渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

言葉の杜

2023年12月14日 | open

名前の愛称一覧表【スペイン語・男子編】※英語名のおまけ付だよ! - URACAN-ウラぐちカンたんスペイン語-

名前の愛称一覧表【スペイン語・男子編】※英語名のおまけ付だよ! - URACAN-ウラぐちカンたんスペイン語-

だいすけ君がだいちゃん。ゆづる君がユヅくん。うん。わかる。でもFranciscoがCurroって…違いすぎっ!絶対わかんないっ! って、ことで。今回はスペイン語の男の子の名前と...

URACAN-ウラぐちカンたんスペイン語-

 
こいつぁ、カンチャンずっぽしと
おもしれーぜ。

あまり注目されていないが日本の歴史で重要な場所

2023年12月14日 | open




それは日向(ひゅうが)の国。
今の宮崎県と鹿児島県大隅半島
の一部。後に現在の姶良(あい
ら)周辺は大隅の国に分割され
た。
日向国は伝承時代を記す文献上で
は、神武天皇が日向国の女性を
妃にしたという逸話が西暦702年
に完成した日本書紀
に見られる
のが文献史学上の初見だ。

また、第12代景行天皇の時代、
天皇の子が日向国造(くにの
みやつこ)の祖となったとの
記載もある。

そもそも、伝承神話では、天孫
降臨で高天原から日向国高千穂
に天神(あまつかみ)たち神々
は降り立った。
後の日本である豊葦原水穂国
(とよあしはらのみずほのくに)
を高天原のような素晴らしい
場所にしようとして神々たちは
日本に降臨した、とされている。
その最初に降り立った場所が
後の日向国である、とする。
やがて、初代天皇(すめらみこ
と)である神武天皇(実在不明)
は東へ「東征」をして畿内に
居する。
ただ、古墳時代(3世紀~7世紀)
を経て奈良時代平安時代になろう
とも日本国内には在地抵抗勢力
がいて、国内は天皇の国家とし
ては実質的には不完全統治状態
だった。
第12代である景光天皇(実在し
たとすれば4世紀頃)の時代でも、
九州の熊襲、土蜘蛛の勢力が
大王(おおきみ)に叛旗を翻し
在地権力を防護しようとしてい
た。
そうした地方の抵抗勢力はその後
何百年も存在し、それらをすべて
軍事討伐で皆殺しにして天皇家の
絶対権力を確立していったのが
日本の歴史の概要だ。
(出雲国のみは強大頑強すぎた
ために実効権力は持たせないま
ま地位を上に持ち上げて傀儡化)

天皇家の祖であるとする「神々」
は日本に
よそからやって来たと
大王側
権力サイドの史観では表明
して
いるのである。
現人神(あらひとがみ)と超古代
および明治から昭和中期の国民
洗脳時代
までは規定されたが、
天皇は人
間宣言をしている。
天皇も皇族も人間だ。

ということは、宇宙人でもない
限り、天からの降臨は不存在だ。
では、天孫降臨は何を表すか。
それは「外地」からの特定集団
の列島への「渡来」
でしかない。
半島大陸系か南方系か北方系か
は不明。

ただ、伝承神話では日向国に
初めて神々は来たとしている。
UFOのような石の船に乗って。
日本の象徴を天皇とするならば、
大陸半島南方北方ではなく、こ
の日本列島における天皇の始ま
りは日向国なのである。
だが、あまりにも現代は今の宮
崎県に対して、他地域の人たち
は関心がなさすぎはしないか。
私の歴史観は皇国史観ではない
が、日本人の宮崎県にさして興
味なしという風味は、不思議で
仕方ない。
この現象は一体何が現出してい
るのだろうか。
その意味と背景は?

皇族の祖先は石器時代から原
住していた原日本人ではなく、
外来渡来系であることは間違
いないだろう。稲作と太陽信
仰に密接な関係を持つ集団。
神話とは別に、実際に外地か
らやって来てこの列島を徐々
に統治したのだろう。
先行的に渡来して根を張った
勢力との拮抗も神話伝承にさ
え見られる。
そして、そうした天孫族以外
には、在地の土着勢力が日本
列島には広範囲にいた。それ
ゆえに史実としての後の「倭
国騒乱」時代をこの日本に実
在させた。
社会科学的視点ではなく、天
孫族の子孫である天皇家神格
化擁護勢力の皇国史観に則っ
たとしても、今の現代にあっ
ては、宮崎の地はその史観の
人たちを含め日本人全体から
軽んじられ過ぎてはいないだ
ろうか。
半世紀以上前の日本人の新婚
旅行ブームでの行き先が宮崎
の日南海岸である事以外。


変な言葉 ~日本語の崩壊と変質~

2023年12月14日 | open



最近変な言葉が台頭し始めた。
元警察官や現役警察官で言う
人が多い。
それは、「ご安全を」「ご安全
に」という
言葉かけ。
これ、日本語としては非常に
おかしい。
言語学的解説は割愛するが、
「ご安全を」「ご安全に」は
日本語として
は間違いだ。
正しくは「安全運転を」だ。
もしくは「無事故で」。
あるいは「お気をつけて」だ。
安全に「ご」がつくのか、よ
日本語を言語として考えて
ほしい。
安全とは人の行為ではなく、

