
かなり美味しい。ジンはゴ
ードン。
熱い紅茶に氷で冷やしたジン
の水割りを注ぐ。
レモンはうちの庭に成って
いるレモン。
このレモンも隣りに植えて
いる蜜柑と自然交配した味
で、なかなかウマい独自の
レモンの味になっている。
専門交配のレモンオレンジ
とまではいかなくとも、オ
レンジぽいレモン。ジャム
にすると格別にウマいジャ
ムができる。

時は元禄十一年(1698)、
師走も迫る肌寒い霜月の事で
あった。
会津藩主松平正容(会津保科
家三代目。二代目の弟、初代
保科正之の六男。初代会津松
平)は藩工として召し抱えた
古川孫右衛門兼定と三善藤四
郎長道の両名を召し出した。
それぞれが鍛えた一刀を共に
試し比べをすることを藩主松
平正容は所望したのである。
試斬するのは一束の真綿であ
った。
日本刀は堅い物は切りやすい
が、柔らかい物は実に切りに
くい。乾いた真綿の束などは
衝撃を吸収してしまうのでま
ず切れたものではない。よほ
ど刃付けをカミソリのように
しておかないと切り込んでは
行かない。
さて、試しとなった。
兼定は見事にこれを両断した。
しかし、長道は斬り損じてし
まい、大いに面目を失った。
城から辞退する際に、憤懣や
るかたない藤四郎長道は、い
きなり刀を抜いて城門の乳輪
に斬りつけた。鉄製の乳輪は
見事に両断された。
だが、藤四郎長道は鉄を切っ
たその刀を掘に投げ捨ててそ
の足で菩提寺である城下蚕養
町の法華寺に赴いて墓前で切
腹して果ててしまった。
藩主正容は三善長道の死を深
く惜しみ、隠居していた利右
衛門政長に三善家の家督を継
がせた。三善家はこれにより
子々孫々まで永らえたのであ
る。
この一件は城の内外に広まり、
これ以降、会津家中をはじめ
城下の衆までが兼定を「真綿
斬り」、長道を「鉄斬り」と
呼んで末長く賞賛した。
というのがこれまで喧伝され
てきた会津藩における元禄試
斬の様子である。
しかし、いささかというか、
かなり眉つばで出来すぎた
(=出来の悪い)話だ。
なぜならば、当事者の没年が
合わない。
藤四郎長道は貞享二年(1685)
に53才で没している。この試
斬のオハナシである元禄十一
年(1698)の13年前に死んで
いるのだ。
しかも、藤四郎の父である三
善利右衛門は正保五年(1648)
に死亡している。元禄十一年
時点で隠居していたとする利
右衛門(実際は死亡後50年経
過)を呼びだして家督を継が
せるとは、幽霊にでも家督相
続させたというのか。
ならば、藤四郎長道の子の長
道の事かというとどうもそれ
も怪しくなってくる。
普通に考えれば藩主の面前で
面目を失ったことで切腹とい
うよりも、城の門扉に抜刀し
て斬りつけたことのほうが負
い目が大きいはずだ。城門に
そんなことをしてただで済む
わけがない。切腹ならばこち
らが理由となるのが筋だろう。
武家の感覚からいくと、やぶ
れかぶれにふてくされて城で
抜刀して城郭損壊に及んだり
したら、そんな乱心はそれだ
けで腹を切るには十分な理由
となるし、そのような無軌道
を藩主召し抱えの御用鍛冶の
刀工が為すとは到底思われな
い。大逆に等しい行為だから
だ。
そのような行為に及んだ士を
哀れと思って藩主がことさら
に取りたてるだろうか。城は
藩主の家屋、一国を鎮護する
館である。現代に置き換えて
みればよい。皇居で天皇陛下
の御前で試しがあったとしよ
う。不面目な結果に憤り、皇
居の建物に斬りつけたとする。
その人物の子を宮内省が哀れ
に思って取りたてることがあ
ると思うか。
実際に明治天皇の御前で兜割
り試刀会が催されたが、榊原
健吉が同田貫を使って兜を斬
った以外は、すべての剣士が
不面目な結果となった。
なかには刀をグタグタに曲げ
た者もいた。彼らが憤って皇
居に斬りつけて後自刃したら
子孫は明治政府から取りたて
られていたか。
あるいは現代一般企業でもよ
い。
製品開発プレゼンで不面目を
喫した。その者が会社の建物
もしくは器物を損壊して自殺
した。
社長はその者の家族を哀れと
雇用採用して重要な役職に着
任させたりするか?
