kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

メディアから「アンタッチャブル」をなくす試みを  「テレビで会えない芸人」

2022-02-01 | 映画

「生きているということは誰かに借りをつくること 生きていくということはその借りを返してゆくこと」(永六輔)

ずいぶん昔、私が執行委員をつとめていた労働組合のイベントに松元ヒロさんをお呼びした。現在では、あんな小さな組合のこじんまりした規模で、安いギャラでは呼べないのではないか。いや、ギャラもだが、ヒロさんの予定が合わないだろう。それくらいヒロさんの人気は不動のものとなっている。そこに至るヒロさんの軌跡、それは出会った人たち、テレビとの距離、ヒロさんの考え方全てが関わっている。

時事ネタを得意とするコメディアンはそんなに多くない。芸能人の失敗をあげつらい、笑いをとるナイツは例外ではないが、多くのコメディアンは世相を何らかのネタにしている。しかし政治ネタ、それも政権批判や原発、特定の法律、そして憲法だとどうだろう。全くいない。政権批判、原発、沖縄の基地などストレートに打ち出していたウーマンラッシュアワーは、村本大輔がもっと表現できる世界をとアメリカに行こうとしたが、コロナ禍で止まっている。しかしそもそも村本はテレビに呼ばれなくなっていたのだ。そして、ヒロさんがテレビに呼ばれないのは、重要ネタ「憲法くん」のせいだと思う。

「憲法くん」は、人格を持った「憲法くん」が、安倍政権で顕著であった壊憲状況、集団的自衛権、特定秘密保護法、共謀罪などがいかに憲法の理想、原理から離れているか、反憲法であるかを真っ向から批判、おちょくるものである。ヒロさんは言う。「現在の憲法は現状に合っていないと言うけれど、理想として成立した憲法に現状を合わせようと努力すべきではないか」。これだけ聞けば、護憲墨守のゴリゴリの旧左翼に見える。確かに、ヒロさんの特に地方公演などは、地元の護憲団体からの招請も少なくないようで、観客も年配層だ。しかし、憲法を大事にと言った時点で「左翼」となり、テレビが出演を求めないと言うのは世の中の軸が右側に寄ってしまっているからでないか。

テレビを代表とするマスメディアが批判的、問題提起的に取り上げないテーマの最たるものは天皇(制)だろう。明仁天皇は退位の意向を自ら、直接国民に伝えた。天皇は政治的権能を持たないのに、代替わり(改元)という国民の生活に大きく関わる事態を招いた行為として違憲の疑いがあるのではないかとの真っ当な議論もテレビでは紹介されない。また、そのような天皇自らの違憲的行為を許した内閣の責任も問われなかった。その日本で最もアンタッチャブルな世界をも取り上げるヒロさんをテレビは好まないだろう。

労働組合のイベントでは「夜回り先生」こと水谷修さんもお呼びしたことがある。水谷さんは、ちょうど人気のあった橋下徹氏を取り上げ、「テレビによく出る人間は何年か(首長や議員への)立候補を禁止したらいい」と話されていた。職業選択の自由などからこの提案も違憲だが、維新政治の規制緩和、公的部門縮小の政策により、市民病院、保健所の機能が低下して、コロナ死亡率が高かったのではないかとの指摘もある。テレビ出演の多い吉村洋文知事は圧倒的な支持を得ているが、水谷さんの言葉にうなずいてしまう。

ヒロさんが本番前に訪れる理髪店は、永六輔の御用店。お店に貼ってある色紙は、ヒロさんの人間観ともそのまま繋がる。そして、どんどん殺伐としていく現状に笑いが必要である。

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Watersと複数形が危機を占めす  「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」

2022-01-03 | 映画

岸田首相が中身はよく分からないが、「新しい資本主義」を打ち出し、一昨年出版され、現在もよく売れているという斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)。「資本主義」がかつてないほど見直され、検討されるのにはSDGs「狂騒」をはじめとした現代社会が今のままでは継続し得ないという危機感もあるだろう。しかし、大量生産・大量消費といった資本主義を象徴する工業社会のあり方はここ数年で伸長したのではなく、産業革命以降綿々と続いてきて、特に日本では高度経済成長期の「成熟」や「発展」が大きく寄与していると言えるだろう。そして、その時期、日本では4大公害病など深刻な人的、あるいは後世に続く被害をもたらした。では、排出物規制などその頃より法整備が整った現在では、先進国では公害は過去のものと言えるであろうか。

アメリカの巨大企業デュポンは、まだ規制対象外だった化学物質を含んだ廃棄物を大量に廃棄していた。その現場では牛が大量に死んでいる。農場主が訴えに行った先は企業弁護士のロブ・ビロット。祖母の紹介ということで渋々引き受けたロブは、膨大な証拠書類の中からその廃棄物がPFOA(C8)という未知の物質を含んでいることを突き止め、デュポン社内で既に有害、有毒であることを認識した板野に垂れ流していたことを突き止める。巨大企業は金に物言わせるかのように、政府委員会に圧力をかけ、つかませ金で被害住民を黙らせようとする。ロブのロー・ファームもバックアップして、デュポンは将来に渡り、住民の健康被害の調査と賠償を受け入れることになり、それは現在進行形でもある。

PFOA(ヘルフルオロオクタン酸)とは、フライパンのテフロン加工など調理器具にも使用されているフッ素化合物の一種で、その残留程度により危険が伴うとされる。事実、ロブら住民側の提案により設置された科学者からなる委員会で、住民の高いがん発症率が証明されている。同様の化合物PFOS(ペルフルオロオクタンスルホン酸)は、沖縄の駐留米軍が住民の居住地近くに廃棄し、現在大問題となっているので聞き覚えがある。そしてロブがデュポン社と戦った(ている)のは、1998年から現在まで、そして沖縄の問題は、21世紀の現在の話である。決して公害は過去のことではない。

デュポン社のような巨大企業の利権は莫大であり、それを支えるのが資本主義の宿痾であるとするなら、資本主義を脱しない限り、公害もなくならないのであろうか。多分そうだろう。そして、それを修正して、いかに「持続可能な社会」を公正に構築しようという試みがSDGsなのであろうが、道のりは当然厳しく、『人新世』では完全な脱成長を奨める。

人の健康や希望の未来と社会「全体」の発展の併存というアポリアは、工業社会、公害社会、高度経済社会につきもので、それは個人の自由を追求すれば、全員が納得するまで話し合いを重視するという民主主義とは相矛盾するのと似ている。むしろロブのような元々企業法務出身の弁護士が、住民の側に立ち、徹底的に戦うことができるのは民主主義の証との見方もあるだろう。

企業(資本、雇用側)の自由度が高まれば、個人の選択の自由度は下がると指摘したのは斎藤貴男だった。斎藤は、経済誌記者出身ながら、後に権力の専横を批判し続ける。言葉だけの「新しい資本主義」は、大企業への課税も強化せず、中小企業への優遇税制は効果も、実効性もないと早くも化けの皮が剥がれている。政府や巨大企業にSDGsの効果を期待していては、公害は起こり続け(核廃棄物を排出し続ける原発政策はその最たるもの)、現状は変わらないだろう。権力を持たない市民の側こそ資本主義を問いなさなければならない。

