渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

渋谷物語 ~忠犬ハチ公~

2023年12月06日 | open

1935 渋谷駅前で忠犬ハチ公が歩いていた頃


私が生まれて、3歳で湘南
に引っ
越すまで住んでいた
場所は
渋谷ハチ公前から
2kmと離
れていない。
ハチ公は渋谷の象徴でもあ

ったし、今でもそうだ。
父と母も渋谷が生活圏だった
ようで、家具なども渋谷で
揃えていたらしい。

東京23区の西半分の南側は
東急
電鉄が作った街だとい
える。

横浜に転居後も、渋谷まで
出るのには東急東横線が馴
染みだった。
私は小学生の時、横浜から
生まれ故郷の中目黒の駅近
くの歯医者まで東横線に乗
って通っていた。

東京都内は小学生低学年の
女の子で
あっても電車や地
下鉄で
通学している児童が
多い。

一人だったり友人たち数名
で通学している。
見ていると、ランドセルが
歩いているようだ。
だが、一人で歩き、階段を
昇り降りし、エスカレーター
にも一人で乗り、改札も通
る。定期券でない場合、自
分で切符も買い、自分で目
的地をきちんと分別して向
かう。

私より前の世代は、都内23
区山手線内外を縦横無尽に
走る
都電の路面電車に乗っ
て、
自分でどこにでも行っ
た。

それが東京の小学生だ。

上掲の写真は、私が生まれ

た頃の写真だろう。


キャンプ場トワイライトフォレストと史上最強日本刀 ~信州~

2023年12月06日 | open



独オタあっきーのキャンプ場
トワイライトフォレストは、
これはたまたまの偶然だが、
実は幕末最
強刀剣を作った
山浦真雄(さ
ねお/まさお)
の家のすぐそ
ばにある。
幕末最強ではなく
日本史上
最強かも。


近隣の車両通行迷惑になる
ので、
トワイライトフォレ
ストへ
見学のみで行くのは
お控え
ください。

四谷正宗と呼ばれた山浦環
源清麿(すがまろ/きよま
ろ)の兄である山浦真雄は、
形ばかりの日本刀に堕落し
た幕末刀剣界に喝を入れた。
そして、研究の末、比類な
き頑丈な日本刀を作った。





山浦真雄作、正真。
うちの刀剣会&MC=二輪
倶楽部の地方支部ヘッドの
者の差料。
頗る出来が良い斬鉄剣だ。


山浦真雄についてはこちらも
よろしかったらどうぞ。

 

刀の切れ味 ~信州松代藩の荒試し~ - 渓流詩人の徒然日記

「日本刀は強靭である」という神話は作られたものだ。そこらの一般的な刀は簡単に折れる。特に現代刀などは、信じがたいが、部屋の蛍光灯のナイロン紐を切っても刃こぼれす...

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BLT

2023年12月06日 | open


晴れた日にはBLT。


隠していても出てしまう人間性

2023年12月06日 | open

キャンプで夜にハム焼いて食べて、
朝はこじらせカレーを作る男


徳井さんと独オタ女子アッキー
の野外めし動画。
夜、徳井さんにハムを焼いて
もらって、
先にもらったけど、
徳井さん
が口にするまで待っ
ている
アッキー。
こうしたところに人柄と育ち
がどうしても出てしまう。
いくら動画で乱暴な言葉遣い
をしたりしていても、それは
エンタメである、と。
実はきちんと躾けられてお父
様に育てられ、自分も自覚し
ている常識人のお嬢様である
事が、こうしたふとした仕草
に出てしまう。
いくらエンタメでビバンダム

君お腹をパンパン叩いたり、
太り過ぎてズボンのお尻が
破けたりしても、それらは
あくまでエンターテイメント
の映像上の事だ。
ホントの姿は、この動画の
ようなふとした仕草に出る。

食べ方そのものや食事作法や、
あるいは着装の礼儀(男子は
室内では脱帽が大原則等の
社会常識)等は親の躾による。
そして、ハイティーン以降は
本人の自覚による。
そうしたものが脱落している
と、例えば社会人となって企業
の忘年会や
社員旅行一つとっ
ても、非常
に無作法な無様な
事をしでか
す。
そういうのは「恥」なのだ。

そうした日常的な食の作法や
躾は、例えば一人で大衆的な
ラーメン屋や食事処に行って
も出てしまう。
並んだ席で、隣で口開けたま
くちゃくちゃ食ってる人が

いたらどうです?
気持ち悪くなるよ、正味の所。

また、お上品ぶったつもりで
食事しながら、手で受け皿に
して箸を運ぶ人間もいる。
非常に行儀悪い。
箸の使い方も日本礼法まる
無視だったりする。
礼儀と礼節、躾の教育を受け
て来なかったのだろう。
これらは親の責任であると
同時に、本人の自覚の問題
でもある。
自分一人で山の中に生きて
いるのならば別だが、そう
した無作法無礼非礼な類は
人間社会では通用
しない。

現代、とかく礼を失する人間
たちが異様に多い。
特にゆとり世代に。
これはゆとり世代の親たちが
戦後ベビーブームの団塊世代
にあたり、「礼を失する」事
が革命的で革新的で開明的だ
と大誤認した層だったからだ
ろう。
団塊世代の親たちは子どもに
ほとんど躾をしない。
他にも様々な教育を放棄して
いるし、第一男の場合、子育
てなどに関与しない。
実は全共闘世代の団塊世代が
昭和モーレツ社員世代であり、
家庭も子育ても躾も教育も
自らそれらに責任性を帯びる
事をするのを放棄した世代だ。
団塊ダメ世代⇒ゆとり放し飼
い世代へと連なっている。
私はポスト団塊世代だが、そ