いずれも子孫は排除こそされ、
積極的に惜しまれ褒め称えら
れ御取り立て、ということは
まずあり得ないおとぎ話だ。
おとぎ話としてもあり得ない
程の出来の悪い与太噺である。
まして、時代は人権もへった
くれもない封建時代、絶対領
主の時代である。剛直な武家
のしきたりも存在する武家政
権の時代である。城門に斬り
つけた士は生きながらえもし
ないし、その子孫が咎めも受
けずに逆に取りたてなどとい
う事は万が一にも絶対にあり
得ない。
小説講談与太話の類と現実的
な武家政権時代の真実は大き
く異なる。
やはり、この会津公の御前試
しの話は、元禄赤穂浪士討ち
入り後の各藩公による遺族召
し抱えの美談にかこつけた会
津藩主を讃える美談の創作で
あり、武家の本質を知らない
後世の町方の作り事とみるの
が順当だろう。町の刀屋あた
りが売らんがなのために作り
上げた噺ではなかろうか。
刀屋の作為的キャンペーンと
いうのは江戸期を通じて大い
に大手を振っていたし、この
現象だけは現在でも連綿と続
いている。刀屋のこうした常
套の行為はすべては真実流布
のためではなく、儲け=ゼニ
カネのためである。商売人は
武士ではない。ゼニカネのた
めには商売人は何でもする。
偽物をニセモノと呼ばずにギ
ブツと呼んで業界に積極的に
流通させてきたのは現代まで
続く刀屋という存在とそれに
寄生して利権を貪る「権威筋」
であるし、偽銘切りや偽物作
りを積極的に援助したのが刀
屋たちの商人だった。ゼニカ
ネのためには何でもする。儲
けには正義もモラルもない。
儲ける為には毒でも売る。放
射能を降らせてでも儲ける。
儲けることが正義とされるの
が商人の世界であり、商人の
感覚である。武家とは感覚が
一切交わり得ない。
いずれにせよ、兼定家と長道
家が明治まで「会津の切れ物
両家」として心得ある武士の
間では名声を得ていたことは
確かである。それは見た目が
芸術的だからではない。武士
の本懐を全うするにふさわし
い「切れる刀」だったからで
ある。
刀は頑丈で切れてこそ刀であ
る。
芸術性や美術性が自分の身を
守り、主の身を守ってくれる
わけではない。人の命と共に
ある日本刀は、頑丈で切れる
ことにこそ存在意義がある。
これは動かしがたい「絶対条
件」だ。
ちなみに、幕末、会津十一代
兼定は新選組土方歳三が愛用
していた。こちらはお試し噺
とは異なり、史実である。
会津磐梯山は宝の(コリャ)山よ
笹に黄金が(エーマタ)なりさがる
民謡『会津磐梯山』は会津地
方で広く盆踊り唄となってい
る。三十番まであるこの曲は
会津民謡の『玄如節』からの
転用で昭和十年(1935)頃に
小唄勝太郎(1904年~1974年)
のレコードに収録された。
「おはら庄助さん なんで身上
つぶした・・・」の御囃子が
入り、全国的に有名になった。
30年ほど前、東北居合道大会
出場の折、士族の末裔である
居合の先輩の奥様の実家の御
屋敷に泊めていただいた事が
ある。
その時に聞くところによると、
会津地方では未だに長州人に
対して快く思っていない風潮
があるという。
特に武家の末裔に多く残って
いるのではなかろうか。
会津藩は戊辰戦争で庄内藩と
共に奥羽列藩同盟として最後
まで薩長の新政府軍に抗した。
本当の意味でのラストサムラ
イは会津ならびに奥羽越列藩
の武士だ。会津士魂に代表さ
れる魂こそ侍の魂だと私は思
う。
【松平-保科-正容】
寛文九年(1669)生、享保
十六年(1731)没。
保科松平家三代目。延宝八
年(1680)に異母兄の保科
正経に子がないため養嗣子
となる。元禄九年(1696)、
27歳の時に松平姓と葵の紋
の永代使用が許可されて徳