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美術の価値は誰のためか? 「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」

2021-12-11 | 映画

美術品の価格というのは一体どのようにして、どういう理由で決まるものなのだろうか。バブルの時代、安田火災(現・損保ジャパン)がゴッホの「ひまわり」を当時のレートで史上最高額の53億円で競り落とした時は、日本の金満ぶりとともに、美術品はある意味天井なしの価格をつけていいのだと知らしめる機会になったことだろう。その53億円がかすむ価格がついたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる「サルバトール・ムンディ(世界の救世主)」、510億円である。そのカラクリが本作によって明かされる。

ニューヨークの美術商が無名の競売会社のカタログから見つけたレオナルドの「失われた絵」を見つけ、買い取った額は1175ドル(約13万円)。それがロシアの富豪などを経るうちにサウジアラビアの王子が入手した時には件の価格にまで跳ね上がっていたのだ。しかし、その間「真作」としてロンドン・ナショナル・ギャラリーでの展示。ルーヴル美術館でのダ・ヴィンチ展では、サウジが「モナ・リザ」の隣に「真作」として展示するよう要求したが、ルーブルの鑑定では「科学的な知見ではダ・ヴィンチは“貢献した”だけ」との見解で、結局展示しなかった。ならば、サウジとフランスの関係が悪くなったかといえばそうではなく、文化大国としての偉業を将来見せつけたいサウジに、フランスが大きく援助することで関係は保たれた。世界的に脱炭素の高い目標が掲げられる2030年に産油大国のサウジが巨大プロジェクトを完遂させるために、フランスに貸を作りたかったからとも憶測されている。では、結局ルーブルに貸し出されなかった絵はどこに行ってしまったのか。UAEに建設されたルーヴル・アブダビに常設展示されるとの報道もあったが、結局されずに再び所在不明となっている。そこまでの経緯がスリリングで、美術商や蒐集家のみならず、国家の思惑まで描きこんだドキュメンタリーが秀逸だ。

そもそも美術品の値段はあってないようなものだ。美術市場が富裕層の地位の誇示やマネーロンダリングなどの場となり、そういった実態が作家の思惑からかけ離れていく様をアンチテーゼとして示したかったバンクシーの作品が、オークション会場で落札と同時に切り刻まれたことにより、その価額より何倍も跳ね上がったのは皮肉な出来事だった。街に落書きし(グラフィティ)、金銭的評価とは無縁、むしろそういった美術作品が扱われる現状を否定していたバンクシーもその価値観からは逃れられないということであろうか。もっとも、これこそがバンクシーの戦略という見方もあり、「サルバトール・ムンディ」をめぐる狂騒とは違ったところで、どの美術作品も市場と無関係なところでは存在し得ない。

値段があってないようなのが美術作品と書いたが、「モナ・リザ」や他にもそもそも値段がつけられない美術作品というのは多数ある。ミケランジェロやベルニーニの彫刻、ファン・アイクの宗教画など、現在となっては流通することがあり得ない作品群だ。そういう意味では流通こそが価値を左右するが、それはあくまで現在の貨幣としての価値である。だから流通を盛んにすることによってその価値をどんどん上げていくことは、その「名作」を見たい者にとっては見られるかどうか分からないという意味で迷惑であり、作品にとっても不幸なことではないのか。

「モナ・リザ」(現在の表記は「ル・ジョコンダ」)も随分昔に日本に来たことがあったが、ルーヴルはもう外部に貸し出しはしないという。「真作」「実作」を見たければ、その場所まで行くこと。その出逢える過程までもが美術鑑賞の楽しみの一つで、「サルバトール・ムンディ」が所在不明で見られないままであるのは、やはり悲しいことだ。

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ジェンダー規範の問題点は? 「三岸好太郎・節子展」

2021-12-01 | 美術

若くして亡くなった三岸好太郎は天才と呼ばれ、妻の三岸節子より圧倒的に知名度が高い。しかし、好太郎がわずか10数年稼働したのに比べて、94歳で逝去した節子の画業はとてつもなく長い。しかし、好太郎が戦前のシュルレアリスム絵画の一端をになったとの評価も含めて、好太郎の画業の変転に光を当たられることが多く、節子は「好太郎の妻にして画家」と紹介されることが多かったのではないか。しかし節子は「好太郎の妻にして画家」には収まらないし、少なくとも本展ではそうではない。しかし、ではなぜ「三岸好太郎・節子展」であるのか。

展覧会は少なくとも好太郎の画業に比して、節子のそれを軽んじているようにも見えないし、そして好太郎死後の節子の画業にもスポットを当てているのでバランスを取っているようにも見える。そうであるなら展覧会名の夫と、妻が付属物との表記がますます安易であったとしか思えない。「三岸好太郎・三岸節子展」であるならまだしも、画業の長さと没年齢を考えるならむしろ、「三岸節子・三岸好太郎展」ではなかったのかと。

しかし、好太郎が「天才」と呼ばれたほど時代の先端を切り取るほどの作品を発表したのは事実であるし、節子は戦前、それほどの業績を残していないのも確かである。では、節子の画業を好太郎のそれと比較して、正当に評価することは可能なのであろうか。

好太郎の画業は短かったが、大正期新興美術運動と並走し、西洋由来のさまざまな表現主義の息吹を捉え、取り入れ、作品に昇華した。有名な好太郎の「蝶と貝」をモチーフにしたシュルレアリスム作品は晩年の短い時期であって、それまでの変転こそが好太郎の真骨頂であることに見開かさせられることだろう。それほどまでに1920年代、西欧の「前衛」美術を取り入れようと格闘した三岸好太郎らの世代は、フォービズムもキュビスムも、挑戦できるものであればなんでも取り入れようとしたのである。日本で最も早い段階で抽象画に挑戦し、フォービズムもキュビスムをも体現したとされる萬鐵五郎は、その後南画に傾倒しているし、20年代にシュルレアリスムなど前衛的な作品を発表した画家たちは、戦時の国家体制という時代状況もあり、そのスタイルを変えていった。そういう意味では、美術の世界にまで国家主義が完徹する時代の前に亡くなった好太郎は、むしろ幸せであったのかもしれない。しかし、その後衛には同じ画家でありながら家事、育児に追われ、画家としての業績を重ねることもできずに奔放な好太郎の尻拭いに追われた節子の存在があった。同展では触れられていなかったが、同展の表題「貝殻旅行」、好太郎と節子が好太郎の死の直前、珍しく「睦まじく」旅行した際に、好太郎だけ名古屋に留まり、節子だけ先に東京に帰したのは、好太郎が名古屋の愛人の元に寄るためであった。その事実こそが、好太郎と節子の関係性を物語るし、好太郎がその愛人の元で客死したことを知るにつけ、節子の感情はいかばかりであったろうか、と考えずにいられない。

