それはドラム。
それはドラム。
昼メシ食うべ、と思ってカフェ
江戸期に住んでたとこは明治
以降は御作事町(おさくじち
ょう)と呼ばれたとこで、海
の上(笑
出島みたいな人工島に江戸時
代は住んでいた。
海の上だぜ海の(笑)。お台場
たいな。変なとこだよ。
井戸水とかぜってーしょっぱ
かったにちげえねえ。
まあ、もっとも、三原という
町自体が海の真上に無理やり
戦国末期から江戸初期に作ら
れた町だから仕方ないけどさ。
だから三原の城は「浮き城」
と呼ばれた。別名玉壺城。
右下の白い広っぱは講武所の
練兵場ね。今はマックがある。
松本明子という芸能人が四国
たった一日で九州をバイクでまわる
天才的な方法を思いついた
この人には珍しいツーリング
動画。
ツーリングというより走破系。
大阪から船で北九州に朝5時30分
に上陸し、平尾台、阿蘇を越え
一日で鹿児島の佐多岬まで行き、
大阪に帰る(予定)。
三式戦闘機飛燕。
カワサキが作った。
よく壊れた困ったちゃんだった
ようだが、シルエットは秀逸。
有り体に言えばカッチョイイ。
個人的にはレシプロ戦闘機で一番
好きなのはスピットファイアだ。
こうした往年の航空機の好みは
「性能」とか「戦績」とかは関係
ない。プラモ作る子どもたちも
「強い」戦闘機を選ぶならば、米
軍機一択になってしまっていた
だろう。
だが、現実はそうではなかったし、
それは今でもそうだ。
それは一つの日本の子の普遍的な
質性として現出している。
そのことは、現代の今の子どもた
ちであっても、幼児などは車の
おもちゃではスポーツカーでは
なく、なぜかしら皆が一様に「働
く車=特装車」を好むという日本人
の摩訶不思議な習性が見られる事
にも顕著だ。特に園児あたりまで
はとりわけ男子は異様に働く車が
好き。
この日本人の嗜好性はナチスドイツ
の戦車などに対してもいえる。
ただ「強い」物を選ぶならばⅢ号
戦車などはプラモ製作で昭和少年
たちは選ばなかっただろう。
だが、任務遂行が不可能になる程
の性能だったⅢ号は昭和世代の子
どもたちにはなぜか人気だった。
完璧に見た目のまとまりや視覚的
嗜好等で子どもは選んでいるし、
大人でも好み等の問題とはそうだ
ろう。
特に車や二輪や格闘技やスポーツ
でもマッチョでイケイケおらおら
を日本人の一部が好むようになっ
たのは、ごく最近の事かと思われ
る。
最近のバイクの排気量マウント厨
などもそのクチだろう。
公道で煽りを繰り返すような四輪
も、大抵は箱型の大きな車だ。
あれ、何か根本から勘違いしてる
のでしょうね。そういうのに乗れ
ば自分が「強くなった」と。
それは四輪も二輪も。
私は、その手の類は埒(らち)も
無い、と思っている。
中国地方方言では「やっちもねえ」
というやつ。
てことで、その延長線上で私は
ジャイアンツの「巨人」という
名前そのものが根本的に嫌いだっ
たりする(笑
図体でけえからと偉そうにしてる
んじゃねぇよ、と。
これ、戦前からの対米日本人風味
として。
こちとら戦後まだ15年目の生まれ
だし(笑
Ⅲ号戦車実物。これ、戦後昭和の
タミヤ模型作りの子どもたちには
人気があった。将棋の歩みたいな
存在の戦車。
だが、「桂馬の高跳び歩の餌食」
という諺もある。そうした弱者が
実は縁の下の力持ち、柔をよく剛
を制す、というのが日本の伝統的
魂だった。
今は「転倒的魂」ばかりが跋扈
する時代になった。
カワサキが新型メグロ2024年型
を発表した。
目黒製作所は1924年(大正13年)
創業だ。
私が生まれた場所のごく近所に
目黒製作所はあった。
目黒製作所の場所は戦後の品川
区の端に位置するが、付近一帯
かつては目黒とも呼ばれていた。
目黒区の端と品川区の端の隣接
エリア。
目黒製作所は日本国産二輪の雄
だったが、経営が破綻し、昭和
39年(1964年)に川崎航空機工
業に吸収された。
最初は経営再建の業務提携だっ
たが、のちにカワサキがメグロ
を吸収することによって、川崎
(グループ統合後は重工)は二輪
部門を有する二輪製造メーカー
にもなった。
つい数年前に重工は鉄道製作部
門と二輪部門を独立させ、二輪
部門はカワサキモータース株式
会社となった。
カワサキ自体は1878年(明治
11年)に川崎正蔵が東京築地に
川崎造船所を設立したのが企業
の始まりだ。まだアメリカでは
西部開拓時代の真っただ中の
ワイルドウエストでは無法時代
の頃だ。コルトSAAの供給開始
から3年目。
その後、船舶や橋や機関車や
複葉偵察機や戦闘機(飛燕)等
の航空機、バス等をカワサキは
作り、日本の近代化に貢献した。
