【険道★/恐怖?今にも崩れそう
な絶壁と今にも倒れそうな巨岩】
岡山県道435号 宇治長屋線
【高梁市・夫婦岩・カルスト地形】
暖かくなったら、ここに原付
で行ってみっかな。
三原城からは往復で約200km。
原付散歩には丁度よい距離だ。
ティーセット持って行って、
展望台でポットから熱い茶を
飲むってのもいいかも。
火気厳禁だろうからバーナー
沸かしではなく保温ポットか
ら茶。
ペットボトルよりはいいぜ。
手製のサンドイッチとかここ
で景色見ながら腹に詰め込ん
でさ。

ヤマハファクトリーライダー
の高井幾次郎さんがプロデュ
ースする「プロショップ高井」
の製品は質がとてもよかった。
1980年代にはヤマハ系ライダ
ーの多くが使用していた。
ケニー・ロバーツでさえ。
そのプロショップ高井の製品
は私も何点か使用していたが、
ブーツとグローブは国内最高
の出来だった。特にグローブ。
これ至高究極。ケニーも高井
のグローブを使っていた。
ブーツはロングブーツ(当時
のレーシングブーツ)とショ
ートを私は使っていたが、シ
ョートブーツが、これまたか
なり良い造りの製品だった。
プロショップ高井が消滅した
のはとても残念だ。
平忠彦さんが引き継いで製品
をリリースしていたが、今は
それも消滅した。
当然、1982年の角川映画『汚
れた英雄』で草刈正雄の吹き
替えで平さんが走るシーンの
レザーウエアは、上から下ま
でプロショップ高井製。
高井ショートブーツ。これ最
高。ヒールはケニー・ロバー
ツが考案したケニーカットに
造られている。直立型ヒール
で、底の内と外の直立部のラ
インが斜めに造られているコ
ーナリング用。

1970年代中期~後半の高校
時代は、この1973年ドラマ
「ワイルド7」のような茶色
のブーツを公道での「走り」
の時には履いていた。
ただ、将校ブーツのような物
ではなく、ファスナー付の乗
馬用だった。メーカーは不明。
こんな感じ。
それを走行の時にはブーツイ
ン(パンツをブーツの中に入れ
る)だが、マシンから降りて街
を歩いたり店に入る時にはブ
ーツアウト(パンツが外)にし
ていた。
当時、ロングブーツでブーツ
アウトにする履き方は珍しく、
他にはあまり見なかった。
ワイルドウエスト時代のアメ
リカではごく普通だったが、
日本では二輪乗車ではブーツ
アウトは一般的ではなく、殆
どがブーツインだった。
ブーツアウトのクリント・
イーストウッドとブーツイン
のリー・ヴァン・クリーフ。
ブーツアウト。
ブーツイン。
ブーツはいずれもプロショップ
高井のレーシングブーツ。
(MFJ公認)
ただ、日本のストリートロッ
カーズはショートブーツをブ
ーツアウトでパンツの中に履
いていた。それがごく普通の
当たり前。
をよく履いていた。新宿東口
ワシントン靴店で購入した物。
それでバイクに乗ると左側が
疵つくのであまりバイク乗車
時には履かなかったが、土曜
の夜の都内大集団走行では履
いていた(笑
上は当然革ジャン。
こんな感じのマドラス。

最近はレザーウエアメーカー
もバイク用ブーツを作ってい
る。
特に東京大田区のペアスロー
プのブーツが気に入っている。

ペアスロープのリーガルとの
コラボブーツの茶色も持って
いるが、こちらもなかなか良
製品。ただ、茶色のほうは少
し革が硬い。
ペアスロープは細かい部分ま
で作り込みが非常に良い。
おすすめ。