偶発もしくは意図的行為に
よって到来した物理的な状態
を指す。

安全という人的行為は存在し
ない
のだ。人のある行為によ
って得るもの(あるいは遠ざ
かるもの)が安全であり、それ
に「ご」をつけるのはかなり
日本語の使用法として誤謬が
存する。
「ご無事故で」という
言葉が
おかしい事を思い浮か
べてほ
しい。
「ご無事でしたか」は存在する

が、「ご安全でしたか」は存在
しないのである。
無事は人的態様を指し、それの

主体に対して敬語の「ご」を
つける。
「ご安心めされ」は正しい。

だが、「ご安全なされ」はおか
しいのである。
安全は主客において人的行為
指す単語ではないので、
それを
目指した主体に対して敬意表現
として「ご」をつけるならばと
もかく、安
全という未確定要素
の物理状態その
ものに「ご」を
つけるのは日本
語の敬語使用法
として完全におかしいのだ。

「安全確認はされましたか」と
敬語で表現するのは正しいが、
「ご安全になさりましたか」と
いう日本語は正しい国語の用法
としては存在しないので
ある。
詳細説明解説は言語学分野の
方に筆を譲る。
ただ、母国語の崩壊の現出が

著しくなってきている現況を
交通社会に今見出す事ができ
る。

若者言葉から日常語の崩壊が
進行するのは言語の常だが、
高齢層から言語崩れの言葉の
使用法が発生する傾向はかつて
ほんの10年程前までは存在し
なかった。

社会現象としては社会学的に
は面白い現象だ。

間違った言葉遣いがやがて
正しい母国語を簒奪するケー
スは多いが、間違いは間違い
だ。
世の中に多くある間違いの
筆頭は何だろうと俯瞰する
と、非常によく使われる間違
った日本語がある。口語では
なく告知文として。
それは「故障中」。
機械の故障は故障で状態が
停止しているのであり、動
態としてのingである「中」は
付かない。
正しくは「故障」である。
多くの世間の貼り紙でこの
間違いを目にする。

この点、かつての警察は正し
い日本語の使用法をしていた。
不法改造車両に貼るシールは
赤地に白抜きで「故障」とい
う物だった。
それがさぁ、貼ったら剥がす
のにはかなり大変な紙シール
だったのよ(笑
暴走族の集会で300台一斉検挙
の時とかは、全車にそれが
貼られたりした(笑
ハンドルをスワローにして
いただけでも「故障」。
クールスハンドルなども全て
「故障」。
セパハンなどは論外で「故障」。
天井カウルなどのチンドン屋
仕様は存在しなかったが、低
く決めたロケットカウルも
「故障」。
右下部後尾灯のホタルも「故障」。
集合管着けてたら即「故障」。
ミラー右だけだったら「故障」。
そして、警察官は平気で警棒
でバイクのタンクをぼっこぼこ
に叩いてへこましたりしていた。
走行中の二輪運転者にロング
警棒で胴体ぶっ叩きで転倒させ
るとか、左様な仕儀はごく普通
にやって
いた。
報道などされない現場の事態は
数えきれない程あった。
信じがたいだろうが、検問停止

場所の都内の住民たちがあまり
にもひどい警察官の暴力に対し
て抗議して暴走族の少年たちを
庇う行動も多くみられた。
警察官に叩きのめされた少年た
ちに声をかけたり介護したりす
る都内の幹線道路沿線住民は多
かった。

数百台の四輪・二輪の暴走行為
による騒音や交通占拠
の行為に
は迷惑していただろう
が、検挙
現場での圧倒的な官憲
の暴力を
前に、都内住民のおじ
さんや
おばさんたちは、むしろ
少年
たちに同情し、厚意をよせ

くれていた。
これは真実の歴
史だ。なぜなら、
私は実際に何
度も経験したから。
夜明け前の環七大森陸橋での数
百台一斉検挙現場で、近
隣住民
のおばちゃんが「お腹減っ
てな
い?」とおにぎりまで差し
入れ
てくれた事もあった。

正直、涙が出た。
完全停止で止められた修羅場跡
の書類書き待ちの環七路上脇で、
いっこ下だという見知らぬ後輩
と一緒におばちゃんにお礼
を言
って涙を拭いながらパク
ついた。
食ったら、余計涙が出た。
対交通機動隊行動では向こうも
こちらも血も涙も無いが、
おば
ちゃんの厚意には涙が出た。

「こういう事はもうやめなきゃ
なぁ」とも思い入った。
後にロードレース国際A級に

なった同級生もその時一緒に
検挙された。
これ1970年代当時のタイムリー
な実話だ。
ロックと仲間と土曜の夜の走り
を愛した都内に数万人いた暴走
族の少年たちの殆どは更生して
社会復帰して行ったが、ごくごく
ほんの数える程の一部は暴力団
や半グレの反社に流れて行った。
彼らは暴走行為を自己質性の発
現として「利用」していたのだ
ろう。













