バイク歴一年未満の二十代女子、
小さなバイクで旅に出ました
【モンキー125】
もう引き返せない、人生初のバイク旅!#2
乗れてる。
乗れる乗れないは機種や排気量は
関係ない。
乗れる人は乗れるし、乗れない人
は乗れてない。
オートバイの楽しみ方はいろいろ
ある。
ただオートバイを走り込みのため
だけのマシンとして使うのもその
一つだろう。
だが、オートバイで見知らぬ世界
に行く楽しみを捨象しては、二輪
の楽しみの8割以上を捨て去って
いる事は間違いなく、それはとて
も勿体ない。
オートバイと共に行く。果てしな
く。
これ、かなり二輪車での楽しみの
大きな部分を占める。
車でもいいじゃないか、なのでは
ない。
寒いし暑いし汚れるし、そして何
よりも危険なオートバイという乗
り物で共に行く事に意味がある。
手作り料理でなく、レンジでチン
でいいじゃないか、というのとは
違うのに似ている。
そこには一つの「豊かさ」がある。
苦難と共にある人間的な豊かさが。
実利だけ優先するならば、人は
あえて二輪車になどは乗らない。
だが、人の中には二輪に乗る種族
がいる。
それは、その種族が「二輪乗り」
だからだ。
単に特定区間を走らせる事だけ
を選択しているのは「二輪乗り」
ではない。つまり乗り屋でもない
ただの「走らせ屋」でしかない。
オートバイ乗りはオートバイに
乗って見知らぬ世界に走り出す。
たとえ、それが闇夜であっても。
モーターサイクルロードレースと
いうスポーツがある。モーター
スポーツだ。
だが、レースというものは、最初
は旅から始まった。
自転車でもレースが「ツールド~」
とあるのは、それは二輪車での
遠路の道行きの旅から始まった
からだ。
オートバイで道を行く。
独りで。あるいは友たちと。
車や電車ではない。
あえて悪条件の二輪で行く。
ある時には目的地を定めて。
ある時には、行き先を決めずに。
走る道の一つ一つ、風景のすべて
に出会いがある。
オートバイで外に出る。
自分の知らない世界へ。
オートバイは連れて行ってくれる。
そして、その道程の中で、オート
バイと対話しながら走る。
景色の中に溶けながら。
オートバイはそれがいい。
カワサキの400新型。
ホンダのこのカテゴリーの車種
はどう転んでもクソダサで、な
ぜあれが現代においては超絶人
気なのか不思議で仕方ない。
が、カワサキの400のこれは、
同じカテゴリーの機種なのに
なぜかカッコよく見える。
なぜかカッコよく見える。
ホンダのバイクは、何というか、
ブランドスーツにゴム長履いて
るようなダサさがあるのだ。
デザインシルエットがそもそも。
ホンダはSSやレプリカはイケ
てる。NSRのシルエットなどは
最高だ。曲がらないけど。
ホンダは復活モンキーの造形な
ども最高にセンスが良い。
だが、女子にも人気のあの250
はダメだ。一定数の「ダサい」
と評する人たちがいるのも頷け
る。
ダサいもんはダサい。形が変
なのだ。
カワサキは全機種においてダサ
さとは無縁だ。
これは大昔から。
そして、ヤマハにお株を奪われた
ので有名にはならなかったが、
カワサキは特筆すべき特徴があ
る。
それはハンドリング。
ある時期以降のカワサキのハンド
リングは素晴らしいものがある。
それは「ハンドリングのヤマハ」
に匹敵どころか抜く機種も多い。
だが、世間のカワサキイメージは
「漢カワサキ」が定着してしまい、
特筆すべき良性ハンドリングに
ついては言及されないまま40数
年が過ぎた。
実質、エンジン特性もシャシも
ホンダ88年型NSRより優れて
いてNSRより加速が速かっ
たKR-1のハンドリングや、
その後のゼファー400、ゼ
ファーχのハンドリングの良
さはあまりクローズアップ
いてNSRより加速が速かっ
たKR-1のハンドリングや、
その後のゼファー400、ゼ
ファーχのハンドリングの良
さはあまりクローズアップ
されないままだった。
カワサキに乗った人があまりカ
ワサキ離れを起こさないのは、
あの「隠れた良質ハンドリング」
に背景があるのではなかろうか。
やはり、ダシのよく利いた蕎麦
つゆやうどんつゆ、隠し味の良
いスープのほうがまた食べたく
なる。
カワサキのマシンはそうした
「静かな隠れた味」を持って
いる。「パワーのホンダ」「ハ
ンドリングのヤマハ」「マニア
のスズキ」だったが、カワサキ
は無骨さのみで捉えられがち
だった。
実はカワサキこそが良質ハンド
リングを持っている。
これ、知られざる事実として
マシンに落とし込まれている。
ハンドリングはオートバイの命
だ。
その命とつながるために自分の
命を乗せて走る。
カワサキは命と命を繋ぐオート
バイという乗り物を作っている。
基本的に乗り方がまるで違う。
判りやすい例。
車種が違っても、乗り方は同じ。
車体のポジションが異なるだけ
で、乗る際の要点はどの車両で
も同じだ。
同じオートバイなのだから。
ただ、私の乗り方は、「現代に
おいての多数派(1980年代に
はごく少数派)」の人たちとは
根本的に異なる。
私は16才の高校1年の公道乗り
始めから今のスタイルだが、
始まりが別方向だと、たぶん
ずっとそのままで終わるだろう。
その違いは、走りの為の走りか、
そうでないかの違いだ。
単なる移動手段として二輪を
利用流用している人たちとは
まるで違う乗り方を私はする。
同じオートバイでもそういう
二分の方向性が現実に確実に
存在する。
それは起点からすでに二股に
分かれた道のようなものだ。
乗り方走り方の方向修正をした
いならば、スタート地点に戻ら
ないと、行く先で合流は絶対に
しない。
そして、その戻るという事は、
考え方を基本基礎に戻すという
事でもある。
しかも、間違った方法を基本と
思い込むことは拒否して。
間違った事を間違った事として
認識できる素養を自らの手で育
てないとならないし、そうした
自分に厳しい視点を持つ勇気が
ないと、進む先もそれなりの地
点でしかない。(たぶん行き止
まりか崖で道が途切れている)
判りやすい例。
車種が違っても、乗り方は同じ。
車体のポジションが異なるだけ
で、乗る際の要点はどの車両で
も同じだ。
同じオートバイなのだから。
ただ、私の乗り方は、「現代に
おいての多数派(1980年代に
はごく少数派)」の人たちとは
根本的に異なる。
私は16才の高校1年の公道乗り
始めから今のスタイルだが、
始まりが別方向だと、たぶん
ずっとそのままで終わるだろう。
その違いは、走りの為の走りか、
そうでないかの違いだ。
単なる移動手段として二輪を
利用流用している人たちとは
まるで違う乗り方を私はする。
同じオートバイでもそういう
二分の方向性が現実に確実に
存在する。
それは起点からすでに二股に
分かれた道のようなものだ。
乗り方走り方の方向修正をした
いならば、スタート地点に戻ら
ないと、行く先で合流は絶対に
しない。
そして、その戻るという事は、
考え方を基本基礎に戻すという
事でもある。
しかも、間違った方法を基本と
思い込むことは拒否して。
間違った事を間違った事として
認識できる素養を自らの手で育
てないとならないし、そうした
自分に厳しい視点を持つ勇気が
ないと、進む先もそれなりの地
点でしかない。(たぶん行き止
まりか崖で道が途切れている)