画家同士、夫婦である例は珍しくもないし、まさに「同志」であったからこそ紡がれた豊かな関係性もあるだろう。体調不全に悩まされた具体美術協会にも籍を置いた田中敦子は、同士で夫の金山明の支えがあったが、おそらく、金山より田中の画業の方が有名である。美術の中身の話ではなく、ジェンダーの話になってしまったが、美術の世界のジェンダー規範は、問うても問いきれていない問題でもあると思う。(「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」は神戸市立小磯記念美術館 2022年2月13日まで)

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真実の追及に「黒塗り」で応える、アメリカ、日本  「モーリタニアン 黒塗りの記録」

2021-11-14 | 映画

本作の題名にある「黒塗りの記録」と言えば、この国では森友問題をめぐって財務省が公文書を改竄した際の文書や、名古屋入管で見殺しにされたウィシュマ・サンダマリさんの入管側の経過報告書が思い浮かぶ。しかし、本作の黒塗りはある意味もっと闇は深い。だからといって日本の黒塗りは軽いのか、そうではない。しかしそれは後述するとして、ここで問題なのは、アメリとかというもっと自由で、民主主義が保証され、かつ政府の透明性も「高い」とされている世界一の軍事大国の闇だ。

本作の問題提起は2点あると思う。一つは、政府が司法手続きの正当性=法的根拠を無視して、被疑者と見なした人間を長期間拘束する点、そして、その事実を国をあげて隠蔽しようとする点である。1点目はデュー・プロセスの本質から逸脱しているのは明らかだろう。そして世界一の民主主義大国を標榜するアメリカが、情報開示、市民の知る権利とは真逆の対応をした実態である。

9.11で国の威信を貶められたと考えたブッシュ政権は、「これは戦争だ」とアフガニスタンのタリバン政権を崩壊させ、テロの温床に資する大量破壊兵器を所持しているとしてイラクのフセイン政権も崩壊させた。しかしタリバンが9.11の首謀者とされるアルカイダ、その指導者であるとされるビン・ラディンが本当に9.11を指示、主導したのかも分からないのにパキスタンという独立した他国にいたビン・ラディンを米軍は家族とともに暗殺、イラクには大量破壊兵器などなかったことは周知のことである。

9.11の実行犯と繋がりが深い容疑者として浮かんだのが、ドイツの留学と実際アルカイダの軍事訓練も経験があるモハメド・ウルド・スラヒ。アメリカ政府に忖度!したモーリタニア政府はスラヒを拘束、そのままアフガニスタンを経て、グアンタナモに移送される。しかし解放されるまでスラヒに拘束の理由となる正式な司法手続きは一度も存在しなかった。ブッシュ政権、イラク侵攻を主導し、その理由に石油利権がウラにあるとされ、利権企業の取締役であったラムズフェルドは9.11の実行犯を1日も早く「吊るし」、国民の怨嗟を回収しようとした。スラヒを早く死刑にしろ、と命令され、起訴を担当するスチュアート中佐を演ずるベネディクト・カンバーバッチ、スラヒを弁護する人権派弁護士ナンシー・ホランダーにジョディー・フォスター。役者は豪華だ。そしてスラヒ役は実際にアラビア語などを操るフランス出身のタハール・ラヒム。15年近く裁判も受けられないのに拘束され続けたスラヒをラヒムが演じ切ったことで本作の成功は約束されていたと言える。それほどスラヒの経験は壮絶で、簡単には描写できないし、スラヒの人間的崇高さも魅力なのだ。スラヒに関する記録が黒塗りになったのは、彼の拘束に関する法的根拠がなかったためと、彼の自白が拷問によるものだったからだ。その事実が、スチュアート中佐側からは、絶対に機密であると公訴権を持つ検察官をもはねつける国家の強固な意思をなんとか崩そうとする姿勢と、ホランダー弁護人側からは、被疑者の秘密交通権をたてにスラヒから届く手記により次第に暴かれていく。その様はとてもスリリングで、権力による恣意的な裁判運営ではない、「法の支配」の原点に触れる気がするのだ。忘れてはならないのは拷問=「特殊取り調べ」と呼ばれる、を許可したのがラムズフェルドであったという事実。正式な裁判、司法手続きの管理下では拷問などできないのでこのような方法をとっていたことが分かる。心身に対する凄惨、卑劣な拷問や女性取調官による性暴力などの事実は、スラヒが手記を出版する際には多くが「黒塗り」された。しかし、出版社はその「黒塗り」のまま出版したのである。

森友事件をめぐり財務省の公文書改竄を強制された赤木俊夫さんが自死した。その実態の解明を求める妻雅子さんの要求に、この国はまだ「黒塗り」で応える。公文書改竄が赤木俊夫さんにとって「拷問」であったのは明らかで、その責任をとるべき人間がきちんと取ることなどこの国で想像できるのだろうか。

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加藤典洋が遺した問いを引き受け続ける  『9条の戦後史』

2021-10-23 | 書籍

井上ひさしさんが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」と語っていたことを思い出した。

日本国憲法改正という議論は、憲法9条を変えるか変えないかという議論のことだ。そこには日本が自前の軍隊を持つことの是非はもちろん、自前の軍隊を持って他国を侵略した大日本帝国憲法をどう評価するかや、9条の出自がそもそもアメリカ由来であることをどう捉えるか、さらにはすでに自衛隊という大きな軍隊を持つ実態との乖離をどう考えるかと議論は多岐にわたる。そしてそれはすなわち戦後日本の歴史そのものである。

2019年若くして惜しまれながら亡くなった加藤典洋は、これらの難題を整理づけ、課題を提示する。そのためには新書版とはいえ500頁を超える大部が必要であった。そして、その整理づけのためには、9条、いや護憲派のうち少なからずの中には、筆者もそうであるが、丸山眞男といった戦後リベラルを象徴する知識人の言説、意見を言わば丸呑み、時に金科玉条のごとく盲信する姿勢をも突き崩さざるを得なかった。それは9条が抱えてきた時代背景を基礎とするその役割と、その扱い方を政治的立場も踏まえて歴史的に整理することにつながる。一方、9条をタテにアメリカからの軍事増強や更なる中国やソ連に対する政策の変更を拒み続けてきた自民党ハト派は、引き換えに日米安保体制の拡大を引き受ける。また、自主憲法制定を目指す自民党タカ派は、安保体制は自前の立派な軍隊を持つまでの一時的な仕組みと捉える。今日から考えると奇妙なねじれにも見えるが、結局55年体制とは、護憲勢力が必ず3分の1以上国会を占める奇妙な安定体制でもあったのだ。しかし、それが護憲側の「安穏」を助け、自民党内でも経済重視のハト派的流れから、憲法9条をどうするのか、といった根本的課題にも「向き合わずに」済んだというのだ。