ルーツを辿ると、二輪の国産
メーカーではカワサキが一番
古い。元々はお船屋さん。
関東大震災後の東京の25の橋は
カワサキが作った。
特に1926年完成の勝鬨橋は当時
の最新技術を投入して作られた
橋で、道路部分がハの字に大き
く開く二葉式跳開橋だ。
勝鬨橋は1980年に交通量の増加
に伴い、開閉を廃止した。
だが、高度経済成長期には既に
交通量が多すぎたので、1970年
11月を最後に開橋廃止の1980年
まで一切開かなかった。
カワサキの技術。開橋はやめたが、
今でも主要部の機関施設部は残っ
ている。およそ100年前の建造物。
カワサキが作った橋では、やはり
隅田川にかかる永代橋が非常に
美しい。これも昭和初期の橋だ。
大阪は水都といわれ八百八橋と
呼ばれていたが、実は東京こそ
が水都であり、東京の橋のほう
が数は多かった。
「八百」というのは日本語の俗語
であり「たくさん」という意味だ。
「八百万(やおろず)の神」や
「嘘八百」のように。
永代橋。非常に美しいアーチ橋だ。
1926年建築だが、現代の東京にも
とてもよくマッチしている。
新車で買える空冷2気筒250。
これめちゃくちゃ外見はいい。
馬力は16PSと125cc並みに非力
だが、ビジュアルはかなりいけ
てる。
オートバイは250が一番汎用性
が高い。街中のチョイ乗りも
高速道路を使った長距離も。
ただ、現代の二輪は250では
非力すぎて長距離はきつい。
昔の日本車のように公称45PS、
カプラ外せば60PSとかの250
ならばともかく。
それでも、80km/h巡行ができる
ならば長距離もいけるだろう。
実際非力な国産カワサキ250TR
やエストレヤでも1日500kmあた
りまでは楽勝で走れるようだし。
ただし、高速度巡行は×だ。
このGPXレジェンド250という車、
雰囲気がかなりいい。
値段も50万円台前半。原産国タイ。
でもよく見ると、限りなくエスト
レヤぽいけどさ(笑
エストレヤの2気筒仕様、みたな。
カワサキ エストレヤ
(画像はイメージです)
以前、うちの会社に従業員の
友人が二十歳の若い子を連れ
て来て、終業後にいろいろと
バイクをいじっていた。(社
長認可)
どうやらノーマルハンドルを
セパハンに交換しているよう
だ。
エンジンが物凄く回るし、外見
はかなりカッコいい廃番250だ。
持ち主本人が跨ってポジション
を確認している時、石像カカシ
ヤキトリ姿焼き姿勢だったので、
そうじゃないよと助言した。
素直な子できちんと聞いていた。
「こうですか?」と試す。
「そうそう、そんな感じ」と。
下半身でマシンをホールドすれ
ば、上半身の脱力適正フォーム
などはたやすい。
特にセパレートハンドルの場合、
腕伸ばし体重支えのフォームは
厳禁だ。前輪のステアを殺して
しまうので二輪は走らせられない。
最近の大型SS載りには腕立て伏
せのような姿勢の人が多いが。
そして、その実、全く「乗れて」
ない。
試乗という事になり、私が跨っ
て前輪ブレーキレバーを絞った
らスカスカ。
危なすぎる。
これで乗ってたの?と尋ねると
「前輪ブレーキは殆ど使った
事がない」と言う。
教習所教えの大嘘を検証咀嚼せず
にそのまま洗脳されて鵜呑みに
して実行して公道を走っている
クチだ。
最近世の中に多いパターン。
ただし、免許を取るまでは教習所
の教官の言う通りにやらないと
免許は取れない。事の正否の問題
ではない。教習所は「言われた
通りに決まり事を守れる人」に
ハンコを押す場所だからだ。
そして、真実を教える教官も中
にはたまにいる。
教官Aと教官Bで全く別な方法
を教える事もある。
都度素直に集中してハイハイと
それを確実に実行するのだ。
すると教習所では一切落第はし
ない。たとえ60才過ぎで大型
二輪免許を教習所で取得しよう
とも。
要は咀嚼力と即応能力の発揮場
所が教習所なのだ。
本当の実践二輪走行技法を教授
してもらう場所ではなく、「決
まり事を守って免許証を得る場
所」が教習所なのだ。
そもそも、たかだか教習所の
短い実技時間だけで二輪の運転
技法が身につくわけがない。
普通二輪を持っていたら大型
二輪は12時間、予約が取れれば
1週間程で免許が取得できる。
言われた事を素直にその通り実
行すれば、一切時間超過もせず、
また卒検も落ちない。
ただ、私のように一本橋の半分
の地点で12秒とかだと、逆に
粘りすぎで教官の心象を悪く
するのでやめたほうがいい。
これは逆にダメなパターン。
場の空気を読んで、一本橋では
粘りすぎないようにしたほうが
教習所ではベターだ。