川一門となる。徳川吉宗の
「髪切り親」を勤めた。
【古川孫右衛門兼定】
美濃和泉守兼定の奥州移住
系会津兼定(古川孫四郎)
の二代目。明暦元年(1637)
に会津保科家の抱工となる。
慶安四年(1651)三月に近
江大掾を受領。会津兼定家
は利刀の刀工家として幕末
まで続き、十一代兼定は京
都所司代会津中将松平容保
に随伴して京都に赴き会津
家中のために鍛刀した。新
選組の土方歳三の愛刀は会
津十一代和泉守兼定だが、
一般的には手に入れる事は
不可能であり、会津藩と新
選組の関係があってこそ土
方は会津兼定を所持できた。
【三善藤四郎長道】
寛永十年(1633)~貞享二
年(1685)。
初期銘道長。寛永十年(1633)
会津生まれ。万治二年(1659)
に陸奥大掾を受領して三善長
道と改める。切れ味鋭い利刀
を鍛え、受領後は会津松平藩
抱え鍛冶として活躍する。作
風が似ていることとあまりに
も切れるので「会津虎徹」と
称された。子孫も明治まで刀
工として続いた。貞享二年に
53歳で没。最上大業物。
【三善利右衛門長道】
慶長四年(1599)~正保五年
(1648)。
寛永四年(1627)父長国とと
もに四国松山から加藤嘉明移
封に従って会津に移住する。
加藤明成の転封に伴い、政長
もこれに従って会津を出よう
としたが、新領主の保科正之
から引き続き会津の地で鍛刀
することを命じられ、定住を
決意したと伝わる。「陸奥大
掾三善長道」藤四郎の父。
【会津兼定】
会津兼定の祖は美濃国和泉守
兼定(之定)の子である古川
清右衛門が弘治年間(1555~
1557)に会津領主の芦名氏に
禄二百石で召し抱えられ会津
に移住し、会津兼定家の開祖
となったことに始まる。
清右衛門兼定の子である古川
孫四郎兼定は本国美濃より福
井藩主松平-結城-秀康の求め
により越前に渡り、後の文禄
(1592~1595)始めに会津に
移住している。慶長年間には
会津藩主の蒲生氏郷に仕えて
会津兼定初代となった。孫四
郎は寛永四年より綱房と銘を
切る。寛永十四年(1637)八
月二十日没。孫四郎以降、兼
定家は代々、会津藩の御抱鍛
冶を勤め、兼定銘十一代を数
えて明治末期まで血脈が続い
た。
大丸で誂えた新選組の制服
であるダンダラ羽織は隊士
たちには好まれず、あまり
着られなかった。
と記録や新選組元隊士の談
話に残っている。
では出動服はどういう物だ
ったかというと、上下黒ず
くめだったという。
渓流カフェは2001年から。
この一週間のここ渓流カフェ
ウエブ日記への来訪者数とい
うのは、一体何なのだろう。
319万ブログのうち2位とかっ
て、妙だから(笑
ここはブログではないけれど。
意見交換や質疑応答、交流な
どは一切求めていない。
ここは、一方通行の単なるコ
ラム発信地だ。
20年以上前はウエブカフェ形
式で来訪者同士いろいろお話
する場として提供していたが、
やめた。
その頃は毎日300人程の来訪
で会話で賑わったが、不思議
な事に荒らしは一度も現れな
かった。
しかし、ネット普及に伴い、
ネチケット知らずの世代が荒
らし始めたので、交流場所の
提供は終了させた。
同時期、ウエブサイトページ
の各ページは一端無期限非表
示にさせ、私のサーバーから
のリンクを非表示とした。
現在残るのはこのウエブペー
ジのみだが、こことて、いつ
突然閉鎖するかは分からない。
閉じるか継続するかは気分次
第だ。
収益化などとは一切関係ない
とこでやってる。
単なる気分だ。
非合法組織アバランチ。
avalancheとは雪崩、崩壊
の事だ。
現代版必殺仕事人のような
ドラマ。
ここでも本物のワルは警察
官僚だ(笑
その点は超絶ウルトラリアル。
