kenroのミニコミ

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フジタワールドで薄められたもの 藤田嗣治 展

2006-07-14 | 美術
今年は藤田嗣治の生誕120年ということで大々的な回顧展が催され、テレビや書籍/雑誌などでもよく取り上げられている。日本を離れ、フランス人として没したフジタはエコール・ド・パリの代表的な画家としてその世界的評価は高いと言う。確かに日本人でパリに渡った画家は多いが、これほど成功し、国外で名声をはした画家はフジタをおいて他にいないだろう。フジタの技量の高さは作品群を見ればよく理解できる。
今回、フジタが取り上げられたのには二つの意味があるように思える。一つは、フジタの画業がその戦争協力故に正当に評価されなかったことに対する純粋美術的観点からの再評価という点。いま一つは、イラクに自衛隊が出兵、憲法9条の「改正」が企図される今日の政治的状況の中での日中戦争や太平洋戦争を描いた画家(画業)の称揚という点。2点目については異論もあるだろう。けれど、なにかと15年戦争を「聖戦」と言いたい人たちにとっては、芸術的成功をおさめ、すでにばりばりの西洋かぶれ(フランスはもちろんドイツに占領された(連合国)側である)であったフジタも日本人として国に尽くすと言うことを画家として示した点を取り上げたいのではなかろうか。
1940年に帰国し、従軍画家として働き始めたフジタはすでに世界的に有名、その力を十分に認められたから従軍画家を要請されたのだった。無名画家が国威発揚、軍の戦果鼓吹に利用されるわけがない。そして乳白色の女性像の達人としてその並外れたデッサン力は戦争絵画に遺憾なく発揮されたのである。
「アッツ島玉砕」(1943年)は、フジタの戦争絵画の中でも特に有名で、「フジタの絵は、戦争絵画以外はすべてクズだ。」(州之内徹の発言 『戦争と美術』司修 著 岩波新書)と言わしめるほど迫力に満ちていて、印象主義が欧州画壇を席巻後、20世紀を境にキュビズムやシュルレアリズムが全盛の世の中でドラクロアやジェリコを彷彿とさせるほど迫力のあるロマン主義的戦争画をものにしたのはフジタ以外にはない、という事実があるのかもしれない。が、「アッツ島玉砕」を代表作としてフジタの戦争中の画業と言えば「大東亜戦争画」の数々である。
「大東亜戦争画」というのは、当時「聖戦美術」として従軍画家らに数多く描かれ、戦後国立西洋美術館などに封印された作品群である。今回、「アッツ島玉砕」もその代表作として封印が解かれたわけであるが、ナチスドイツに積極的に協力した画家たちの作品が、善し悪しは別にして今だ封印されていることの違いはとても興味深い、
「アッツ島玉砕」は一作品として見るならば確かに迫力のある描写である。この作品について戦場の臨場感を伝え、むしろフジタの反戦的意図さえ垣間見えると言う向きもあるようであるが、そうは思えない。というのは2度の大戦を経験し、その「反軍的描写」によってナチスに迫害された画家、オットー・ディックスの作品と比べてみるとフジタの絵はあまりにも美しいからだ。
第1次大戦後、戦場の模様を描きただしたディックスは、毒ガスや塹壕など近代戦争の完成形である第1次大戦の悲惨な現場を、醜悪なものとして描き切った。それもそのはず、ディックスは第2次大戦にも従軍しているが「従軍画家」などという恵まれた境遇ではない一兵士として従軍したからだ。
フジタには戦争の美しい(と戦意鼓舞される)場面しか見えていない。いや、そのような画面しか描くことを許されなかったのでもあろう。が、しかし、すぐれた技量を持つが故に、乳白色の美人像や渡世の素人の逞しい様を描くように、戦争の実態を上から見下ろし描いたのがフジタの戦争協力ではなかったか。
フジタの再評価は大事である。戦後、猪熊弦一郎らとともに「美術家の戦争責任」の矢面に立たされたフジタは、そのような日本画壇に嫌気がさし49年フランスへ出国、55年フランス国籍を取得し二度と日本の地を踏まなかった。そのようなフジタの行動の、戦争責任追及からの脱出とも見える行動の再点検=画業の俯瞰的評価と、フジタの能力の再評価(乳白色の裸婦像はやはり「美しく」、フジタの好んだ猫の姿はとても愛くるしく、そして怖い)とは別物であるはずである。
今回の「藤田嗣治展」で抜け落ちている視点とは、言わば「悔恨の曇りのなさ」なのである。

「(藤田は)戦争ゴッコに夢中になり、画面(『アッツ島玉砕』の図)の横に立って大真面目な芝居を娯しんでいるのではなかったか」(野見山暁治)。
コメント (3)
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