kenroのミニコミ

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捜査の可視化が必要   それでもボクはやってない

2007-02-04 | 映画
 留置場に入ったこともなければ拘置所に入ったこともないので、正確なところはわからないが、周防正行の描くリアリズムに正直恐れ入った。そして法廷の雰囲気、裁判官の表情。ああ、こんなのだろうな裁判というのは。
 警察は一度容疑者を捕らえると、その人が真犯人と裁判で決しようがいまいが他の容疑者を捜そうとはしない。たとえその容疑者が完全否認していたとしても。現在実際の裁判で冤罪の疑いの濃い事件が続出しているが(たとえば恵庭事件(最高裁で女性被告人の刑が確定)、東住吉事件(上告中)など)、最近でも北陸の強姦事件で真犯人が判明し、服役しすでに出所していた冤罪被害者に警察が謝罪したばかりである。
 そして確定判決が出るまでは「推定無罪」の原則は無きに等しいのが刑事裁判の現況である。検察官は警察の誤認逮捕だと疑わないし、検察官が起訴すれば裁判官も有罪を疑わないように見える。被告人を有罪とするためには「検察官が合理的な疑いをはさむ余地が全くないまで立証に成功した場合」だけなのだが、実際には弁護人側が無罪の立証を完全に成し遂げなければ有罪というのが周防監督のプロダクションノートにある。なるほど私たち一般的に犯罪の加害も被害も関係のない身なら、逮捕いや事情聴取イコール有罪というメディアの報道に慣らされ、警察が犯人でもない人を捕まえるわけがない、裁判所が無実の人を刑務所に送ったり、死刑にしたりするはずがないと思いがちである。しかし、財田川事件、免田事件をはじめ死刑囚の再審無罪はあるし、周防監督が本作をつくる動機となった痴漢冤罪の事件は実際にある。そして、仮にその人の犯行であっても、捜査などに違法があれば(自白の強要など)、無罪というのが刑事裁判の原則であるのだが。
 そう、「十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ」なのである。
 ところで、裁判官が検察官の起訴してきた事件を無罪にできないのは、検察官も所詮司法試験を通ってきた仲間であるから疑わないからであると説明されることがある。そういった面もあるかもしれないが、やはり映画で役所広司演じる元裁判官の弁護士荒川正義が語るように、(司法行政)官僚機構の中で無罪を出すと飛ばされる危険があるからだろう。これは日本裁判官ネットワークの裁判官らが指摘するところでもあるし、刑事裁判に限らず民事事件でも行政の非を認める判決(公害や行政の立法不作為、国家賠償など)を書いた裁判官はその後日の目を見ることがないと言われる所以である。ただ、そこは考えようで、仙台地裁時代、盗聴法を問う市民集会で「所長にパネリストとして参加するな旨言われたのでパネリストは辞退するが、盗聴法には反対」との要旨を会場から発言しただけで「裁判官の積極的な政治運動」に問われ、戒告処分を受けた寺西和史判事補(当時)も著書で述べているように裁判官は必要以上、実際以上に萎縮している面があると思う。
 メディアへの投書などを積極的にする寺西さんは無事再任されたし(現在は判事)、保釈や勾留場所の指定について憲法、刑事訴訟法にのっとって被疑者、被告人の権利を認める決定をしてきた寺西さんが異質なのではなく、被疑者、被告人の権利を法律以上に厳しく制限しようとする多くの裁判官こそ異様なのであろう。そして、聞くところによると大阪地方裁判所ではある判事の保釈に関する論文が法律雑誌に載った後、裁判官が保釈を認める傾向が強くなったらしく、これこそ「裁判官の独立」に関してクエスチョンマークをつけざるを得ない。
 とまれ、裁判員制度が2年後に始まり、一般市民が刑事裁判に参加し、有罪無罪どころか、被告人の量刑まで決めるという重大な責を負うことになるが、裁判員が真実を発見するためにも、映画で描かれたような捜査段階での恣意的な調書作成、被害者誘導などを許さないよう「捜査の可視化」が望まれるところである。
 最後に真面目な法廷映画であるが、十分にエンターテイメントであることを紹介しておく。
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