非合法組織アバランチのメン
バーは現役警察官2名(警視
庁閑職。1名は某重大事件時
内閣情報局⇒陰謀で閑職へ)、
退職警察官2名(某重大事件
時、警視庁警備部刑事、同
僚が陰謀の爆破テロで5名死
亡、元爆発物処理班1名)、
元陸自レンジャー1名、元サ
イバーテロリストITヲタク1
名。
第4話のラストシーンで、綾
野剛がアバランチの事をフラ
ンス語でアバランスと呼ぶシ
ーンがある。謎。
内閣情報調査室ならびに警察
庁警備局および公安が実は極
めて卑劣な悪の組織であるの
は、現実世界では事実だ。
ドラマや映画や小説の世界は
実は全くの作り物ではない。
現実世界では警察庁内部に
諜報謀略組織JCIAが結成され
た。予備組織チヨダからの流
れ。
内閣情報調査室局員や警備局
員、警察技官幹部から構成さ
れ、日本国内のあらゆる情報
操作や国際国内諜報活動を行
なっている。日本製ロケット
衛星の打ち上げにも深く関与
している。
これは事実だ。
警察庁OBからも「民主主義の
原則を逸脱し過ぎている」と
批判されている非公然組織だ。
これは現実に存在し、活動を
始めた。
極めて非合法分野で汚い事を
「国家の為」に実行している。
人の命などは、何とも思って
いない。
日本でこのドラマのような事
があるわけないと思い込んで
いたとしたら、あまりにもお
花畑だ。
このドラマの後、現実世界で
元総理は巧妙に暗殺された。
だが、警察による捜査は早々
に打ち切られた。
被害者体内に残存していた弾
頭も一切公開されないどころ
か、医師団と警察発表は被弾
角度さえも口違いがあるも、
うやむやに握りつぶされた。
裏で動いている強大な力があ
るからだ。
「犯人」とされた者の発砲し
た弾丸が被害者の体内に残存
していて摘出したとしながら
もそれを開示しない。
捜査は打ち切りだ。
それが普通でありまともであ
ると信じ込んでいるほうがど
うかしている。
現実世界も、このドラマで描
かれたような力が働いている。
このドラマでは悪人は一人の
人物だが、現実のリアル世界
では「組織」としてそれが実
行されている。
目を覚まさない、平和ボケし
た日本人はそれを世迷言のよ
うに言う事で虚飾の安寧に甘
んじている。
このドラマで描かれた構造は
現実だ。作り事ではない。
あたしゃガキンチョの頃から
革ジャン着てた。
で、だ。
実はレザーウエアは1960年代
には今みたいに高級品ではな
かった。これ、ほんと。
当時出始めの人工皮革のほう
が本革よりも高かったという
現実が歴史の中ではあった。
今では真逆だが。
これもホント。
当時の某アメリカ映画でも、
家具屋に勤める主人公が、客
に対し「これは出たばかりの
人工レザーでとても高価な物
です。ほら、このように飲み
物をこぼしてもふき取るだけ
でまったく傷みません」とい
う台詞のシーンがあった。
ガキンチョの時に革ジャン着
ていたからと、高級品を身に
まとっていたのではない。
革製品は廉価だったし、あり
ふれていたのが1960年代の日
本だった。
紳士服のスーツはくっそ高か
った。
私が革ジャンを着ていたのは
防寒着というよりも防護着の
意味合いが大きかった。
屋外アイススケートやローラ
ーやる時のスッテンコロリン
対策で。
案外ゴツいがしなやかな革で、
防護着にはもってこいだった。
バイク乗りと同じ意味で革ジ
ャンを着ていた。
私も結構アイスは滑れるほう
だったが、私よりも遥かに上
手い奴が同学年にいた。
そいつも革ジャン着てた(笑
ムーミンみたいな顔したH君。
そいつも全く転ばないけど。
氷上で革ジャン?とか思うか
も知れないが、当時は気の利
いた防護服などは本格的なア