うした昭和の歪んだ実像が継
続する平成時代に社会人で
中堅どころになるという空気
の中にいた。
何というか、上は残存団塊世
代が威張り散らし、下はゆと
り世代がてんで仕事できない
し無責任という困った時代が
平成だった。
ただし、反面教師が上にも下

にもいすぎたので、社会的に
揉まれる事は企業定年までは
経験し
た。

そうした世代層全体としての
特徴はあるが、アッキーのこ
のふとした仕草に彼女の良質
な人としての当たり前の姿を
見てほっとする。

にしても、バイク乗りにも
多いが、特に芸人。
室内や飲食の時に着帽のまま
ってのはみっともないから
やめろって。いい大人が。
大抵は自分の妻を「奥さん」
とか人に言う恥知らずなので、
元々躾や行儀や社会的礼節
とか礼儀とは無縁の人たち
なのかも知れないが。
バイク乗りたちで下車時に
帽子を利用する連中も、
キャップ被ったまま食事とか、
おばか芸人の真似はやめろ
ってば。恥ずかしいから。


オートバイ

2023年12月06日 | open




こういうオートバイに乗りた
い。

機関銃は無くていいから。
この前輪まで覆うレーシング
カウルは、マシンの速度が出
過ぎるからと世界グランプリ
では禁止された。
現在でも前輪カウルは禁止。
本当のロケットカウルとは
これだろう。
ロケットというよりも、大戦
中のレシプ
ロ爆撃機の先端み
たいだが。


B17G。最高速度526km/h。
実用上昇限界高度11,582m。
航続距離4,860km。


B17は日本人を殺しまくった。
爆撃機というのは完全に大量
殺りく兵器だ。


だが、現在、大量殺りく兵器を
非難す
る大国は自分では核を持
ち、爆
撃機も数えきれないほど
保有し
ている。
権力者たちの嘘は方便にさえな
っていないが、各国の国民は国
家権力を支持する。
戦争始めたり後押しして人殺し
しているのは、その国の国民だ
よ。日本も然りだ。国民こそが
侵略と戦争推進を支持した。
「軍部の独走」などという戦後
解釈のまやかしにいつまでも
騙されてるんじゃないよ。
我々の先祖が大陸アジア人を
大量に
殺りくし、そして第二
次世界
大戦の中ごろからアメ
リカに先に仕掛けて太平洋戦
を始めた。
宣戦布告なき奇襲攻撃という
手で。
そして、領地と資源の泥棒合戦

に参加したために、敵なる泥棒
から知っぺ返しをくらって日本
人が今度は大量に殺された。
前の大戦はそれだよ。
どちらにも「正義」などは存在
しない。
てめえんとこの権益の為に他国
の他人
を大量に殺していいわけ
ない
じゃん。
目を覚ませよ。国の民よ。


オートバイのみはいつまでも
平和産業であってほしい。
今でも高機動性ゆえに軍用転
化されてはいる
が。



剣法雑感(2016年記事再掲)

2023年12月06日 | open

以下の文は、推敲を重ねずに
徒然と思いつくままに下書き
無しで書き連ねているので、
冗長であることを最初にご理
解いただきたい。

<前段の所感>

刀の操作である操刀法という
ものは、刀術を知らない者に
とっては
未知の領域であり、
刀の柄の握り方(握り締めは
しない。「柄の支え方」
とし
たほうが正確だ)、刀の振り
方は、その道に入っていない
人には
不知の事柄であるよう
だ。

私の娘もそうであったが、娘
が通った道場での剣道の場合、
半年間は
前進、後退の足運び
だけを子どもたちに学ばせる。

そこで大抵の子はふるいにか
けられ脱落していく。

半年も週に何度も前進と後退
ばかり稽古させられるのが嫌
になるからだ。

しかし、剣道では、日常生活
にはない独特の足運びと体の
使い方をする
ので、足さばき
の履修は必修なのだ。いきな
り防具を着けての打ちこみ

などはさせない。

真剣日本刀を使用する抜刀術
においても、古流などは幕末
に発生した
一刀流系の流れを
くむ現代剣道とは足さばきが
異なる面もあるとはいえ、

本的な足さばきは絶対に履修
する必要がある。これは絶対
だ。

また、抜刀剣術はそうした身
体さばきの「体術」と、刀を
操作する「刀術」と、
そして
実際に斬りを覚える「斬術」
の三位一体によって抜刀剣術
が術たり
える。

足さばき、腕の関節の使い方
等を覚えた後に操刀術に進む。

いきなり刀を持って振ったり、
物を斬ったりすることはない。

最初から刀で物斬りしたりす
ると、まったく身体の使い方
をしらないまま
極めて危険で
出鱈目な刀振り回しになって
しまう。

また、操刀法を知らないから、
まともに抜刀したり納刀した
りすることも
できない。
抜刀道なるものでは、剣術・
抜刀術のセオリーを無視して、
いきなり刀も
持ったことがな
い人に物を斬らせて客集めを
したりしているようだが、

れらの目的は「金(かね)」
であり、武術として剣術・抜
刀術を人に習得して
もらうこ
とではない。

現実は雄弁に真実を物語る。
現実的に、抜刀道のみをやっ
ている人は
まったく抜刀や納
刀さえもまともにできていな
い。危険極まりない。

さらに、きちんとした古流剣
術なり古流抜刀術なり、ある
いは古流をベースに
した現代
道なりを学んでいない者が長
になっている団体もあるが、
その
長自身が納刀後の鐔かけ
を親指を鍔の真上に置くよう
なことをしており、
いかにき
ちんとした剣法とは無縁であ
ったかがうかがい知れる。