護憲派の「教条主義的」姿勢に疑問を呈しつつ、護憲の立場から9条の活かし方を提言し続けたためにリベラル派から批判を受けてきた加藤も、安倍政権の誕生によって政権と9条の関係が根本的、劇的に変わったとする。それは天皇を元首とするなど明治憲法の復活と見紛う憲法草案の発表と、そうであるのになりふり構わぬ対米盲従の両立というあり得ない選択を示したからである。そうであるから、加藤も現行憲法のまま、2015年の集団的自衛権の行使を可能にした安全保障法制や、その理屈づけには反対した。そして、その暴挙をなした安倍晋三はまたもやコロナ禍の中、2020年に政権を投げ出し、安倍のコピー政権である菅政権も確実にそれらを引き継ぎ、そして2021年夏に政権を投げ出した。その跡を継いだのが、ハト派の象徴であったはずの宏池会の岸田文雄政権誕生となったのだが、その岸田も安倍・菅の方向性を何ら正そうとしない。しかし、加藤はこれらの政権与党内の腐敗も知らずに世を去ったのであった。

冒頭に、井上ひさしの言葉を紹介したが、加藤の仕事は、9条という、戦後日本が、有権者たる日本国民の誰もが逃れられない、向き合わざるを得ないアメリカとの関係、国民国家の自立とは何かといったアポリアを「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」説き起こしたことに他ならない。もうすぐ任期満了が僅かであるのに岸田政権がわざと解散した上での衆議院選挙がある。日本の有権者の半数はまた棄権するのだろうか。加藤の一番の危惧はそこではなかったか、との思いも拭えない。(2021年 ちくま新書)

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人為がなす神の怒りか  現在進行形でデップが訴えるMINAMATA

2021-10-02 | 映画

熊本県には2回行ったことがある。いずれも水俣病のことを学ぶスタディ・ツアー的なもので、ずいぶん以前に行った際には、原田正純さんの講演と砂田明さんの一人芝居を観劇した。そして割と近年行った際には、水俣に生きる人の思いを受け止めるとても若い世代の永野三智さん(『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』著者 2018 ころから)にガイドをしていただいた。

だが、自分自身は水俣病にきっちりと向き合ってきたわけではない。いわゆる「公害問題」を同時代的に実感するには、その土地の出身ではない限り、かなり主体的、意識的に関わらない限り難しいのかもしれない。言い訳ではあるけれど。

ジョニー・デップ演じるユージン・スミスはかなり破滅的だ。過去の栄光を引っ下げてLIFE誌の編集長に直談判する際にはもう酒でヘロヘロ。一念発起で訪れたはずの水俣でもウイスキーの小瓶が手放せない。「写真を撮る行為は、撮る者の魂をも奪う」というアイリーンへ放つ言葉は、その時点では重みも深みも感じられない。その、どうも役立ちそうにない、水俣病の患者や支援者、運動する人たちに寄り添い、直面する姿勢は見られない実相をデップは演じきった。信頼とは、相手の立場まで寄り添い、自己を居させる、上から、客観的ではありえないとの姿を示したのだ。

ユージンとアイリーンの写真集「MINAMATA」の象徴的作品となった、胎児性水俣病被害者の智子さんと母親の入浴シーンはピエタであった。その姿は、誰も侵すことのできない聖性を備えていた。しかし、そのように感じること自体、ユージンの写したかったものと、写された対象を蔑ろにする自己本位な感傷であるのかもしれない。ところが、初めてサン・ピエトロ大聖堂のピエタと対面した時、無神論者の自分が、そのあまりの神々しさや荘厳さに打たれて頬に涙が伝わったことが、智子さんの入浴シーンでも経験したことは本当だ。

映画では、チッソの工場前で大怪我を負ったユージンが、その包帯だらけの手でレリーズまで使用して、なんとか智子さんを写そうと苦心する様が描かれる。しかし、事実は大怪我したのは智子さんを撮った後のことであるそうだ。ここにドキュメンタリーではなく、作り物としてのフィクションに過ぎないと一蹴することは容易い。しかし、デップはドキュメンタリーを撮ろうとしたわけではないし、ユージンを演じ、描くことで「映画の持つ力をフルに活用して、伝えたいメッセージを発信することが我々の願望」であったのだ(2020年ベルリン国際映画祭公式記者会見から)。その「伝えたいメッセージ」とはなにか。それは環境活動家や反原発運動のリーダーでもない一俳優にすぎないデップが、その素人くささゆえに訴えた人為による悲劇を2度と起こしてはならない、ということだろう。

エンドロールに流れるテロップでは、世界中で繰り返されてきた公害や、薬害、原発事故などさまざまな環境汚染と人身破壊の歴史が続いていく。そこにはMINAMATAと並ぶアルファベットでの世界標準の表記となったFUKUSHIMAもある。そしてこれらは現在進行形であり、人為がなす神の怒りの発露なのかもしれない。映画の後援を熊本県はしたが、水俣市はしなかったそうだ。地元の人、患者らが抱える現在進行形の重みと苦しみが続いていると思える。

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共存でジェノサイドを防ぐ   「アイダよ、何処へ」

2021-09-24 | 映画

ニースで暴走したトラックにより多数の死傷者が出たテロ事件のあった2016年7月、筆者は翌月ボスニア・ヘルツェゴビナなど旅行する予定であった。しかし、ニースの事件で不安を覚えた同行者の意向もあり、キャンセル料金が高額になる直前のタイミングで旅行を取りやめた。ちょうど前月に乗り継ぎ予定であったトルコの空港でのテロ事件の影響もあったからだ。ボスニア・ヘルツェゴビナではスレブレニツァの虐殺跡地のガイドツアーも予約していた。あれから身辺事情の変化や新型コロナウィルス感染症拡大により、残念ながら行けていない。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督はこれまでも「サラエボの花」(2006)、「サラエボ、希望の街角」(2010)とボスニア紛争後の市民を描いてきたが、今回紛争の渦中を初めて描いた。8000人超の犠牲者を出したスレブレニツァの虐殺はどのようにして起こったのか、止められなかったのか。ドキュメンタリーではないので、フィクションと言ってしまえばそれまでであるが、映画の冒頭「本作は事実に基づく」「登場人物や会話には創作が含まれる」との断りが入る。「創作」と言っても、ジュバニッチ監督の綿密なリサーチによる迫真性で、観る者を圧倒する。それは残虐なシーンがほとんど描かれていないのに、その背後に存する恐怖が想像できるからでもある。

従来、クロアチア紛争に始まるユーゴスラヴィア内戦では、セルビア人=悪者、と単純に理解されることも多かったようだ。とくに、ボスニア紛争ではセルビア人勢力がボシニャク人(ボスニア人、ムスリム)を迫害、虐殺した構図は明らかであるからだ。そして、その理解は戦後もボスニア・ヘルツェゴビナの復興に対する西側の援助と、セルビアに対する冷淡さという構図に現れている。サラエボはある程度復興し、西側資本も入っているのに、セルビアの首都ベオグラードはそうではない現実となっている。そしてセルビアから分離独立したコソボをいち早く承認したのは日本を含む西側諸国であった。

