
日が連休なので赤文字でない
とならない。
だが、作品のカレンダーは19
日は祝日で赤字表記なのに、
22日と23日は赤字表記では
ない。つまり、この作品中の
カレンダーは2004年を示して
いる。
だが、主人公小熊の免許証は
令和3年発行であり、錯綜し
ている。
映像描画表現に整合性が見ら
れない。
偶然だが、斬鉄剣刀工小林康宏
の日本刀鍛錬場のごく近所の同
じ町内に主人公は住んでいる。
主人公小熊の住んでいる県営
日野春団地は実在する。
作品での描写もそのままリアル
に描かれている。
これは実写真。作中主人公小熊
がカブを停めている駐輪場も実
在する。
ここから刀工小林康宏日本刀
鍛錬場までは直線距離で3キロ
ほどだ。
すると、登場する山梨県北杜市
の高校2年の主人公たちは、実
在したならばことしで36才
になっている。
から17年前の過去を描いている
事になる。2021年がほんとの
さが。
やるのだろうか。ネット警察
気取りのクズたちは。
言うのだろうか。
最近多い奴ら。
マンガじゃないか。それの設定
来るもけしからんとか言い出
しそうだ。
私は、今は膝はすらない走法に
シフトしている。
それと、膝すりはすらせるのが
目的ではなく、ハングフォーム
のバランス取りのためにイン側
を開脚すると自然と「いやでも」
膝はすってしまう。
そして、ハングフォームの物理
だが、バンク角が深くなっていく
と膝を出していたらそれ以上車
が寝ないのでイン側の膝は畳ん
で車体に押し付けるようにする。
それが上掲のGPライダーの画像。
チャンピオンだけでなく、どの
レーシングライダーでもこれを
する。物理性は万人に等しく現
出するからだ。「俺はこうだ」
などというのは無い。
深く車体を寝かせて行ったら、
路面と車体の間に邪魔な物=
イン側の脚と膝があればそれ
以上車体を寝かせられないの
は物事の道理だ。
なのでフルバンク地点では膝は
畳んで車体に密着させる。
これ、実は公道でも同じだ。
物理現象は公道もコースも同じ
であるので。
しかし、公道では、膝すりは
「かっこつけ」の為だけに行
なわれる事が世間では多い。
本質的な部分では、公道での
膝すりは「走り」とは関係性
が希薄だ。
膝は「するのが目的」ではなく、
「すりたくなくともすってし
まう」というのが本当の真実
だからだ。
ハングフォームを採っても、
サーキットのような極端な
フルハングでないならば、どん
なにバランス取りで膝を出して
も路面に膝は接触しない。
また、させるつもりもないの
ならば、膝をする必要性は一
切ない。
どのような走り方を自分の中で
組み立てるかによって、膝を
するかすらないかが分岐する。
ちなみに、完全リーンウイズは
同速度旋回においてハングフォ
ームよりもバンク角が深くなり
すぎて危険なので、私はリーン
ウイズが常態のまま旋回寝かし
こみをすることはやらない。
一定速度以上の旋回では必ず
ハングフォームを採るようにし
ている。
車体を必要以上に寝かせたく
ないからだ。
できるだけ二輪の車体は立てた
ままで旋回フォースによりタイ
ヤに面圧を与えてサスを沈めて
トラクションを得る乗り方を選
択している。
結果、38年間無転倒だ。
もうすぐ来年で無転倒39年目に
なる。
38年前以前のさかのぼる事4年
間は、膝すり当たり前で車体を
寝かせすぎていたための転倒が
非常に多かった。
サーキットとは異なる非常に
摩擦係数の低い公道でフルバン
クなどは危険以外なにものでも
ない。だが、それをやっていた
がためにあらゆる状況でフル
バンクによって転倒していた。
公道でハイサイドになった事も
あった。
旋回速度も異様に高かったのだ
が、公道でそうした走りをする
とわずかなミスですぐに飛ぶ。
高校時代は無転倒無事故だった
が、大学時代の一時期のみやた
らめったら転びまくった。
これは公道だけでなくサーキット
でも。
だが、1985年秋からは一切公道
走行で転倒はしていない。
(敷地内での小排気量マシンで
のスタンディング練習の際の転
倒などは別)
私は今は膝はすらない。膝を出す
のは路面に膝を擦る為ではない。