怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「検証長篠合戦」平山優

2014-11-07 07:23:13 | 
博物館で三英傑展を見たからではないですが、結構書評で評判になっている本なので読んでみました。
尾張の地方領主から近畿東海と支配地域を広げ戦国時代を終わらせ天下統一まであと一歩というところで非業の死を遂げた織田信長は、斬新な発想で旧体制を打破する革命児とされている。秋山駿の「信長」や井沢元彦の「逆説の日本史」では、その革命性が高く評価されている。
そして信長の革命性が端的に表れているとしている一つが長篠の合戦です。
当時の最先端の武器である鉄砲を3千挺用意して馬防柵からの3段撃ちで戦国最強と言われた武田騎馬軍団を完膚なきまでに粉砕。新しい時代に導く戦国史を転回させたまさに歴史に残る合戦であった。まさに信長の革命的戦略の勝利!
ところで、ではその長篠の合戦の実態はどうだったんだろうか。近年では通説に対する批判もあり混沌としている部分もある。

曰く当時の騎馬武者は下馬して戦うので騎馬軍団の突撃はなかった。
曰く鉄砲の三段撃ちは本当にあったのか
曰く馬防柵は信長がち密に計算して岐阜から材料を用意したのか
この他にも数々の論点があるのだが、著者は資料を吟味し書かれていることを再検証する中で長篠の合戦の実態に迫っている。奥付を見ると著者は現役の高校教師だそうで、これだけのものを出版する情熱と努力には頭が下がります。ちなみにこの本は「長篠合戦と武田勝頼」の続編。本当はそちらから読むべきだったのでしょうが、合戦に焦点が当たっているだけにこちらのほうが読みやすいかも。
非常に多岐にわたって緻密な検証を行っているのですが、私的に興味を持ったところをダイジェストしてみると、
まず武田氏は最強の騎馬軍団の頼むにあまり新兵器たる鉄砲の導入に興味がなかったかというとまったく違いかなり積極的に導入しようとしていたのです。実際長篠合戦でもかなりの鉄砲を使っており一定の効果を上げている。しかし、甲斐の国はというか東国は鉄砲の生産地たる近畿の滋賀や堺からは遠く南蛮貿易もままならない。消耗品である弾薬の確保もできない。苦労して鉄砲を入手しても訓練することもできず、結果として練度不足のため命中精度は著しく落ちてしまう。武田氏と戦った村上氏の文書では持ち玉は3弾で、弾切れになったら鉄砲を捨てて戦えとあるそうだが、武田氏でも状況は推して知るべしなのだろう。信長だけが鉄砲導入に積極的だったわけでなく意欲はあっても東国大名の限界があった。
またその運用面でも各家臣から鉄砲を集め鉄砲隊を編成している点では織田も武田も変わりなく、信長が兵農分離で常備軍を作って運用していたということも確かでないとか。領地ではなく城下町に家を持ち妻子を住まわせるということは一種の人質でこれは信長の独創ではない。
三段撃ち自体は千挺あて交替で撃ったというよりは、狙撃兵と弾込めを分けて千人の狙撃兵に順番に銃を渡していったというのが蓋然性が高いようです。
馬防柵はこれまた信長の独創ではなく戦国時代の合戦でよく見られていたもので、あえて言えばよくある光景で勝頼にとってはそれほど脅威には感じなかったのでしょう。木材はわざわざ岐阜から運んだものではなく現地で調達したと思われます。
戦国最強と言われた騎馬軍団ですが、下馬して戦うのは主に西国でみられた戦法で東国では騎馬隊での突撃は一般的な戦術で、主に戦線が浮足立ったところで導入されていたようです。
では何故武田軍は兵の数も少ない中、三千挺の鉄砲の標的になるままに突撃していったのか。そこには情報戦での失敗があります。兵の数について言えば、織田軍は巧みに隠すことによって実際よりも少なく見せていたようです。鉄砲についても自軍と違って織田軍が豊富な弾薬を持ち、経戦能力が高く練度も高いとは思っていなかったのです。実際、初戦は武田方が押しているのですが、徐々に消耗する中で兵力と火器に圧倒され退却を余儀なくされるということです。総崩れとなると圧倒的な兵力での追撃戦にほぼ武田方は壊滅してしまいました。
これらから明らかになったことは、長篠合戦での信長には革命的というほどの戦略はなかったということです。この合戦で信長は天下統一への確たる地歩を固め戦国時代は大きく転換していくことは確かなのですが、近畿東海を手中に収めていたことによる鉄砲装備の優位性と兵力の違いで勝ったということである意味非常にオーソドックスな戦いです。中世の暗黒を切り開いた革命児という信長の評価は過大すぎるかもしれません。どうもレトロスペクトと言うか天下統一に向けて大きく前進させた結果論から信長の評価を必要以上に高めているのは事実でしょう。
桶狭間の戦い宮島の戦いなどにあるように寡兵が大軍を打ち破るということはままあったのですが、そのためには情報戦で優位に立ち、敵を知り己を知らば百戦危うからずでないといけないのに、勝頼には状況が見えてなかったのが敗因でしょう。敵の兵力と装備を正しく認識していたら、この場合撤退するしかなかったはずです。

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