kenroのミニコミ

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戦争の実相と想像力   チェチェンへ アレクサンドラの旅

2009-03-08 | 映画
14年前、阪神淡路大震災のとき地震後すぐに神戸市須磨区や長田区の街を歩き回った。JR鷹取駅から新長田駅、山陽電鉄板宿駅から西代駅界隈はいたるところ焼け野原で、爆撃を受けた戦場とはこういうものなんだろうと感じたことを覚えている。まだ街の復興にはほど遠いその日は何の槌音も聞こえず、冬空にしんと静まり返り、焼け落ちたがれきが弱く揺れている音だけが聞こえるような、そんな荒涼とした風景だった。
「チェチェンへ アレクサンドラの旅」は戦争映画でありながら、戦闘シーンも、傷つき斃れていく人の姿も一切ない。装甲車や兵士が銃を手入れするシーン、アレクサンドラが世話になるチェチェン人女性の住まうアパートが砲弾のあとを残すシーンにここが戦場であり、今なお戦争状態にあることがかいま見えるだけである。普通戦争映画というとハリウッドナイズされた私たちにとって、爆弾が炸裂し、人が吹き飛ばされ、撃たれた兵士がスローモーションで倒れるというよく考えればうそ臭いシーンにあふれているものだ。しかし本当の戦争とは、今現在戦時下にある人にとって戦争とは、爆撃シーンばかりではない。もちろん、クラスター爆弾など非戦闘市民を無差別に殺戮する兵器告発の場として、爆撃シーンは必要な時もあろう。しかし、戦時下の市民にとって日々の営みこそが戦争と不可分であることこそ、戦争の無残さ、無益さの証であることを本作は伝えている。
アレクサンドラはチェチェンに駐留する将校の孫デニスに会いに来る。禁止されていることも多いが、ロシアでは家族が駐留している息子などに会いに行くことは珍しいことではないらしい。そうやってロシアの戦争を正当化、正義付けすることもあるであろうし、前線の兵士の志気を維持する目論見もあるのであろう。7年ぶりに会う孫はおばあちゃんに甘えまくる。しかし祖母の「人を殺してきたの」という問いには答えない。この映画でもっとも美しいとされるシーン、孫が祖母の髪を編むしぐさにいとおしさが伝わってくるが、その手は先ほど銃を手入れし、チェチェン人を殺してきたかもしれない手であることにうすら寒さを覚える。
駐屯地から市場に出て気分の悪くなったアレクサンドラは地元のチェチェン人マリカに助けられ、お茶も振る舞われる。市場は駐留するロシア人兵士がいなければなりたたないのも事実で、チェチェンの若者はロシア人に反感を露にしているが、マリカに言われてアレクサンドラを駐屯地まで送り届ける若者は将来の希望、展望も見いだせない表情でありながらロシア人(兵士を孫に持つ)アレクサンドラにとてもやさしい。そう、戦争とは民間人同士だけではおこらないし、拡大しない。それを利用したり、煽ったりする者がいてはじめて「戦争」足りえるのだ。
特に劇的なシーンも感動的なシーンもない中で、アレクサンドラが帰途の列車に乗り込むとき、ほんのわずかな時間をふれあったアレクサンドラと市場、アパートの住人たちが抱きあうシーンにはほろりとしてしまった。この人たちは殺し合いたくないのだというのがあっさり分かる反戦のシーンでもある。
チェチェン紛争を手短に語ることは難しい。しかし、黒海とカスピ海の間にあり、石油パイプラインの敷設された要衝地で、イスラム系のチェチェン人(カフカス)の独立を絶対許さないプーチン政権が、圧力をかけ続けている構図というのは間違いない。たとえそれが北オセチアはベスランの学校襲撃事件に代表されるようにイスラム「過激派」の存在を非難した上であったとしても。
戦争の実相は一人アレクサンドラのつぶやきで十分表現されている。こんなことをして何になるのかと。
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