実際の政治的構図はさておいたとしても、虐殺の実相は解明されなければならない。しかし、ジュバニッチ監督はセルビアの右派政治家が虐殺を否定している現実を、製作する上での大きな障害だったと明かしている。スレブレニツァの虐殺は全てのボシニャク人にとって大きなトラウマとしつつ、映画はセルビア人に対する責任追及や弾劾となっていない。そこで描かれるのは、アイダという一人の国連通訳が自分の家族を守るため奔走する様と、国連本部の怠慢と、少ない構成で現地の緊迫した状況に対処できない国連軍(オランダ軍)の右往左往する様だ。虐殺に関し、後にオランダ軍の責任が裁判で認定されるが、あのような小さな規模とセルビア人勢力のムラディッチ将軍の奸計に対応できたかは疑問だ。しかし、おそらく国連軍が積極的に動かなければセルビア人勢力による虐殺が起こり得ることは予想できたのではないか。

実はユーゴ紛争におけるセルビア人勢力によるボシニャク人やクロアチア人に対する迫害は、歴史的にはその逆の構図があったことも見逃せない(例えば、ナチスドイツと同盟を結んだクロアチア民族主義勢力ウスタシャによるセルビア人迫害)。ジュバニッチ監督の前作「サラエボ、希望の街角」や本作のラスト、夫と息子らを失ったアイダが教職に戻り、ボシニャク人、セルビア人などさまざまな民族の子どもが一緒に過ごす姿に、憎しみではなく融和に希望を持つ監督の想いが伝わる。

共存でしかジェノサイドは防止できないのである。

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どんどん先に進む台湾 それ故の悩みと希望と  「親愛なる君へ」

2021-09-10 | 映画

コロナ禍の台湾で名を馳せたのはオードリー・タン デジタル担当大臣。住民追跡システムを構築し、早期に封じ込めたと賞賛されている。もともとはIT企業の成功者で、その能力を買われて特任省大臣に任じられ、時の人となった。タン氏がもう一つ有名な理由は、トランス・ジェンダーであるということだ。LGBTQの当事者がそれを明らかにして、閣僚になるというのが日本よりかなり先に行っているよう見える。そもそも台湾では2019年に同性結婚が法律で認められている。そのような社会環境であるからこそ出てくる課題が、同棲パートナー亡き後の子どもとの関係だ。それは周囲の視線や意識とどう関係しているのか。

亡くなったゲイのパートナーの息子ヨウユーと糖尿病を患う母シウユーの面倒を見るピアノ講師のジエンイー。シウユーが亡くなった後、不動産がジエンイーとヨウユーとの養子縁組前にシウユーからヨウユー名義になっていることが分かる。亡きパートナーの弟は、借金まみれで不動産が欲しいばかりにジエンイーを疑い、警察もシウユー殺害とそのための違法薬物入手の疑いで彼を逮捕する。ヨウユーを守りたいジエンイーは、罪を認める。

法律で認められていても、人々の意識は簡単には変わらない。ヨウユーをジエンイーから引き離そうとする弟(ヨウユーの叔父にあたる)は、「甥に普通の生活をさせたい」と言い、ジエンイーのピアノ教室にはジエンイーを講師として忌避する訴えが殺到する。初めは息子の同性愛志向が受け入れられず、シウユーにきつくあたるシウユーも自分と孫に献身的に尽くしてくれるシウユーを受け入れ、彼と孫の養子縁組に賛成するのだが、一番大事な当事者の気持ちという点では、9歳のヨウユーから話を聞こうとしない大人たち。

ここで描かれているのは、姿勢の人々を縛る固定観念とその呪縛、そしてヨウユーの叔父のように目先の金銭的欲望に弱い人間や、ハナからジエンイーを疑ってかかる警察の姿などだ。しかし、そもそもパートナーがヨウユーとの父子家庭になったのには、清廉で優しさに溢れたジエンイーに理由があった。

同性結婚が認められる社会ではステップファミリーの類型にも多様性が生まれるだろう。それは異種を排除して成り立つ非民主主義的な社会から、よりマイノリティに目配りするインクルーシブな民主主義、成熟した社会へのステップでおこる必然的な問題だ。ある意味、問題を可視化し、それを解決し続けるのが民主主義社会の宿痾でもある。台湾は、既にその実験場となっていて、コロナ追跡システムで見られたように、一人ひとりの国民管理が貫徹しているからこそ成立した「国家からの自由」を放棄した現実もある。それは、いつ中国という超大国に飲み込まれるかもしれないという危惧を抱いている隣国・小国の証でもある。

興味深かったのは、ジエンイーを完全に犯人扱いする警察の取り調べでもきちんと録画されていたし、警察の取り調べに不足を感じた検察官が独自に動く様だ。台湾の刑事司法がどのようなものか知らないが、その点では明らかに日本は遅れている。

日本では菅義偉首相が突然、自民党総裁選に出馬しないとし、複数の候補者が立候補を表明している。安倍晋三前首相が支持し、その安倍の歴史修正主義、国家主義的な価値観を引き継ぐ高市早苗は、教育勅語を信奉し、夫婦別姓選択制に絶対反対という。この国はまた台湾から遅れていくのだろうか。

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「中立」「両論併記」で差別は追及できないと知るべき 『ヘイトスピーチと対抗報道』

2021-09-03 | 書籍

常々思っていたことだが、マスメディアの「あなたは中国に親近感を持っていますか?」という世論調査はヘイトではないか、ということだ。こういった調査の問題点は二つある。一つは、ここでいう「中国」が何を指しているのか不明確なこと。現在の習近平政権のことであるのか、中国共産党のことであるのか、歴史的連続性としての中国であるのか。あるいは、仮に習近平政権であるとしても、その領土や軍事などの覇権主義的姿勢なのか、香港やチベットなどに対する人権蹂躙の姿勢であるのか、さらには知的財産権や産業構造の独占などその国家独占欲資本主義的な政策であるのか。反対にIT産業やコロナ対策で成果を上げていることであるのか。そして、政権のことではなく、多数の民族からなる中国人民のことなのか、世界遺産を多く有する豊かな土地のことであるのか、タブーが少ないとされる多様な食文化のことであるのか。これら質問の言う「中国」が何を指すかめ明確にせず訊く姿勢は、結果発表の際、調査者の意図に合うように操作される危険性が高い。

次にこのような質問は、普通中国か韓国に対して訊く場合がほとんどで、たまにアメリカもあるが、フランスに親近感を持っているかとか、エジプトに、あるいはインドにとかの質問はありえない。

このように中国や韓国にだけ「親近感」について訊き、答えの選択肢には「ある」「ない」「どちらとも言えない」しかない。朝日新聞は、読売新聞のように、どちらとも言えないと答えた人に対して「どちらかというとありますか、ないですか」と更に質問(更問い)を重ねて無理くり答えさせているかのようにはしていないことを強調するが、質問自体に疑問がある。