1983年。私の6学年、7学年下
の17才、16才の高校生たちの
時代でさえ「暴走族」に関して
はこのような感覚だった。
「社会悪」として蛇蝎のように
嫌われたのはずっと後の時代の
事だった。
これも社会現象としては歴史の
真実だ。
このバリ伝以降、BE-BOP や湘爆
も生まれたりした。
あいつとララバイはバリ伝と同
時期だが、主人公の研二君は違
法競争型の横浜の暴走族だ。
当時は、アイドル歌手でさえも
「スケ番刑事」に出演する程だ
った。あれは「スチュワーデス
物語」と同じく、非現実的空想
活劇だったが。
社会全体がある特定層に対して
排除意識をファシズムの全体主
義のように発動させるのは、今
世紀に入ってからだった。
これも歴史の真実だ。
そもそもバリ伝グンちゃんは、
共同危険型の暴走族ではないが、
違法競争型の暴走族である。
ララバイの研二君と同じ種族。
警察は共同型も競争型も類別は
しているが、どちらも「暴走族」
で一括りにしている。

1970年代の「集団型暴走族」に
対する警察官の行為が警察官職
務執行法に照らして正しいのか
どうかは別として、「故障」と
いう母国語の使用法は正しかっ
た。
それも一つの歴史である。


出前バイクのスーパーカブでミニバイクレースに参戦してみた結果

2023年12月14日 | open

出前バイクのスーパーカブで
ミニバイクレースに参戦して
みた結果


このカブ、はっえぇえ~。
いや、カブが速いのではなく、
運転手が速いのだ。
一ノ瀬美由紀が惚れちゃう人
ね(笑

1983年。

今から40年前の名作金字塔劇画。
バリバリ伝説』第一話。






バリ伝の主人公グンが被っていた
ヘルメットは、連載当時に作品の
アドバイ
ザーだった講談社ベスト
バイク誌ライター
の押江氏(通称
オサ坊)のヘルメ
ットデザインが
ベースだった。

かつて、まだウィキペディアが
無かったころ、私がバリ伝につい
て本ウエブ日記で詳細に記載した
ら、それを読んだオサ坊本人から
メールをいただいた事がある。
曰く「ここまでバリ伝を正確に
記載した物は他に読んだことが
あり
ません。今後もバリ伝とオサ
をよろしく」との事だった。
掘り下げて考証したネット記事
など他にも無く、私
が連載当時
タイムリーにバリ伝を深く読み
込んだ事を
ベースに記憶の抽斗
から
引っ張り出したものを書い
ただけ
だったが、グンヘル本家
本元のご本人は、
それを読んで
感じ入るところが
あったようだ。
最初に「はじめまして」とあった
が、実は初めましてではなかった。
なぜなら、私は学生時代、一時期
短い期間ベストバイク編集部で
バイトして
いたからだ。直接お話
しはしなか
ったが、編集部で押江
さんをお見
かけした事があった。
私自身は、床で睡眠不足で死んだ
ように寝ているバイト人がゴロ
ゴロいる、近所の別マンションの
編集部屋の一室、通称「タコ部屋」
でのホントの切り貼り編集のバイト
だった(笑
地獄のような過酷なバイト先だっ
た。ここは漫画家のアシスタント
部屋か?みたいな。
デジタル機器が存在しない当時、
雑誌編集の物理的作業はすべて
手作業だった。画像もすべて
切り貼りでそれを写真撮影して
版を作る作業だった。

そして、その後、バリ伝作者の
しげの先生のチーフアシ(実際に
イニDからほとんどを作画するよ
うになった方)から私のウエブ
日記のファンだと連絡をもらい、
懇意にさせてもらうようになった。
バリ伝では世界戦に参加あたりから
しげの先生のスタッフになった
そうだ。
個人的趣味では木刀製作者として
名人級の腕前を持っており、作品
画像をいつも見せていただいた。
名品そのものだった。
ゴーストが連載発表前、連載開始
前の下書きもチラ見せしてもらっ
た事もある。私の非公開お宝画像
だ。

私に連絡をくださる歴史的功績を
残した著名な方々や今でもおつき
あいのある一般の方々は、とても
真摯な対応をなさる真面目で誠実
な紳士たちばかりだ。
一般人の中にはとんでもない族も
いたりもした事が何件もあったが、
当然、私個人は縁故は結ばない。
ヤマハXSR700の開発総責任者の方
が私に直に連絡をくれて開発秘話
を打ち明けられ、帰国の際には
大阪でお会いした時もそうだが、
著名な社会的功績を残した方々の
特徴としては、どなたもがもれな
く生真面目で誠実な方々ばかり
だ。
だから世に功績を残せるのだろう
と大変勉強になった。優性は社会
的にも濃い筋で社会生存性が高い
という人の世の定理を見る思いだ。
決して悪貨が良貨を駆逐する事は
真実としては無いのだ、という
天の理を見る思いがする。
人類史に悪が栄えたためし無し。
天は最初に原罪を犯してしまった
我々人間を常に見ているからだ。
原罪を持つ私たちヒトは、せめて
心は清浄でありたい。