今回、操刀法のうち、「刀の
握り方」は既出であるので、
刀の振り方について述べる。
刀の軌道、すなわち刀線に
ついてだ。

<刀の軌跡について>
刀(竹刀、木刀、真剣)を振
る場合、一刀流系の現代剣道
や土佐系古流の基本としては
まず、真向から真っ直ぐに振
る。これが基本だ。刀線は自
分の正中線を通る。
刀の軌跡には、真向、左右袈
裟、左右逆袈裟、横水平、突
き、が基本となる。
そして、最終的には敵に正対
して敵の前に大きな時計盤を
衝立のように立てたとして、
360度どの角度からでも隙が
あれば斬れるようにする。
現代防具剣道での打突部位の
固定化、および現代エア武道
での斬切部位の固定化による
カタ流儀の固着等に思考が固
まってしまっている人は、斬
術などで畳表や竹などの据物
(すえもの)を切る場合にも、
別個に決められた「カタ」で
しか切ろうとしなかったりす
る。
形(かた)を錬磨するために
形(かた)で切るのは大いに
修練に役立つが、その形(か
た)でしか切れないというこ
とに陥るとしたら、それは形
(かた)の稽古でもなんでも
ないただの形(かたち)だけ
をなぞった刀振りとなり、
形(かた)を型(かた)に貶
めることを実行していること
になる。
剣道の場合は、一応規則上、
打突部位が決められてはいる
が、本来ならば、刀は敵のど
の部分に中っても有効である。
親指を刀のフクラがかすった
だけで戦闘能力は失われる。
剣道で面を打ちこまれて首を
振ってそれをかわしても、
竹刀が面布団に中っている。
一本は取られないが、それは
本来ならば肩口を斬られてい
るのだから敗北である。
しかし、「戦闘行為の訓練」
であることを剣の道が捨象し
はじめた明治以降、日本剣道
はスポーツと化した。
それはそれでもよい。
また、現代いあい道は武術で
はなく完全に刀に似た道具を
使う旗揚げ判定に一喜一憂す
る人たちを量産するスポーツ
となっている面があるが、ま
だ剣道よりは「敵を斬る」と
いうことを仮想として組み立
てている。
だが、現代武道の世界では、
前述したように「形(かた)」
を「型(かた)」と固着思考
させてしまう危険性が多分に
ある。

<何を学ぶか>
構造的に剣を取っての「実戦」
が明治士族の乱以降存在しな
くなったので(日中戦争およ
び昭和大戦の特殊事例は除く)、
いたしかたないことであり、
また、袴をはいて日本刀を武
器としての実戦などは時代錯
誤も甚だしいので、現代武道
および抜刀術において「実戦
論」を説くのは論外である。
あくまでも、「いにしえの武
士が身に着けていた歴史上の
伝統武技」の系譜を引くもの
として現代の武道なりを捉え
ないと、見る方向を誤る。
現代はどんなに思考のベクト
ルを戦闘モードに無理矢理振
ろうとも、現代戦において袴
をはいて日本刀を手に戦闘行
為に及ぶというケースは不在
であるので、日本刀を使う武
技に実戦史観を持ち込むのは
間違いだ。
ではなんのために学ぶかとい
うと、「温故知新」の一点し
かない。
先人が踏みしめて歩んで拓か
れた道をたどり、古き武人た
ちがどのように稽古を通じて、
あるいは命がけで何を獲得し
て行ったのかを学び取ること
だ。
そうした精神作業を自分に対
して厳格に行なわない限り、
剣術や抜刀術を剣道やいあい
道として「人間形成の場」と
することはできない。
また、現代戦においては、日
本刀を武器とはしないので、
精神的涵養を目的としない剣
技習得は、単なる長い刃物を
使っての殺人技法の習得にな
ってしまうので、心の修養が
伴わない剣技などは学ばない
ほうがよい。
これは剣術と剣道、抜刀術と
いあい道の区別はない。剣技
を学ぶ現代人はどうあるべき
かの根幹なので、刀法技術だ
けをテクノロジーとして得よ
うとする者には剣技などは学
ばせるべきではない。
特に刀を使っての物斬りのみ
に特化したエリアに足を踏み
入れると、フルコン系武術の
領域に住する人々がつとめて
人的品格に問題があったりす
ることが残念ながら多いとい
う現象がみられるように、心
のないただ戦闘武技だけを錬
磨したハートが不存在の族
(やから)となってしまう。
現実的に剣術を標榜する人た
ちにおいても、極めて品性下
劣で己の武技のみを誇り他者
を排撃することのみに躍起に
なっている危険な精神領域に
入っている人は多くいる。
いくら武技のみを学んでも人
間の人格や社会的良識は形成
されない。刃物や身体を使っ
ての人殺しのテクニックが身
に着くだけだ。(軍隊におけ
るマーシャルアーツは殺人戦
闘武技であるので目的が一直
線に明確だが、現代武術・武
道はそれを目的とはしない)
そういうのは剣の道でもなく、
また剣をかつて帯びた治政を
司った武士が目指すところで
もない。
剣の世界は、たとえそれが術
であろうと道であろうと、
「人の為になる」という
人間
性が作られることに寄与しな
い限り、現代ではまったく意
味がない。
人間形成を無視する剣法など
は一切やらないほうがよい。
人は人から学ぶ。そして、賢
者はさらに歴史から学ぶ。
今はもう生きていないいにし
えの人が残した貴重な訓を学
び取る材として、そうした何
ものにも代えがたいものが詰
まったタイムカプセルとして、
先人が後の世にまで残し伝え
た伝統武技は学ぶべきだろう。