3社の経営統合は2026年から。
とてつもない業界再編だ。
合体しないと外圧に耐えきれ
ない。
まさにやばい、いつか辿った
「戦前」の気配。
1988 国際A級500cc Rd.3
”藤原儀彦が平忠彦に初めて
勝った筑波戦 ”
TADAHIKO TAIRA vs.NORIHIKO FUJIWARA
1988年の全日本筑波は特徴
的なレースだった。
平忠彦選手が筑波1ヘア手前
のS字2つ目で「平(たいら)乗
り」を既にやめ、後輩の藤原
儀彦選手が「平乗り」の逆ハ
ングを使っているという面白
い展開が見られた。
インフィールドでの平選手
のYZRはめちゃくちゃ速か
った。
世間では逆ハングフォームを
「平乗り」と呼んではいたが、
実は最初にやったのはジンプ
ライズの斉藤仁選手だったよ
うな記憶がある。
ジンプライズはプライベーター
選手が独自の店舗とアパレル
ブランドを持つ国内初の総合
二輪レース関連商品展開をし
たケースだったようにも記憶
している。
今では当たり前の展開だが、
当時はとても珍しく、先見性
があった。
そして、ジンプライズの商品
は、色もデザインもとても洗
練されていた。仁さんのヘル
メットもジャガーを左右に配
置し、紫がかったミッドナイ
トブルーと明るいブルーを使
用した非常にハイセンスな物
だった。
プライベーターであそこまで
高級感を出す意匠はなかなか
なかった。ウエアにパステル
トーンやピンクを男性用に使
ったのもジンプライスが嚆矢
のように思える。
私の記憶が確かなら。
そのセンスのラインは、どう
言ったらいいか・・・そう、
1985年にヤマハファクトリー
が資生堂とコラボして、商品
TEC21のパールの藤色のウエ
アとマシンを発表したあのセ
ンスは衝撃的だったが、実は
それよりも何年も前に、当時
ではほぼ存在しない色調とデ
ザインをジンプライズは発祥
させていた、という感じ。
ただ、1980年代は500クラス
ではプライベーターではもう
勝てない時代になっていたし、
250もそうだった。
市販車改造(ほぼ規制無制限)
のF3クラスまでもがワークス
マシンがずらりの時代だった
から。
プライベートレーシングライ
ダーの中で一番ハイセンスな
装いと光った走りだった斉藤
仁選手。全日本ではスズキの
市販レーサーRG500を駆って
いた。
けさ7時時点。
昨日よりもかなり寒いと感じ
たら、予報と同じく実際にそ
の通りだった。
腹時計と似て、体感てのは結
構正確(笑
自律神経が正常に機能してい
ると、そうした身体感覚は正
確に物事を捉える。
朝の寒暖ひとつとっても、自
己の体調診断の材料が神から
与えられている。
宗教行事であり、お騒ぎイベ
ントではない。
だが、七面鳥は食わないが、
ケーキは食う。
1980年代末期。
バブルという浮かれた時代、
あの都民の若者たちのパリピ
ぶりは一体なんだったのか。
てか、俺がもろにその世代だ
けどさ(笑
なぜ、定番が赤プリ泊だった
のか謎。予約なんて取れない
けどね、激戦で。
皆さん、おめかししてさ。
クリスチャンではないから、
降誕を祝いもせず、礼拝にも
参加せず、宴会騒ぎで若者は。
世の中のあれは何だったのか。
【アニメ】マッハGoGoGo_OP Speed Racer japan
♪風もふるえるヘアピンカーブ
ヘアピンってサーキットでは
シケインを除けば一番速度が
落ちる所なんだよね(笑
時代と共に最高速度は上がっ
ても、ヘアピンは殆ど変化無
し。大体60km/h~70km/h程
でクリップするコーナーが殆
どだ。凡そ30R前後。
「マッハGoGoGo」(1967~1968)
は大好きだった。
私が小学校に入学すると同時
に放送が開始された。
タツノコプロの「パイロット
A(エース)」と「マッハ三四郎」
が合わさって「マッハGoGoGo」
が誕生した。
Go!という英単語が1960年代
末期に流行ったのもこのアニメ
の影響だったろうと思う。
タツノコプロのアニメでは私は
1965年~1966年まで放送されて
いた「宇宙エース」が大好きだ
った。宇宙物が目白押しだった
のが1960年代中期アニメシーン
だった。
・宇宙エース(65~66/フジ=8ch)
・宇宙少年ソラン(65~67/TBS=6ch)
・遊星少年パピイ(65~66/フジ=8ch)
・レインボー戦隊ロビン(66~67/
NET=テレ朝=10ch)
・遊星仮面(66~67/フジ=8ch)
「宇宙エース」(1965)は私が
幼稚園時代の作品(笑
今でもソラで主題歌歌えるのだ
から、刷り込みは恐ろしい。
横浜市歌のようなもんだ(笑
宇宙エース オープニングタイトル
それにしても、アニメは子ども
の脳を刺激した。
1963年正月から放送開始された
虫プロTVアニメ第一作目の名作
「鉄腕アトム」は正月放送を楽
しみに観たのをよく覚えている。
私の年齢は満2才だ。
鉄腕アトム(1963)
2才児だろうと、記憶は鮮明に
残っている。再放送などではな
い。タイムリー記憶だ。かなり
衝撃的な第一話だった。
言語表現の地域性について。
東日本首都圏の場合、二輪の
良質走行内容の走りを実際に
見たり、映像で観たりした場
合、それを評して「乗れてい
る」と表現する。二輪の業界
用語だ。
一方、西日本中国地区広島エ
リアでは独特の言い方をする。
それは「走っとる」と言う。
首都圏でいう「よく乗れてる」
の場合は「よう走っとる」と
表現する。
それを首都圏語で「よく走っ
てる」と訳すとニュアンスを
外す。「よう走る」は「よく
走る」ではなく、「とても上
手に走らせている」という意
味が広島エリア方言での表現
においては主軸となるからだ。
首都圏語の「乗れてる」と同
義語が「走っとる」なのであ
る。
つまり、両者は同義であると
同時に、それは内実としては
can とdo と execution が極
めて色濃く反映されている状
態を指す表現なのだ。
そもそも「乗れてる」という
表現自体は二輪業界の専門的
な表現なので、二輪に接しな
い人たちにはピンと来ないだ
ろうが(笑
最近、首都圏人以外の西日本
出身者たちが非常に動画配信
者には多いゆえ普及?蔓延し
始めた二輪界の表現が一つあ
る。
それは「散る」という表現。
現行で動画配信などで多用さ
れるその表現は東日本には存
在しなかった。
二輪業界用語では「飛ぶ」と
表現した。
これはレース界から発生した
転倒を表す表現だが、かつて
は東日本だけでなく西日本で
も二輪走行時の転倒は「飛ぶ」
と表現していた。
この現象は、ロードレースが
全国的に隆盛をみた1980年代
には顕著で、関西人も広島人
も転倒の事を「飛ぶ」と表現
していた。(1970年代に私が
高校時代に在籍した都内のレ
ーシングチームには広島方言
しか話さない広島県出身者が
いたが、やはり「飛ぶ」表現
を使用していた)
スピードを出す事の「飛ばす」
とは別な意味の独自表現だ。
だが、いつの間にか二輪での
転倒の事を「散る」と呼ぶ人
たち(とりわけレースに関与
しない人たち)から表現が発
生しはじめ、西日本側からそ
の表現が燎原の炎のように広
まっている。
最近ではサーキット走行での
転倒の事さえも「散る」と表
現する傾向がみられる。主と
してやはり西日本勢力側がそ
の表現を使う。
ただ、古くからロードレース
に関わって来た人たちは、今
も転倒の事は「飛ぶ」と呼ぶ。
二輪業界の最先鋒ロードレー
ス界が表現をも発信して斯界
を牽引して来たのがこれまで
の日本国内の二輪界における
趨勢だったが、ここ何年かで
レースとは無縁の一般走行者
の側から新たな二輪限定表現
が登場した事は社会学的に非
常に面白い。
ただ、私自身は古い人間なの
で「散る」は使わない。
「飛ぶ」は再起可能だが「散
る」は神風特攻隊のように片
道切符のような印象があり、
二輪走行の思想性として不撓
不屈の性根とはマッチしない
ように強く思えるからだ。
二輪とは「立て。立つんだ!
ジョー!」のような不滅の
立ち上がる根性が無いと乗っ
てはいけない乗り物だと私は
思っている。
なので、私自身は、言葉の流
行などに流されて「散る」は
二輪の走行時転倒表現として
は使わない。
散ったらサヨウナラなのだ。
地雷を踏んだらサヨウナラで
あるように。
(地雷は遅延性起爆は殆ど存
在せず、踏んだ瞬間に爆発す
る。よく映画やドラマで地雷
を踏んで足を離したら爆発、
というのは大嘘。現実世界で
は地雷は踏んだら助からない。
戦地で歩兵にとって一番の恐
怖は狙撃手であり、それと同
列に地雷と空爆・砲撃がある)
表現は人間の思想性を代弁す
る。
てめえのかかあの事を他人様
に対して「奥さん」とか言っ
てる間抜けにはその真実が解
るまい。
君よ、漢ならば表現者たれ。
「どっちでもええやん」では
ない。
巻藁と畳表巻は別物なのだ。