長々と自説を開陳してしまったが、本書はまさにヘイトスピーチとはそのようなものか、それにどう対抗するか、報道の現場を超えて問うている。著者の立ち位置は明らかだ。報道は差別に対しては中立を装う、両論併記で逃げるべきではないと。両論併記について言えば、筆者もずっと疑問に思ってきた。例えば、選択的夫婦別姓法制化について、賛成派はアイデンティティの喪失や、働く上での旧姓使用の限界、生活の上での不便さなど実利的、実際的な不合理を訴えるのに対し、反対派は「家族の一体感が失われる」とか「夫婦はそもそもそういうもの」などといった論理的、合理的に説明できない論を展開してきた。しかし、メディアはこれを両論併記として報道するのである。両論とは、一方の論が他方に対する反対論になっているべきと思うが、そうはなっていない。論争などそもそも成り立たないのである。が、マスメディアは必ず両論併記として紹介する。

著者は、韓国での記者経験も踏まえてこの中立、両論併記の悪弊は、従軍慰安婦のことなど日本と韓国との関係での関係改善の壁となっている、むしろそこから解放されて報道すべきと、拓かれたのである。

考えて欲しい。「ゴキブリ、朝鮮人!」とのデモを前にして、「鶴橋(の朝鮮人)大殲滅です」と言われて、報道に中立などあるのか。言われた人間の側に尊厳を保てと平静さを求めるのか。

報道の現場にたち、世間に広く実態を知らせるジャーナリストの役割とは、「“中立”を掲げた無難な報道に逃げ込まず、ヘイトクライム・レイシズムに本気で抗う」(安田奈菜津起氏評)こととの明確な姿勢であり、それは差別を表現の自由の範疇に逃げ込ませない報道記者の指針となり得るだろう。(『ヘイトスピーチと対抗報道』角南圭祐 2021 集英社新書)

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社会が変わるということは、地べたが変わるということだ  ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』

2021-08-30 | 書籍

以前、このブログでジソウを紹介した(見捨ててはいられない。見ないふりはできない。「ジソウのお仕事」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/3511eee03c4e43beccd6466aef756e18

著者の青山さくらさんは現役の児相職員であるが、ブレイディみかこさんは、「底辺託児所」の保育士である。イギリスでの保育士資格が日本より厳しいのか、どれだけ異なっているのか分からない。しかし、これだけは言えるだろう。イギリスの「底辺託児所」(貧困層の暮らす地域にあり、利用者の多くがそうである。)の現実は、イギリスで独特の世界を形作る「階級」と、日本よりはるかに多く雑多な移民層を抱えているという意味でキツく、予見不能で、リアリズム故の希望があることを。

「底辺託児所」と呼んでいるのは、利用する層が底辺であるから。通う子の保護者はたいていシングルマザーで、アルコール、ドラッグなどの剣呑を抱え、子どもたちはその影響を直に受けている。母親が殴られる「面前DV」を日常的に経験している子は、暴力的で2、3歳といえども気が抜けない。年齢以上に表情の乏しい子、そのような年で大人を舐めきっている視線の子、「ファッキン」とまだ少ない語彙の合間に必ず挟まれる「下品な」口癖。不安定な母親に育てられた子どもらは安定を唯一この託児所で得る。が、それは簡単ではない。一つは、そういった親らが自立、自律することの困難。自業自得や自己責任と突き放すことは簡単だが、突き放しても子どもらは救われない。重層的、複雑さをまとう差別の構造。「成功した」移民層が、努力しない(と見なす)同じ移民や、英国白人層という恵まれた環境にありながら堕落した人たちとして、差別、時に排除する。うちの子をあんな人の子と遊ばせないで、と時に露骨に保育士たちに詰め寄る。しかし、ブレイディさん自身が東洋からの移民で、連れ合いはダンプの運転手という決してアッパークラスではない。所の責任者はイラン系である。それでも労働党政権の頃には、補助金もあり、それなりに運営がなされていた。ところが保守党政権になるや、補助金カット、移民のための英語塾併設でなんとか凌いでいたもののそこも危うくなり、やがて底辺託児所は閉鎖へ。フードバンクとなった。

本書の構成が面白くできているのは、最初に著者が底辺託児所の後経験した「緊縮託児所」(底辺託児所が、数年後復活したが、予算が限りなく減らされ、設備もろもろ悲惨なくらい「緊縮」を厳然と示しているから、そう命名)のお話がきて、その後に懐かしい!「底辺託児所」の項が続くというもの。そう、はちゃめちゃだけれどもなんとか回っていた底辺は、もう、はちゃめちゃの前に回らなくなった緊縮も姿が。そこから取りこぼされる貧困層が減ったわけでもないのに。

本書は、著者が「みすず」に連載してた寄稿エッセイをまとめたものだが、金言、名言にあふれている。「社会が変わるということは地べたが変わるということだ」、「アンダークラスの腐りきった日常の反復の中にも祈りはある」「わたしの英国は、ロックやグレアム・グリーンではない。路傍に落ちた温泉饅頭だ」…。そして「インクルージョンは、人間関係の計り知れないもやもやを濃厚に増大させる」から「政治は議論するものでも、思考するものでもない。それは生きることであり、暮らすことだ」。

ブレイディさんがこの書を上梓した後、素晴らしいバイタリティとエネルギー、そして時に非情に見えるリアリズムで好著を連発しているのはご存知の通りである。

(『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』2017年 みすず書房)

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「ユニオンって趣味でしょ」にうなづきつつ、考える   『コミュニティユニオン 沈黙する労働者とほくそ笑む企業』

2021-08-15 | 書籍

申し訳ないが、自分のことから話させていただく。組合(ユニオン)の役員を長らく勤めていた。その職場は、ユニオンショップ(被用者が自動的に労働組合員。雇用者指定の労働組合を脱退すると解雇されるのが、クローズドショップ。)ではなかったため、どんどん組織率が下がっていた。私が所属していた都道府県単位の支部を束ねるのが地方支部(地域連合会=地連)で、北海道とか中部とか近畿といった単位である。支部執行委員だった私は、ある時地連の専従書記長を引き受けてもらえないかとの打診がきた。専従とはいったん休職し(復職は保証、休職中の賃金は労働組合が支払う。)、数年後職場に復帰するという労働組合法上の身分(働き方)で、引き受ける人は少ない。キャリアの断絶や、復職後干されるのではないかといった不安を多くの人が持つ。私自身はキャリアアップにはあまり興味がなかった(そもそもその対象でもなかった)ので、引き受けてもいいと考えた。若い人が加入せず、どんどん組織率が下がっていく労働組合をなんとかしたいと思ったし、男性中心の執行部のあり方にも疑問を持っていたので、私が引き受ける条件に挙げたのは「地連執行委員を半分女性にすること」であった。現状も将来的にもそれは困難と判断したのか、地連は私を書記長に据えることを断念した。

自分のことを長々と書いてしまったのは、著者の梶原公子さんが紹介する若者がユニオンに魅力を感じない実態が痛いほど分かるからだ。企業内ユニオンと、梶原さんの活動するコミュニティユニオンとの違いはあるが、就職する若い世代のユニオンに対する見方は、カタイ、怖そう、自分の利益にすぐにはつながらない、だろう。そして、ここが現状の労働破壊の決定的な要因であるのが、そういった若者自身が「自己責任」の発想を内面化していて、それに縛られていること自体に無自覚であるということだ。「若者」と書いたが、ゼロ世代のみならずその観念はロスジェネにまで及ぶ。だから、非正規雇用が当たり前の世代は、今や、被用者ではなく請負、自営業者として、労働者としてなんのセイフティネットもない働き方で、デリバリー業などのギグ・エコノミーに3、40代まで多く見られるのが実態だ。