<刀法 -袈裟->
剣道をやっている人ならば、
ごくごく基本的なことで小学
生低学年の頃に学ぶことだが、
剣道にノータッチだった人は
未知の領域のことがある。
真っ直ぐに真ん中を切る「真
向(まっこう)」の場合にも、
体と刀(竹刀、木刀、真剣)
の専門的な使い方がある。
これは、大工さんがノミやカ
ンナの大工道具を使うように、
あるいは料理人が包丁を使う
ように、お百姓さんがクワや
スキを使うように、それぞれ
の分野にはそれぞれの専門的
な道具の使い方というものが
ある。
剣法においてもまったく同じ
であり、刀には刀の使い方が
ある。
真向切り下ろしは意外と身に
着けやすい。これとて、基本
を教わらないと自己流では絶
対にまともな切り下ろしはで
きない。
なぜ先達の士から学ぶことが
必要かというと、近道だから
だ。
学校になぜ通うか。これは教
育水準を上げて国家社会を知
的で豊かにすることもあるが、
具体的な内実としては、先人
が解いた知を学として学ぶ
ためだ。赤ちゃんが教育を受
けずにそのまま育ってピタゴ
ラスの定理を発見するだろう
か。

剣法も同じで、先人が切り拓
いた術技を存命中の練達の士
から学ぶことで限られた人生
の中で身に着けるために人か
ら学ぶ。自己流のみでやると
したら、歴史上の先人たちが
到達して獲得した領域を一か
らの「発見」からスタートし
なければならなくなる。
そうした無駄を排除し、効率
よく、自分の存命中に成果を
上げるためにも先人の「先生」
から学ぶのである。
学習には座学と実技が車の両
輪で、そこに実践が加わる。
書籍や講義だけ聴講する座学
だけでも駄目だし、また理論
なき実技も全く意味を成さな
い。
さらに理論と実技の実践なく
ば、絶対に大成されない。
技術が術技の領域にさえ至ら
ない。
まず、正しい理論を学び、技
術の仕組みを覚え、それを錬
磨して習得し、実践を経て開
眼して行く。
剣法の道程はこれしかない。
精神的な心は、実践している
人から何かを学びとる。
師は弟子を選べないが弟子は
師を選べる。「師を選べ」と
は昔から云われることであり、
心がない師に就いても得るも
のは心の「ダークサイド」だ
けだ。
師と弟子という関係性でいえ
ば、弟子の方が優位性がある。
「ろくでもない人間」を師と
して選ぶことを拒否できるか
らだ。存外、武術家という人
たちには人品高潔な人物は少
ない。特に、武芸売りを専門
職としている者で人格高潔な
人物には私はお目にかかった
ことがない。多くが狡猾で金
に汚く、さもしく邪(よこし
ま)な目の光り(=濁り)を
している。残念ながらこれは
現実だ。
また、いくら技術のみが突出
している人であろうと、ある
いは精神面が人格者であろう
と、その両方が両立していな
い人から学ぶ意味は希薄だ。
真の剣技は、高次の領域に行
けば行くほど、人間的な懐の
深さが出てくる。
理由は簡単だ。
そうでないと、死んでしまう
からだ。権謀術数が人間の社
会では張り巡らされている。
真の剣技の高次元領域に達し
た人は、おしなべて温厚であ
る。だが、いざという時には
毅然と事態に立ち向かう。
そして、人柄は丸くとも隙は
一切ない。それが剣士だ。

さて、本題に戻る。
袈裟切りにおいては、剣を取
ったことがない人は、まるで
野球のバットやゴルフのクラ
ブのようなスイングをしてし
まいがちだ。
だが、日本刀の場合、支点と
力点と作用点の位置取りと意
識的設定がとても大切なので、
「特殊な振り方」をする。
理由は「そうでなくば切れな
い」からだ。ただこの一点で
ある。
剣法のうち刀技においては、
すべて「ただ敵を切るため」
の一点に集約される。それを
先人たちは開発して残し伝え
てきた。

剣術における袈裟切りの基本
は「左拳は常に己の正中線を
通る」ということだ。

赤線が自分の正中線である。
青線の横面を切る場合も、黄
色線の肩口から鎖骨を切断す
る場合も、
緑線の胴を袈裟に切る場合も、
すべて左手の柄手は己の正中
線を通る軌跡で刀を振るのが
基本だ。
なぜ「基本」かというと、人
体の場合には身幅があるため、
あくまで左拳正中線が基本で
はあるが、切り抜くためには
多少それが可変するからであ
る。
また、己の右からの左袈裟で
体を右に(敵の左側に)スッ
と移動させる体転を伴いなが
らの袈裟切りの場合は、さら
に複雑な動きになる。
だが、基本は左拳は己の中心
軸からは外れない。

体転を伴う袈裟切り。切り抜
いた瞬間から慣性は抜重技法
により
完全収束させて剣を静
止させる。左拳は己の中心軸
から外れず、
切先も敵方向か
ら外さない。



これも同。これは刃引き刀に
よる切断だが、上掲の画像も
これも体面が被切断物に正対
していないのは、それは右方
向への体転を伴う業で切りを
行なっているからだ。これは
物体と体の位置関係を観察し
て読み取れる人には読み取れ
ることだろう。



