【約160年前の伊賀上野地震、南海地震の様子を日記などでたどる】
奈良市ならまちにある市立史料保存館で企画展「記録にみる幕末奈良の大地震」(主催奈良市教育委員会)が6日から始まった。約160年前の嘉永7年(1854年)6月に起きた伊賀上野地震(M7.6)と11月に発生した南海地震(M8.4)を取り上げ、当時の奉行所や町・村の記録、庶民の日記などを通じて被害状況や人々の受け止め方などを紹介している。9月29日まで。
伊賀上野地震は南海地震に先行する内陸直下型地震、南海地震は駿河湾から九州沖まで伸びる南海トラフの活動によるもので東海地震と連動して起きた。『嘉永七年六月大地震瓦版』(上の写真㊨)は南都をはじめ伊賀上野、亀山、三河岡崎などの被害状況を地域別に伝える。南都については「大地震にて町家一軒も無事なるはなし…皆々野宿明地などにて夜を明かし往来人一人もなく目もあてられぬ次第なり」とし、人身被害は「死人三百五十人 けが人横死其数をしらず」と記す。
月ケ瀬の住民が書き残した『大地震難渋日記』(下の写真㊧)は6月の模様を「地ハほふろくの中ニ而豆をいり両手ニ而ゆする如くゆり」と表現し、畑は段差ができて濁り水が湧き出し、田畑が泥海になるのではと村人は皆涙しながら、少しでも高い所へ避難したという。『地震帳』(写真㊥と㊨)は「十四日よるの八ッ時ニ、大大大大大大大をうぢしん」と大地震への驚きを表し、さらに「うし むま いぬ ちん ねこまでもふるへけり にわとりもようなかず」と記す。10日ばかり野宿したが、その間、念仏の声ばかりが響いていたという。この2つの史料は市指定文化財。
『地震に付直御注進写』は奈良奉行所同心を務めた鏑木家に残る記録で、6月の地震直後に奈良の被害状況をまとめている。『東友秋日記』は春日大社の楽家だった東家の記録。6月の地震で家が全壊し、持ち出せたのは楽譜類と鍋釜だけだったと記す。11月の大地震と大阪での大津波にも触れている。12月30日付では禁裏炎上、大地震、異国船渡来(ペリー)、大津波など内外ともに大変だった1年を振り返っている。
会場にはこれら12点の史料に加え、伊賀上野の「法華経塔」や大阪市の大正橋東詰めにある「大地震両川口津波記石碑」などの写真パネルが展示されている。法華経塔は伊賀上野だけで約600人といわれる犠牲者を供養するために1周忌に建てられた。大阪の津波記石碑は6月と11月の地震の被害を伝えるとともに、約150年前の宝永4年(1707年)大地震の津波で多くの死者が出たにもかかわらず、その記憶が薄れて再び多くの命が失われたとし、碑文の最後に「願わくは心あらん人、年々文字よみやすきよう墨を入れ給ふべし」と刻む。