団塊の世代より少し下で、高校教員として勤めてきた著者が、何度も実感し、強調するのが、上の世代「戦う労組員」の現役世代に通じない理屈、現状認識と、若い世代の将来への希望のなさとギャップである。それは資本主義の論理といってしまえばそれまでで、もちろん、労働者の国が夢想である限り、何らかの妥協や取り引き、着地点は必要である。しかし、冒頭で紹介される高橋まつりさんの事件(電通で過労自殺)に、全ての人が追い込まれる訳にはいかない。だから、一人でも助けたいと、梶原さんもコミュニティユニオンの相談者となったのだろう。けれど、ここでもその多様な実態と過酷な現実に直面する。そもそも就業規則がない職場が多く存在するということだ。大手広告会社である電通には就業規則は一応あった。しかしその通りの職場ではなかった。ましてや就業規則のない職場では、全てが自己責任になる度合いが高まる。

本書に描かれ、一貫して流れていると感じたのはもどかしさだ。ユニオンの年配相談者は、最終的は訴訟と、金銭解決や謝罪をすすめる。しかし、相談にきた人の中には、とにかく穏便に辞めたいと訴えたりする。最初から相談して解決というより、カウンセリングを求めているかのように見える人もいる。しかし、このもどかしさが現状の本質なのだろう。そしてこのもどかしさこそ著者が伝えたかったことではあるまいか。そこでフィーチャーされるのは、労働環境悪化の中で続々と出版される(ブラック)雇用の実態や、闘い方を指南する書籍にはあまり描かれていない等身大の被用者の悩みと、それと付き合うユニオンの将来像なのかもしれない。

ずいぶん昔、高校教員だった友人の話。「生徒に20歳の自分を描いてみたら、と訊いたら、「そんな先のことは分からない」という反応だったのに驚いた。」高校生ならあと2、3年で20歳になる。目先に囚われるなと年配者は言いがちであるが、それほどまでに若い世代の実感している人生のサイクルは短く、ある意味儚い。しかし、嘆いていても仕方ない。著者が最後に強調するのはユニオンを使っての一人ひとりの繋がりの大切さだ。新型コロナウイルス禍で、巣ごもり、リモートワークでますます人と人との繋がりが弱まっている、としたり顔の傍観者視線ではいけない。

「ユニオンって趣味でしょ」。著者が相対した若者の言葉だ。痛い指摘だが、趣味だから一所懸命になっていいのだ。(『コミュニティユニオン 沈黙する労働者とほくそ笑む企業』あっぷる出版社 2021年)

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「自助、共助、公助」との共生、自分自身の特性との共生   私はダフネ

2021-08-12 | 映画

イタリアはトリエステでの実践から、法律で精神科の閉鎖病棟を無くした先進的な国として知られる。そこには障害の有無やその軽重に関わりなく、誰でも通常教育を受けられるようにしたインクルージョンの発想が完徹しているからだと説明される。幼稚園から大学までの全ての学校教育段階でそれは実践されているそうだ。しかし、だからイタリアのインクルーシブな環境のおかげでダフネは伸び伸びと育っている、と考えるのは早計であると作品解説で堤英俊都留文科大学准教授(学校教育学・教育社会学)は述べる。教育や社会環境に完成形はない。日々葛藤、逡巡、失敗と改善などの繰り返し、制度の見直しと継続、悩み続けているというのが現実のところだろう。

ダウン症のダフネは、スーパーマーケットで充実して働き、仲間に恵まれ、両親もそんなダフネを受け止めている、ように見える。しかし母親マリアの突然の死。それを受け入れられず、落ち込み、日々の仕事、生活にも支障をきたしたのはダフネではなく、父(夫)のルイジであった。ダウン症の人の中には、そうでない人より几帳面すぎるこだわりを見せる人もいるという。ダフネも同じところにしまわないと気が済まないとか、横断歩道でもない道を必ず手を上げて渡るとかの所作を見せる。今までいつも側に必ずいて、自分を受け止めてくれる存在が突然いなくなった衝動は、ダフネにはとても大きいように思える。しかし、落ち込んだ父親を立ち直らせようとするのはダフネの方であったのだ。

監督のフェデリコ・ボンディは俳優でもないカロリーナ・ラスパンティに出会い、この人こそダフネだと感じたという。ダウン症のラスパンティは実際、地元のスーパーで働き、小説も2冊出しているそうだ。その言語能力の高さから人気のYouTuberでもある。ボンディは実際にラスパンティに会い、用意していた脚本ではなく、彼女に自由に演じてもらうことにしたという。それは、彼女が地域社会で共生するとともに、自分自身のダウン症という症状、状況とも共生していることが分かったからという。

遠く離れたマリアのお墓まで歩いて行こうとルイジを誘うダフネ。後半は娘と父、その折々に出会うイタリアの人たちとの会話がはさまれるロード・ムービーになっている。出会う人たちの眼差しは、それは決して「腫れ物」に触るような対応ではない。イタリア全土でいろいろな障害を持った人たちが、普通に暮らし、周囲にいるのが当たり前というこの国の国民の「普通」を垣間見た気がする。

しかし普通と普通でない、ことの境界は曖昧で、グラデーションだ。人と人の間に、あるいは人の心の中に超えるべき壁を作る方が容易く、考え続ける、悩み続けることを避けたいのもまた人間の性だろう。だから民主主義や自由といった簡単には答えの出ない難問に、終止符を打つべく分断を煽るトランプのような人物への人気が衰えない。

菅義偉首相の「自助、共助、公助」発言は、すこぶる不評だ。この発言は、菅首相がこの順番に頼りなさいと言ったように捉えられたからであると思う。反対に、ホームレスや不安定雇用から放り出されて、今日の食べ物にも困っている人たちを支援する側は、「まず公助だろう」と指摘する。最後に、バックに、公助があるからどこまで自助で頑張れるか、と自己を叱咤激励する生き方、というのはその通りだろう。同時に、ダフネを見ていると自助も共助も、公助ともうまく付き合って日々を謳歌しているように思える。ダフネに連れ出されて、マリアの墓に辿り着いたルイジの顔に生気が戻ってきた。

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アメリカはどう映っているか、見えているか  「17歳の瞳に映る世界」

2021-08-03 | 映画

朝日新聞の夕刊にたまに載る藤原帰一の「時事小言」は、国際政治の今を分かりやすくまとめてくれてはいるが、例えばトランプ大統領に対する批判など明確でないと思え、その政治姿勢そのものには興味が持てなかった。けれど、藤原は国際政治学者というより映画マニアの側面には興味があり、藤原がテレビで紹介する作品は見てみようと思うものも少なくない。「17歳の瞳に映る世界」は、藤原に推されたから足を運んだ。