<袈裟切りの際のエイムポイント>
剣道においては、「切り返し」
の稽古を必須とするが、そこ
では左拳が己の中心軸をぶれ
ず、竹刀を担がないことを確
認する。
また、初心者のうちは、竹刀
での稽古では打ち込み稽古で
打突部位を見たほうがよいだ
ろう。あるいは真剣での物体
斬りにおいても、斬切の入刀
ポイントを見た方がよいだろ
う。
だが、これはあくまで初心者
のことであり、錬磨が進むと、
打突部位や斬切部位などは見
ていない。遠山の目付のまま、
全体の動きやポイントを察知
している。「目付け」とはウ
ォッチの凝視のことではなく、
シーの全体像を捉える方向に
目線を向けることである。
このことは300km/h→60km/h
に急減速するレ
ースの世界で
も同じで、二輪レースの技術
で言えば、コース上のブレー
キングポイントである目視点
の標識たる「リファレンスポ
イント」(これはレーサー全
員が各自持っている)を意識
はするが、それを凝視するこ
とは決してしない。ふとぼん
やりと眺めるのみでピンポイ
ントを察知できる。例えば昔
の筑波サーキットであれば、
直線で前を見ているがリファ
レンスポイントであるガード
レールの切れ目が視野を通過
した瞬間地点をブレーキ開始
に設定する、とかがそれだ。
こうしたことは錬磨によって、
「そのもの」に視点を合わせ
ずに全体像を把握する中でピ
ンポイントをも察知できると
いう、そういう能力が獲得で
きるのである。
飛行BB弾を抜き打ちで切る修
心流の町井勲先生は視力はそ
れほどよくはない。
だが、武技を知らない人たち
は「すごい動体視力だ」など
と評したりする。
町井先生は凝視したり目視で
ピンポイントの捉えなどして
いない。
野球においても「球をよく見
ろ」と言われるが、見て合わ
せていてはバットは確実に振
り遅れる。
飛行物体や素早く動く物にヒ
ットさせるには、上述の「全
体像で捉える能力」に加えて
「予測能力」という特殊能力
が先鋭に錬磨されていなけれ
ばならないのだ。
素早い動きの剣道においても、
いちいち相手が打ちこんでく
る竹刀を見ていては後の先
(せん)なども取れない。
いわゆる「遅れを取る」という
もので、自分が先(さき)に打
ちこまれて負ける。
剣道の場合は、小手などの拳や、
敵の目の動き(まぶたの開き具
合)などでかかりを察知してお
こり以前にこちらから先(せん)
を取ることも可能だが、矢や手
裏剣などの飛行物体を切り落と
したりかわしたりするのは、す
べて目視によってのみでは不可
能だ。「予測する」のである。
しかも左脳で理論的に解析する
のではなく、動体能力として反
射的に予測できるように自分の
身体をそこに持って行くのであ
る。
それが錬磨だ。

こうした能力は、静止物体であ
る「据え物切り」をしているだ
けでは絶対に身につかない。
形(かたち)稽古ばかりしてい
る剣士などは、動的訓練を積ん
だ昔の剣士と対峙したら、たち
どころに斬り倒されてしまうこ
とだろう。
そうした「暗愚」なカタチ稽古
の刀体操にならないためにも、
据え物で刀の動きの仕組みを理
解したら、形(かた)ではない
「自由斬り」によるその場での
思いつきで斬っていく稽古も必
要になってくると思われる。
どんなことでも自由自在に刀を
扱え、「切ったり」あるいは
「斬ったり」することが刀法と
しての静止物体斬術稽古になる。
あらかじめ抜刀して、据え物の
前に進み、足を止めて固着させ、
刀を伸ばして間合いを計り「え
いやっ」と斬る、というような
ことは武術武道武芸とはまった
く一切関係がない。それらは武
技とは別ジャンルのことである。
それはあたかも、ゴルフの打ち
っぱなしでの練習がコースを回
るゴルフのプレーではないのと
似ている。トンカチでいくら釘
打ちができても、物や家を作ら
ないトンカチでの釘打ちは意味
がないのと同じだ。
剣法の剣技であるとせんとする
ならば、静止物体に抜き身で接
近して足を止めて切るというも
のは武芸とは無関係な行為だと
知ろう。
そして、そうした日本刀使用法
は、「動かぬ捕虜の首切り」に
似ているということにも気づい
てほしいと願う。

稽古として静止物体を切る場合
も、本来は全体像こそがエイム
ポイントであるのだが、巻き畳
表の場合も巻き藁の場合も、斬
り込む入刀点ではなく、斬り抜
ける点に意識を持って行ったほ
うがよく斬れる。
また、切断はプリンをスプーン
でえぐるような曲線軌跡にはさ
せずに、直線的にまっすぐに切
断することが大切だ。

土佐英信流の古流においては、
業によってはえぐるような刀法
も存在するのであるが、それは
基本技術を身に着けた剣士が行
なう高度な術の範疇であり、物
体斬りの基本は「真っ直ぐに直
線軌跡」である。
それを刀身が湾曲し、さらには
断面が曲面になっている日本刀
を使って
三次元的な要素をクリ
アして切り落とすのであるから、
基本とはいえ、これはやはり基
本なりの「術」なくば達成でき
ない。
最初から刃を傾けて刃筋を取る
などという刀法は存在しない。
敵があらかじめそこにいてくれ
るということは万が一にもない
からだ。
それは首切り用法であって、対
敵動作たる剣術・抜刀術ではな
い。
(首切り用法としてもあらかじ
め刃を傾けて刃筋を決めるなど
というド素人用法は存在しない)