わが青春の地、飛鳥山公園。
都内で唯一路面電車区間が
残る場所でもある。
飛鳥山の桜は、江戸時代に
八代将軍吉宗が初めて庶民
に花見を許可した桜だ。

高校時代、毎日見ていた風景。
札口がある。

が南北に走り、東西に走る都
電・都バスと交差するクロス
ロードだ。バスは下町から池
袋まで走っている。
所となっている。




路面電車の走る街、東京。
かつては縦横無尽に旧東京
市内を走っていた。私が子
どもの頃までは。
今残るのは新宿区の早稲田
から下町荒川区の三ノ輪ま
での都営荒川線のみになっ
た。
だが、よほどの事が無い限
り、この路線は廃止されな
いだろうと思われる。
私が死してのちもずっと残
ってほしいと願う。

カフェはパリ。
パリはカフェだべ。
路面電車のお客さんさえも
オサレに見えるのはパリだ
から?
この路地たまらない。
映画みたいだ。
どことなく横浜の元町に似て
いる。
これも横浜元町のアパートメ
ントみたいだ。
街中のどこに行ってもエッフ
ェル塔が見える。見えないと
ころはエッフェル塔の中だけ、
とよくいわれる。
エッフェル塔が完成したのは
明治22年。日本も明治28年に
は路面電車が走っている。
にゃんこが店番。
おまけ。
皮むいた人、職人技。
フランスって、自由博愛平等
を謳う国だけど、世界有数の
動物虐待王国でもあるんだよ
ね。
家族旅行に行く時とか、平気
で飼い犬や猫を捨てる事をす
る人間がとても多くいる国、
という現実がある。
世界中の国は上辺だけの華麗
さや繁栄を見ていると、その
国や国民の真の姿は見えない。
モナンのレモンシロップで
作るレモントニックは結構
いける。
糖分はやや多いが、爽やか。
バーのノンアルカクテル等
によく使われるのがモナン
シロップ。他にもいろいろ
種類がある。