この本は河合隼雄先生と小川洋子の対談なのですが、多分先生としては最後の対談となったのでは。
きっかけは河合隼雄先生が映画の「博士の愛した数式」を見て、自身が高校の数学の教師だったこともあり、いたく感心して対談の声かけになったとか。
先生が文化庁長官だった時なので、対談場所は長官室だったとか。

対談を読んでいるとその昔読んだ「博士の愛した数式」を思い出したのですが、江夏の背番号28は完全数とか、友愛数でつながっているとか数の不思議というか魅力がどんどん出てきて感心した覚えです。さすが数学の先生だったあって造詣が深く、そこから話は臨床心理の話にどんどん発展していくのです。
ところで、河合先生がスイスから日本に帰ってきて学会で魂という言葉を使うと非科学的とされ批判されるので15年間は使わなかったとか。箱庭療法は言葉では伝えられない心の中にあることを表現してもらうものですが、表現することによって治療になるということを科学的に証明せよと言われても困るよね。セラピストは解釈しないで鑑賞しなさいと言われても、どないすんねんです。でも医療ということを考えると、診断ということだけでなく「いのち」や「たましい」を手触りあるものとして刻み付ける物語も必要だと。
臨床心理の仕事は自分なりの物語をつくれない人をつくれるように手助けするというか、患者が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような「場」を提供すること。小説家も今まで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、物語として取り出して書いている。ただ、臨床心理の現場では、場合によっては自殺したり人を殺したりという「現実の危険性」を伴うだけに、それなりの訓練と覚悟が必要となります。心がよそに行っていたら必ず患者さんにばれる。きちんと患者さんの苦しみ絵を引き受け秘密を守らなければいけない。河合先生の言葉にはそういう現場で鍛えられてきた自負とすごみがそれとなしににじみ出てます。
人間が生きていく上で、「どうして死ぬのか」「死んだらどうなるのか」という恐怖と付き合っていくのには「物語」が絶対に必要で、だからこそ人間が言葉を獲得すると世界中のどの民族も神話を作っている。死の恐怖や悲しみを受け入れるためには、死に続く生、無の中の有を思い描くことによって、物語ることによって死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付けて自分を一つに統合できる。一神教の世界では神の世界があまりにも強いので、人間は神の作りたもうた物語を生きている。イスラム原理主義の世界ではコーランの物語がすべてです。
その中で世界文学史の中でいち早く誕生した物語として河合先生は「源氏物語」を高く評価している。紫式部は身分としてスタンダードには乗れないのだが、経済的心配もなく平仮名という表現手段を持っていたことによる心を表現した物語を初めて出すことができたと。
河合先生の読み込みによって「博士の愛した数式」も作者の意図しなかったような意味と世界が広がっていることを気がつかれさせられます。小川洋子としてはそんなことを考えもせずに成り行き任せで書いていたことが作者の手を離れて物語の中で自由自在に動き回っている。
それは作者を幸せな気分にさせ、作者は物語の前でひざまずきます。物語と現実が気が付かないところでつながっているのです。
次回は「ブラフマンの埋葬」についてお話しするつもりだったようですが、その後すぐに河合先生が倒れられ帰らぬ人になってしまいました。写真はいつもの冗談が好きな温かい笑顔です。
ところで全く趣は違うのですが、先日「終わった人」を読んだ後遺症というか、「おとなの男の心理学」を読んでみました。「おとな」となっていますが、描かれているのは老年期にさしかかった団塊の世代の男性。どうも男はプライドが強いのか会社辞めても心は部長のままというか一度手にした肩書や社会的評価が自尊感情に直結してボランティア活動にも入り込めない。自分の人生はほぼ完成し後はこれを維持するだけなどと考えていると妻とのギャップは開いていくばかりで逃げられるだけ。もっと妻のケアをしなくてはいけないと言われてもなあ…
男性は女性と比べて老いを受け入れようとしない。外見については変わるのもやむを得ないというか頭髪以外はあまり気にしないのだが、年齢を重ねてもなるべく変わりたくない、変わることを想定したくないという意識が強いとか。日々老いていく今を受け入れるというのは何と難しいことか。
成人した子供の対してもいつまでも親を卒業できなくて余計なことをしがちなのだが、子どもはすでに親の思うよりずっと大人でうまく利用しようとはしても親のことなんかまったく思っていないといわれると悲しいけどそれが現実なんですよね。