また、操刀法が正しく(剣法に
おける「正しい」とは、適性が
最大値で発揮される効果のこと)、
刃で切るのではなく刀法と刀身
で切るということができると、
刃引刀だろうとある程度の物体
は切断できる。
雨傘の先で長く伸びた草の茎を
スパリと切断したり、あるいは
竹刀で新聞紙を破くのでなく切
断したり、名刺で割り箸を折り
切ったりできるのも、合理的な
物理現象を刀法の理によって現
出せしめているからだ。
だから、剣法においては「刃味」
のみに頼って小手先だけで竹を
切ったりしても、それは剣術の
刀技の核心領域には直結しない。
刃を使っての切りも剣技の中に
は存在するが、刃による切りは
あくまでもコンプリートとして
の術の中の「一部分」でしかな
く、そうした小手先技術に固執
するのは術の深淵を見ることを
しておらず、底が浅い。

剣士諸氏におかれては、よくよく
吟味工夫されたし。

-関連事項-
・柄の握り方
・刀の柄の握り方
・刃筋
・刀法
・切ることと止めること
・刀を曲げてしまうということ


ナンシーおじさん ~二輪界をめぐるバカバカしい世相~

2023年12月06日 | open



最近、出会った人に二輪の排気量
を尋ねる人は「ナンシーおじさん」
と呼ばれてゆとり世代には嫌われ
るらしい。
背景は、排気量マウントを取る
くそ馬鹿な中高年の男が多いから
のようだ。
バカバカしい。
排気量マウント取る奴に乗れてる
奴は一人もいない。これは断言で
きる。
免許制度簡易化以降に大型二輪
免許を取っていい気になってる
イタいオヤジたちが排気量マウ
ントを取るのだろう。
大抵、峠では125あたりにぶち
抜かれたりする(笑

そして、バカバカしいのは、
「ナ
ンシーおじさん」と、排
気量を尋ね
ただけで括るバカ
脳世代全般の
そのステレオ発
想だ。幼稚過ぎて
思い切り笑
える。はいはい、円周率は3
ですね、と。

単純にオートバイが好きなら、
機種の排気量や各システム等は
知りたくもなるし尋ねもする。
できれば走行フィールについて
も教えてもらいたい。
だが、排気量を尋ねたら即「ナン
シー」として排除意識を動員さ
せる今のゆとり世代は、やはり
ゆとり脳の思考力の稚拙さを
感じずにはいられない。
マウントとは無縁の人たちも
排気量を質問しただけでレッテ
ル貼りで排除したがるゆとり
世代。
そして・・・。
これまた事実だが、ナンシー排除
大好き層たちで、まともに二輪に
乗れてる奴は見たことない。
結局、二輪にまともに乗れない
奴ら同士でマウント取ったり、
排除したりしているだけの事だ。
くっそくだらねえ。

以前、峠で一服していたら、親子
でツーリングしているという二輪
乗りたちに話しかけられた。
「このバイクは排気量はどの位
なんですか?」と。
「399ccですよ」と答えた。
訊かれて全く嫌な感じはしなかっ
た。

排気量を尋ねられただけで嫌悪感
を持つというのは、マウントを
取ろうとするバカおやじたちの
言動以前に、そのようなステレオ
意識で排除感覚に束縛されている
自分が極めて不自由な人間になっ
ていると、今のナンシー排除大好
き人間た
ちは思わないのだろうか。
思わねえんだろうなぁ(笑
いつまでもヤキトリ石像載りかま
してグダグダくっちゃべり運転
してるくらいだから。進歩や進化
や変化や発展とは無縁の存在なの

だろうから。

結局のところ、極言すれば、排気量
マウント取りおやじたちも、ナンシ
ー排除連中も、本物の二輪乗りでは
ないのだと思うよ。いや、ほんとに。
だって、自由を求めて人間を解放
に向かわせるオートバイという乗り
物とは真っ向から敵対しているから。
自分で自分を不自由人にする奴が
バイク乗りを名乗る程滑稽な事は
ねえぜ。
両者どちらもイタすぎる。
てか、カッコ悪くてダサすぎる。

驚いた動画を見たぜ。
動画アップ主は中高年者らしいが、
今の若者に嫌われないようにする
ためには、みたいな事言ってるの。
ナンシーおじさんとして嫌われな
いように排気量を尋ねるのはやめ
ましょう、とか。上から目線で。
バカ丸出し。
おまえ、誰か特定の層に気に入ら
れるために二輪乗ってるのか?と。
まあ、前述した「バイク乗り」で
は無い奴の一人だね。ガチで。
くそダサ。
誰かに媚(こび)売るために二輪
に乗る。

その没主体性で、どうして独立
自尊、すべて自分で判断して自分
が行動を実行して自分が責任を
取る二輪車という乗り物を走らせ
られようか。
久しぶりに本バカの動画を見たよ(笑

あと、私自身は話しかけられたり

して対話が進むと相手の二輪車の
排気量を尋ねたりする。
その時、「400です」とか回答され
ると、言下に私は相手に訊く。
「400ccぴったり?」
と。
訊きたいのは排気量であって、販売
クラス分けではない。
その機種特定固有の実排気量が知り
たいから訊くのだ。クラス分けなど
興味ない。それらに興味あるのは
排気量クラス分けマウントおやじ
たちだけだろう。

排気量を尋ねたのにクラス分けで
答えるのは、それは答える側も
実はナンシーおじさんたちと同じ
意識が底辺にあるのではないかな?
カワサキZ900RSは900ccじゃ
ねえっ
つーの(笑
尋ねるのはオートバイの事を知り
たいので
あって、クラス分けを知
りたい
のではないのに、尋ねられ
るほう
も二輪エンジンの排気量の
核心部分が解っていない。
ほんとはさらにストロークやボア