物語は至ってシンプルだ。17歳のオータムは学校とバイトの日々。学園の催しでステージで歌う彼女に「メス犬!」との差別的野次が飛ぶ。幼い妹らの父親である義父とは関係がよくない。そんなオータムの妊娠がわかる。ペンシルベニア州では親の同意なしに中絶はできない。州のウイメンズ・クリニックでは明らかに中絶反対で、「中絶は殺人」とのビデオを見せ、養子縁組のパンフレットを渡される。これにはアメリカが抱える現実的な背景がある。オバマ大統領に8年間にわたり政権を奪われた共和党は、中絶の合法化をひっくり返そうと州レベルでクリニックを減らしたり、中絶できる期間をどんどん短くする州法を成立させていく。そして決定的であったのが、トランプが大統領選で「当選したら中絶を非合法化する。場合によっては女性や執刀医を罰する。」とまで公約にあげ、福音派キリスト教徒の票を固めたからだ。当然、トランプ大統領誕生後も抗議デモやウイメンズ・マーチが起こったが、共和党は着々と上述の政策を進めた。そしてトランプが去った後も最高裁の構成が、保守派6対リベラル3となった現在、連邦最高裁が中絶の非合法を判断する危険性が高まっているのだ。オータムが住まうペンシルベニアは2020年の大統領選で激戦を繰り広げ、僅差で民主党が制したが、いまだにトランプが選挙不正を唱え、それを支持する層も厚い。それが暴徒による2021年1月の議会乱入、死者まで出した事件に至ったのはつい最近のことだ。しかしそういった政治的背景が、口数の少ないオータムの辛さを説明するものではない。

地元で解決できないと知ったオータムはいとこで、ただ一人の友だちスカイラーとニューヨークを目指す。しかし、一つ目のクリニックではその妊娠周期では対応できないと別のクリニックを紹介される。ホテル代など用意していない二人は地下鉄やゲームセンターで過ごすが、2カ所目のクリニックは手術は2日がかりだという。申込金を支払ったら、もう二入にお金はない。行きのバスで声をかけてきたジャスパーに連絡を入れて、ご飯を奢ってもらい、時を過ごすが、本当は現金が欲しい。お金を貸してあげるよというジャスパーはスカイラーを夜の街に連れ出すが。

手術前にオータムに質問するカウンセラーの描き方が丁寧だ。手術の内容に始まり、オータムの経験、プライベートなことも訊く。それは決して威圧的、教訓的でもないし、「あなたを危険から守りたいから」。「暴力的な性行為はあった? 4択で答えて。Never Rarely Sometimes Always?」本作の原題だ。

オータムを孤独と危険に晒したのは、直接的にはオータムの交際相手だが、それはそもそも「交際」だったのか、彼女を支える医療的、精神的ケアが地元にあったのか、では大都会のニューヨークでそれは充足されたか。ぶっきらぼうなオータムに、寄り添ってきたスカイラーが救いだ。アメリカの現在(今)を伝えるいい作品であると思う。

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「リリイ・シュシュのすべて」へのオマージュが美しい  「少年の君」

2021-07-23 | 映画

壮絶なイジメ、暴力にあったチェン・ニェンが坊主にして登校するシーンといい、どこか岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」(2001)に対するオマージュがあるのではと感じていたが、やはりそうであった。随分昔だが、「リリイ」について教員をしている友人と話していたら「現実そのまますぎてキツイ」と吐露していた。「リリイ」で描かれるのは、イジメとそれを見て見ぬ振りをする大多数の生徒、援助交際、万引き。パシリさせられる少年は、思いを寄せいていた少女がレイプされたこともあり、イジメの首謀者(彼もまた厳しい家庭環境、状況にがんじがらめになっていた)を刺す。救いがなさすぎる「学園もの」であった。

「少年の君」は救いがあるのだろうか。北京大学などを目指す超難関、進学校に通うチェン・ニェンは娘のために怪しい商売もする母親と二人暮らし。イジメにあっていた同級生が校舎から飛び降り自殺した現場に遭遇、スマホで撮りまくる生徒の中を倒れた同級生にそっと上着をかけたことでチェンがイジメの標的に。首謀者は裕福な家庭で、チェンとは正反対のウェイ。チェンが知り合った暴力だけが生存の証であるチンピラのシャオベイは、チェンを守ると宣言するが。

学園ものであり、青春ものであり、ラブストーリーである。そして、刑事ドラマであり、ヒューマンドラマでもある。驚いたのはストーリーの重層性だ。ウェイ殺害の疑いをかけられたチェンがそれを否定して、シャオベイとともに曖昧なカタチでエンドかと思ったら、そこからが長かった。作品の最後に流れるシャオベイ役の俳優が、本編の後、中国でイジメ対策に確かに取り組んでいると述べる下りに強権国家になびく姿勢を感じ、興ざめしたが、監督・製作者はそれも織り込み済みだろう。中国映画は結構上映されていた改革開放が初期段階の時代、文化大革命の時代を描いた作品も多かった。もちろん「青い凧」のように未だ中国では上映が許されない作品もあるが、現実の中国共産党の姿勢に対して、それぞれどこまで描いても大丈夫かとの挑戦や果敢な試みがあったように思う。しかし、自由と民主主義の地・香港が、今や共産党の「直轄地」と変転ささせられている現在、中国映画で描けるものは限定されるのでないかと思える。だから描き方には細心の注意を払ったに違いない。中国政府がイジメ対策に取り組んでいるという付け足しは、観る側が「ああ、やはりそうか」と感じとるためのプロットであったと考えるのは穿ち過ぎだろうか、そうは思えない。

結局、本作では科挙の歴史を有する現代中国の受験戦争、学歴一本槍の競争社会を告発するものとはなっていないし、イジメに対する子どもの反抗・反撃の仕方として有効な処方箋を示しているのでもないし、罪を犯した、犯さざるを得なかった年少者の更生や生き直しのストーリーにもなっていない。描かれているのは、チェンと、シャオベイのその後、そしてイジメの加害者、それを覆い隠し、チェンに表面的な赦しを請うことで命をおとしてしまうウェイが死体で見つかったという事実だけである。だから「リリイ」と同じくらい現実的なのだ。

自死に至った場合はイジメの存在や実態が明らかになることもあるのかもしれないが、そうでなければ、いじめられていた子が転校するなどで表面化しない例の方がはるかに多いだろう。しかし、イジメが完全になくなる学校が、競争社会を温存した中でありえるとは思えない。チェンはその助けを自分とは別世界、正反対の世界に棲むチンピラのシャオベイに求めた。そして助け求める存在が出現したという意味ではチェンは束の間の安らぎ、安寧を経験できた。その果てが悲劇的であったとしても。

強権主義国家の象徴とも思える現代中国でも、個々の子どもの内面まで管理できなかったし、教師が表面的な建前で子どもらに訴えていて、子どもらも表面的に応えていた。そのアイロニーを一番描きたかったのではないかと、本作を観つつ考えていた。

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