香山リカの文章は読みやすく、気楽に、でも内容は結構グサグサきつつさっと読むことがでました。
きっかけは河合隼雄先生が映画の「博士の愛した数式」を見て、自身が高校の数学の教師だったこともあり、いたく感心して対談の声かけになったとか。
先生が文化庁長官だった時なので、対談場所は長官室だったとか。

対談を読んでいるとその昔読んだ「博士の愛した数式」を思い出したのですが、江夏の背番号28は完全数とか、友愛数でつながっているとか数の不思議というか魅力がどんどん出てきて感心した覚えです。さすが数学の先生だったあって造詣が深く、そこから話は臨床心理の話にどんどん発展していくのです。
ところで、河合先生がスイスから日本に帰ってきて学会で魂という言葉を使うと非科学的とされ批判されるので15年間は使わなかったとか。箱庭療法は言葉では伝えられない心の中にあることを表現してもらうものですが、表現することによって治療になるということを科学的に証明せよと言われても困るよね。セラピストは解釈しないで鑑賞しなさいと言われても、どないすんねんです。でも医療ということを考えると、診断ということだけでなく「いのち」や「たましい」を手触りあるものとして刻み付ける物語も必要だと。
臨床心理の仕事は自分なりの物語をつくれない人をつくれるように手助けするというか、患者が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような「場」を提供すること。小説家も今まで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、物語として取り出して書いている。ただ、臨床心理の現場では、場合によっては自殺したり人を殺したりという「現実の危険性」を伴うだけに、それなりの訓練と覚悟が必要となります。心がよそに行っていたら必ず患者さんにばれる。きちんと患者さんの苦しみ絵を引き受け秘密を守らなければいけない。河合先生の言葉にはそういう現場で鍛えられてきた自負とすごみがそれとなしににじみ出てます。
人間が生きていく上で、「どうして死ぬのか」「死んだらどうなるのか」という恐怖と付き合っていくのには「物語」が絶対に必要で、だからこそ人間が言葉を獲得すると世界中のどの民族も神話を作っている。死の恐怖や悲しみを受け入れるためには、死に続く生、無の中の有を思い描くことによって、物語ることによって死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付けて自分を一つに統合できる。一神教の世界では神の世界があまりにも強いので、人間は神の作りたもうた物語を生きている。イスラム原理主義の世界ではコーランの物語がすべてです。
その中で世界文学史の中でいち早く誕生した物語として河合先生は「源氏物語」を高く評価している。紫式部は身分としてスタンダードには乗れないのだが、経済的心配もなく平仮名という表現手段を持っていたことによる心を表現した物語を初めて出すことができたと。
河合先生の読み込みによって「博士の愛した数式」も作者の意図しなかったような意味と世界が広がっていることを気がつかれさせられます。小川洋子としてはそんなことを考えもせずに成り行き任せで書いていたことが作者の手を離れて物語の中で自由自在に動き回っている。
それは作者を幸せな気分にさせ、作者は物語の前でひざまずきます。物語と現実が気が付かないところでつながっているのです。
次回は「ブラフマンの埋葬」についてお話しするつもりだったようですが、その後すぐに河合先生が倒れられ帰らぬ人になってしまいました。写真はいつもの冗談が好きな温かい笑顔です。
ところで全く趣は違うのですが、先日「終わった人」を読んだ後遺症というか、「おとなの男の心理学」を読んでみました。「おとな」となっていますが、描かれているのは老年期にさしかかった団塊の世代の男性。どうも男はプライドが強いのか会社辞めても心は部長のままというか一度手にした肩書や社会的評価が自尊感情に直結してボランティア活動にも入り込めない。自分の人生はほぼ完成し後はこれを維持するだけなどと考えていると妻とのギャップは開いていくばかりで逃げられるだけ。もっと妻のケアをしなくてはいけないと言われてもなあ…
男性は女性と比べて老いを受け入れようとしない。外見については変わるのもやむを得ないというか頭髪以外はあまり気にしないのだが、年齢を重ねてもなるべく変わりたくない、変わることを想定したくないという意識が強いとか。日々老いていく今を受け入れるというのは何と難しいことか。
成人した子供の対してもいつまでも親を卒業できなくて余計なことをしがちなのだが、子どもはすでに親の思うよりずっと大人でうまく利用しようとはしても親のことなんかまったく思っていないといわれると悲しいけどそれが現実なんですよね。
香山リカの文章は読みやすく、気楽に、でも内容は結構グサグサきつつさっと読むことがでました。