まで尋ねたいくらいなのに。
二輪についての洞察が浅い。

ぼや~んと漫然と二輪を転がして
る。クラス分けと自分の乗る車に
排気量別のくだらぬコンプレック
スを持ちながら。

だから、排気量訊かれただけで
マウントだとか感じるのでは。
そういう人間たちは、逆に大型
免許を取って大きな排気量の二輪
に乗ったら、今度は自分が優越感
持ったりする
のでは。根底に排気
量劣等感持っ
ているから。
それね、はっきしいって二輪乗り
ではないです。種族が。

あと、ドンズバ言ってやろう。
二輪の排気量について、小排気量
から大排気量に乗り換える事を
「ステップアップ」と口にする
奴。
これ、二輪乗りではありません。
ニセモノ。
形だけ二輪車を転がしている種族。
排気量を凌駕する二輪の本当の姿
をきちんと見つめる心が意識から
欠落しているからです。
排気量でかけりゃ偉いとか思って
るなら、二輪でなくダンプでも
乗ってろ、てやつね。
二輪乗りの諸君は、本たわけに
ならないように気をつけよう。
「自分」を持ってください。
オートバイ乗りというのはそれ
だから。

 


ホンダ スーパーカブ

2023年12月06日 | open



今、ホンダスーパーカブが
大ブームだ。
タフネスエンジンと超絶燃費。
基本設計は1958年登場から大
きく変更されていない。
自転車にポンポン発動機を着
けたモペッドの「カブ」は戦後
1952年に開発発売された。
それがホンダの始まりだった。
ただし、小さいながらも力強い

という意味で英語の子熊のカブ
という名が商品名として命名さ
れた。

センスある。のちのホンダの
モンキーやゴリラなども同じ
ような発想での命名だろう。
1958年には本格的専用車体の
「スーパーカブ」が発表され、
全世界の歴史の流れを変えた。
以降こんにちまで1億台以上が
生産された世界トップの歴史的
機種となっている。

ただし、スーパーカブが「最新」
の「カッコいい二輪車」とされ
たのは1950年代~1960年代前半
のみだった。
その後、多くの日本製スポーツ
オートバイが登場した事と、カ
ブが新聞配達や牛乳配達、出前
二輪、郵便二輪として実用性を
最優先する機種として徹底的に
使用された事、その二点が「かっ
こいい最新二輪」としてカブが
短命だった背景
だろう。
「バイク」という単語が登場し
た1970年代初期以降、1980年代
の空前絶後の日本のバイクブーム
さ中あたりまでは、ホンダのスー
パーカブは「ダサいバイクの代
名詞」だった。
若者は誰も乗ろうともしなかった。
カブは配達用か高齢者のおじさん
しか乗っていなかったのは歴史的
事実だ。
1983年から連載が開始されて、
バイクブームの火付け役ともなっ
た劇画『バリバリ伝説』でも、
カブはダサバイクの象徴のような
描き方がされていた。
あれは適切に時代性を表現して
いた。

1980年代の歴史的金字塔二輪
劇画である『バリバリ伝説』
(1983〜)での描写。第2話目。



これ、社会的現実だった。

だが、1980年代初期、高速道路
料金訴訟原告団のオルグで、東京
から大阪まで訴訟代理人弁護士と
二人で走った事がある。私は東京
エリアの学生の代表兼訴訟の連絡
会の書記長として。
その時、大阪の某大学の寮に行っ
て大阪での原告団結成の魁となる
ように交渉した。
まあ、なんてのか幕末の同盟結成
の交渉のようなもの。
結果的に、その大学の学生二輪部
が関西エリアでの裁判闘争の中心
メンバーとなって活躍した。
社会人部門では高橋源一郎の弟が
関西圏の活動の取りまとめをした。

で、その某大阪の大学の寮に行っ
た時に、翌日がクラブの部活での
ツーリングだった。
我々は東京に戻ったが、出発の時
のその大学の二輪部の部員たちの
いでたちを見て、我々東京組は正
直驚いた。

全員ガチもんの仮装ツーリングな
のだ。

さすが大阪、東京には当時そんな
のいやしねえ(笑
その中で最高にウケたのが、スー
パーカブに跨って月光仮面の仮装
をした学生だった。
「何これ?」と私が言うと「ええ
やろ?これからはこれやで(笑」
と言っていた。
大阪のお笑いというのは、一つの
対抗文化的側面を有しており、
サブカルの原初的かつ根幹の軸線
を持っている。
東京ならびに首都圏でカブに乗る
若者など一人もいない時代に、
大阪で広く二輪活動していた大学
生はあっけらかんと「ネタ」とし
てカブを復活させて実走させてい
たのであった。
これ、ちょいと軽いカルチャー
ショックを受けた。
東京首都圏では『バリ伝』系の
まじ走り系がほとんどだったか
らだ。
どんな形であれ「バイクを楽しむ」
という事を実際にやる大阪人に
面食らった。

また、源一郎の弟は私に言って
いた。
「なんで東京のバイクは新車ばか
りなの?」と。
そんな事はないのだが、東京では
新型車が多いし、数年落ちでも
新車のように綺麗にして乗ってい
る人たちだらけだった。
そして、大阪を走っているオート
バイは新品ピカピカは殆ど無くて
ぼろぼろのバイクだろうと直し
直しでつぎはぎだらけのように
なっても大阪人たちは二輪を大
切に乗っていた。
それが1980年代初期の日本の
東西二輪風景の現実だった。