すんなりと普通二輪ならば9秒、
大型二輪ならば11秒を目指した
ほうがいい。
昔の私の時代の限定解除試験は
一本橋は15秒以上が減点無しだ
った。
今は大型10秒以上、中型8秒以上
に改められた。
審査難易度でいえば、今の大型
二輪免許は1995年以前の自動二
輪中型限定免許に相当する。
また、スラロームも、4秒などは
目指さないほうがいい。
適度にやって、教官に悪印象を
持たせないのが教習所でスンナ
リと見極めと卒検ハンコをもら
う秘訣だ。
仮に自分が既存の二輪乗りであり、
乗りこなしを極めた高度な技術
を持っていても、自分の技術は
見せないほうがいい。言われた
通りに素直にハイと答えて乗る。
急制動も、コースライダーとか
には簡単すぎるので超短距離で
完全停止させられるが、それを
やったら減点になる(馬鹿げて
いる)。
決められた位置の白線で停止す
るのが教習所と一発試験の「急
制動」であり、本物の急制動で
はない。「決まり事を守る」
ための運転が免許取得時の運転
なのだ。
免許取得では、そのわきまえは
とても大切。
そのわきまえを持っていれば、
円滑免許取得という自分のわけ
まえが自然にやって来る。
だが、実際の公道運転走行では
真実を見極めないと、二輪車の
誤操作による事故を発生させる。
実際にそれが極めて世の中多い。
なぜ私が1985年から38年間公道
で無事故無転倒なのか(公道以
外での練習時の転倒を除く)。
二輪操作の本当の事を言おう。
後輪ブレーキ主体主義は教習所
内での「免許を取るためだけの
やり方」なのだ。
実践公道走行ではフロントブレ
ーキを主軸に使う。
Uターンや超低速時制動でさえ
フロントブレーキを使う。
フロントブレーキをガツンと
握ったりするから前輪がダイブ
するのだ。超低速では前ブレーキ
は「あてる」「ひきずる」感じ
でソフトにレバーにタッチして、
あんこを指で押しても潰れない
位の繊細タッチ操作をするのだ。
そうした本当の事は教習所では
教えない。
教えないし、ブレーキレバーは
ガツンと握るか離すかしかでき
ない人だらけなので、使わせな
い。曰く「前輪ブレーキはかけ
ると前が沈むから車体安定を
崩すから」として。
大嘘である。
適正操作を伝達せず、できない
からと更に教えない。
それは教育放棄だ。
物理現象としては、後輪ブレーキ
をコンマ秒フロントよりも早く
あててから前輪ブレーキをかけ
るようにすればフロントは沈み
込まない。
そうした二輪独特の特性挙動さ
えも教習所では教えないし、
「前後のブレーキは同時にかけ
る」などと大嘘を教える。
物理的なその意味は?と問うと
全国全員誰も教習所教官は正答
できないだろう。誤認浅慮で脳
が固着しているから。
前後のブレーキを両方かける
場合は、後輪をコンマ秒前輪
よりも早くかけるのだ。
しかも踏み込みではなく、足裏
でブレーキペダルを掴むように
して「あてる」感じで。
前輪ブレーキレバーも握り締めず、
絞る感じ。フロントブレーキの
初動は「あてる」という「序破急」
の「序」で操作する。
うちに来た子のフロントブレーキ
はスカスカだったので、エア抜き
をした。
そのままでは自殺車両になるから
だ。
フロントブレーキを使う事を
知らないから、後輪ブレーキ
だけで走行中に制動しようと
して踏み込み過ぎてロックして
転ぶ例が現代ではあまりにも
多い。
基本的な二輪運転の本物の技法
を知らない人だらけだからだ。
私の場合は、これは個人的な
操作法だが、公道での走行中
の制動では後輪ブレーキは
一切使わない。
後輪ブレーキを使うのは、車体
をフロントダイブさせずに減速
させたい状況(前後輪を同時
に真下に沈めたい状況)の時と、
登り坂道で信号停止した時のみ
だ。
特に走行中の制動(減速)では
すべてフロントブレーキのみを
使用している。
コースでも勿論そうだった。
リアブレーキはほぼ使わない。
後輪ブレーキは車体姿勢を変化
させるための装置であり、後輪
ブレーキでの制動は高速度走行
では全く物理的に制動力は持た
ないからだ。
しかも足。足でカードはさばけ
ない。繊細な操作などはできな
いし、ブレーキの前後の特性か
ら後輪ブレーキに制動力を求め
るのは二輪の場合は間違っている。
ゆえに私は後輪ブレーキは制動
装置としては使わない。
あれは車体姿勢可変装置だ。
二輪車の走行の真実は、フロント
ブレーキこそが命だ。
「前輪制動を制す者、二輪を制す」
なのである。
白バイ隊員を育成する教官は、
本当の真実を養成隊員に指導
する。本当の事、二輪の真実
を伝達教育している。