イスホッケー選手用しかなく、
さしあたっての防護は路上も
氷上も革ジャンというのは結
構多く見られた。
私の靴はホッケー、そいつも
ホッケーだった。
横浜ドリームランドの屋外リ
ンクは逆走不可だったが、存
分に楽しめた。ハーフスピー
ドはOKだが、スピードは禁止
だったリンク。ホッケーやフィ
ギュアはごく普通にOK。
毎週行ってたし、冬休みなど
はほぼ毎日ランドのリンクで
滑ってた。
生まれて初めて滑ったのは5
才の時で、親父の会社の後輩
の元国体選手に位置から教え
てもらった。
人生初滑りは品川のスケート
リンクだった。
うちの子どもの一学年上の人
のA-2ビンテージレザーウエ
ア購入のサイズあわせ。
俺のAVIREX A-2 を試しに着
てみる、の図。
これでアメリカンSサイズな
のだから、いかに米国物の昔
のサイズがでかいのか、と。
かつての米国物のSは日本で
はL~LLに相当する。
ただ、インチサイズ表示の場
合、米国ビンテージには振幅
が多少ある。同じ42表示でも
ジャケットの場合、メーカー
によって多少大きさが違った
りする。デニムボトム程イン
チ表示は正確ではない。
この画像の着用者は身長は私
より3センチ程低い170センチ
だ。痩身だが肩幅などは狭く
ない人。
それでも1970~80年代初期米
国製ジャケットのS表示でゆっ
たりサイズという現実。
これが上野商会が手掛ける頃
になると日本サイズ表示にな
るようなので、AVIREXの革ジ
ャンも年代により注意が必要
だ。実寸肩幅等は要チェック。
ヒューストン製(やや小さめ表
示)とは大きく異なる。
この画像のAVIREXビンテージ
のSで肩幅は55センチ実寸だ。
日本サイズでL~LLサイズ相当。
各個人の肩幅にもよるが、身
長170以上の今の日本人平均を
上回ると肩幅50センチを切る
ジャケットだときつめになる。
最近の街着ではきっつきつの
レザージャケットを着るのが
流行りのようだが、ボンバー
などのフライトジャケットは
軍事航空機搭乗員用なのでゆ
ったり目のサイズを着るのが
歴史的な実用上のセオリーだ。
なので、造りの着丈は短めで
肩幅がゆったりと作られてい
る。
バイク乗車時等の実用性も航
空機搭乗の際の実用的観点に
準ずるだろう。
街着で着る際もそのような実
用の要諦や美から離れた着方
は、「新たに創作された実用
的な歴史を見る事を外してい
る本質乖離の方向性」という
点がある。
街着ファッションも、実用の
背景が不在の物は虚構が過ぎ
る。マジンゴーのアニキのネ
タ的固まり赤マフラーじゃな
いんだから。
オートバイ乗車を射程に入れ
たレザーウエアも、ピチピチ
の物ではなく、当然、自由自
在に身体を動かせるフィット
感の物を選ぶのが良策だ。
バイクの場合は実用がまず
第一義。
実用の美も、経年変化の用の
美も、そうした選択肢が背景
にあって初めて成立する。
そこに本物のファッショナブ
ルな着こなしの立脚点がある。
見た目だけのナンチャッテに
なると、それは着ても七五三
のお仕着せのようにどこか頓
珍漢な取って着けたような姿
になる。
ファッションとは、被服がフ
ァッションとして独り歩きは
決してしない。着る者が着て
初めて活きる。ミリタリーベ
レーなどはその現出がてき面
だ。わきまえない無頓着だと
全員がキノコ被りになる。
服は着る物。人が着せられる
物ではない。服に人が着られ
ているようなパターンが一番
チグハグでカッチョコ悪い。
AVIREXビンテージは最高の
着心地。これホント。
AVIREXの名称の意味は「空
の王様」。
防寒着として下に着ている
裾の長い陸上自衛隊制式ジ
ャンパーのJMA-1が見えて
いるが、それはご愛敬。