私は思うに、今のスーパーカブ
完全復権のムーブメントを創出
したのは関西の人たちからの
発進ではないだろうか。
完全に根拠のない推測だが。
俯瞰するに、ホンダの今世紀に
入って以降のいろいろなカブ
戦略はそれの後追いのような
軌跡が伺える。

ただ、今のカブブームは、かつて
のカウンターカルチャー的側面、
「ネタとして楽しむ」という面
ではなく、本気で1950年代の
「かっこよかったカブ」の復権
を射程に入れているのがよく分
かる。
先日、おもしろい対話があった。
私と同学年の広島市内の二輪乗り
の人とウマが合って話し込んだ。
その人は今のカブブームに何とも
違和感がある、と言う。
私も同感だ。
訊くと、「カブというのはダサい
バイクの象徴で、どうにもスンナ
リ来ない」と言う。
これ、1980年代感覚ズバリその
ものだ。
私もホンダカブの能力的優秀性
は大いに認めるが、スーパーカブ
が「華麗」で「お洒落」で「かっ
こいい」「いけてる」バイクだと
思った事は一度も無い。
私がカブがいいなと思うのは別な
感覚でカブに好意を寄せるので
あって、決して華麗で洗練された
シティ派二輪としては見ていない。
見ていないし、実際カブの立ち位
置は半世紀以上事実として社会的
に社会全般でそうだっただろう。
なので、ホンダがメーカー広報で
最近やたらとカブにお洒落感を出
してCM展開しているのは、「著し
く滑っている」と感じるのである。
カブの本来の持ち味を軸線ぶれず
に打ち出しているのは、ハンター
カブのような実用実力路線だろう
と思う。
だって、はっきし言って、街中
のタウンビークルとしてはカブ
よりスクーターのほうがお洒落
で便利でカッコいいもの。これ
本線の軸としての本命で。
1980年代のカブは、穴馬的な存在
として大阪の大学生たちがネタ乗
りとして乗っていた事実が、カブ
の歴史的存在性の真実を体現して
いると思える。

ただ、時代が変わると共に、今
だけを見る人たちは作られた今
しか見ないので、歴史的経緯や
歴史事実など斟酌しない。
現代では、スーパーカブが本気で
「カッコいい」と思う若者が増え
ているらしい。
カブのかっこよさは、本当はそう
したチャラいとこではなく、底力
を持つタフガイとしてのかっこ
よさだと思うのだけどなぁ。
なんというか、AK自動小銃や
同田貫のような。

戦国時代の本物の同田貫などは
実用一点張りで、とても美術刀
剣的位相からは下列に置かれた
刀剣だったけど、変な刀剣ブーム
で同田貫は美術的にも優秀な日本
刀であるかのような大誤認が世間
に広まった。
今のカブブームがそんな曇った
視点に支えられていない事を祈る。
カブの本当の良さをそれらのチャ
ラ系視点は完全に曇らせている
から。
カブの本当の実力と魅力ではなく、
まるでイケメンモデルに向ける
視線と同じ視線でカブを見るの
は、それは私はカブの本当の姿
を見ていないと思うのよね。

かわいいと思うけど、カッコいい
とか華麗だとか、ましてやお洒落
なシティビークルだと私は思った
事は一度もない。
「備えあれば憂い無し」の頼れる
やつ的な存在認識が、本来のカブ
の本当の姿を的確に捉えているの
ではないかなぁ。






冬の防寒対策 2 ~オートバイ~

2023年12月06日 | open



真冬に凍結路以外をロングツー
リングし続けている友人からの
アドバイス。
冬季二輪走行では指先が防寒
グローブを着用していても凍
える。
それの防寒対策として薄い手袋
を下に着けるのが効果的なのだ
が、その際にはぴったりとした
手袋だと、中に空気が保存でき
ず、逆効果で凍え切る。
それゆえ、下手袋として最適な
のは、ポリ製の作業用手袋なの
だそうだ。
これを防寒冬用手袋の下に着用
する。
その際には注意が必要で、輪ゴム
で手首をとめて中の空気が外に
逃げないようにするのだそうだ。
これにより指先も人体の体温に
より、極寒の中でも手に汗がに
じむ
ほどに温まるという。

私も試してみた。
効果抜群だ。
でも、一番厳寒期二輪走行で手
の防寒に
効果あるのは、新聞配
達の原付
バイクなどでよく使わ
れているハン
ドルカバーだけど
ね(笑

あれは超極寒期でも素手で運転
できる程。

これ、史上最強!
どうせ考えたの日本人だろう(笑
これとラーメン出前用懸架装置
は世界一(笑


冬の防寒対策 ~オートバイ~

2023年12月06日 | open



冬場のオートバイの運転では
防寒防風対策で重要なポイント
ある。
それは、首周りと喉元を外気
にさらさない事だ。冷風が
被服内に入り込むのも防ぐ必

要がある。
そのために二輪用の防寒アイ
テムが現在は多く出回ってい
るが、防寒の方法はウインター
スポーツからのノウハウをかな
り採り入れている。


とにかく、首周りを保護する。
ぴったりしたのは内部に空気
を保存できないので凍える。
内部の暖かい空気を逃がさない
構造の物が良い。
首周りと喉元、胸元に冷気が
入り込まないようにする。
冬季二輪走行の防寒はネックが
ネック。
秋口あたりまではスカーフ等
で防寒は十分だが、秋の終わり
から冬季にかけては完全防備で
ないと低体温症となり走行不能
どころか生命の危険さえ伴う。
皆様も二輪走行での防寒防風対
策は万全に。