kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

フランスの至宝 エミール・ガレ展

2005-04-17 | 美術
アール・ヌーボーの装飾展はしょっちゅう開催されているので目新しくはないと思ったが、そうでもなかった。と言うのは作品数、展示の仕方、説明書きとすべて充実していたからだ。やはりデパートの催事場とは桁が違う。ただ日本各地の美術館 ー 特に長野の北澤美術館と神奈川のポーラ美術館などからの出展が多いが ー から集めたてきた展示品からもわかるようにガレの作品は日本国内に数多くある。しかし国内から集めてきただけでこのような充実したものが開けるわけではない(もちろん、海外からの作品も多い)。そこには独立行政法人化し、集客に頭悩ませてきた国立国際美術館の学芸員らの工夫が結実しているのだ。
時代ごとの区分ももちろんわかりやすいが、ガレの技法を途中の展示で解説してみせ、そこから技法ごとの作品とという配列もいい。そして、世界史の教科書にも出て来るドレフェス事件をはじめとするガレがその政治的姿勢を作品に託したとする解説も的を得ている。あるいは、折しもパリ万博前後のジャポニズム人気の中でガレがその東洋趣味をどう作品に反映させていったのかも。美術解説は複雑な思想的背景、政治的関係、歴史的意味を含有していたとしても、圧倒的に素人が多い町の美術館ではわかりやすさが、次代の美術好きをつくるリターン効果につながると思う。本展はそのような意味でも成功したのではないか。
ただ、きらびやかな工芸品は貴族趣味の典型的な残滓ゆえ、20世紀にはより機能的なデザインに取って代わられる運命であって、モンドリアンやリートフェルトなどレ・ステイルにより親しみを覚えてきた自分としてはその美しさを表現できる力がないのがもどかしい。
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生と死の狭間で~キス・オブ・ライフ

2005-04-17 | 映画
いろいろなことを考えさせられた。一つはこの作品の主要テーマである人の死はすなわち生の完全な断絶ではなく、生から死への間には、その人のやり残したことに対する重層的な想いが巡るということ。死んだはずの人間の魂が完全に天に召されず、下界に降りて来るというお話は沢山ある。「天国から来たチャンピオン」「ゴースト/ニューヨークの幻」など。「キス・オブ・ライフ」はこれらロマンチック・ファンタジーではなく死者の視線での家族への慈しみである。
夫は、ボスニア紛争の難民救援に国連スタッフとしてクロアチアにいる。妻の誕生日にも帰られないと電話で話す夫に対し、妻は夫がいない間、子どもや父親の世話などで疲れているのだ。子どもたちもまた母親のぴりぴりとした感覚を嗅ぎとっている。同じ時間を過ごし、仲睦まじかった頃の夫婦の写真を見つけた妻は車にはねられ逝ってしまう。が、すぐには逝かなかった。生きている者の視線で子どもたちを見守り、夫との日々を取り返すのだ。一方、夫は「帰れない」と言ったものの、帰国することを決断するが、紛争地域。財布を奪われ、国境までも容易にたどり着けない。が、夫もまたその間、妻との日々、家族が森で鬼ごっこをした日を愛しく憶うのだ。
いろんなことを考えたもう一つ。難民救援という人道的に立派なことをしているが、どこか家族のもとに帰りたくない、現実から逃れようと、あるいは面倒なことから逃れようとする人間のエゴと弱さ。人間はきれいごとをしているからといってもきれいごとで済まされない現実を生きている。会いたいのだけれども会いたくない、会いたくないけど会いたい。都合のいいときだけ欲することができる関係とはもはや夫婦や家族とは呼ばないのだろう。
最後に本作のヒロインがカトリン・カートリッジに決まっていたいたのにクランク・イン2ヶ月前に若干40歳で亡くなったということに感慨を覚える。そう、彼女の遺作となった「ノー・マンズ・ランド」はボスニア紛争を描いたすぐれた作品であったからだ。カートリッジに匹敵する内面的強さを醸し出す美しいのだけれどもどこか疲れたヒロインに抜擢されたのがインゲボルカ・ダプコウナイテ。あの「恋愛小説」の狂気のヒロインである。見事なキャスティングだ。
人工呼吸を意味するキ・オブ・ライフ。息を吹き返すまでの、あるいは吹き返さないまでの間、人は生と死の狭間で遺される人たちの前をきっと去来しているのだろう。
それにしても、ピーター・ミュランの出演する作品はどれもなぜこうキツイのだろうか。
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