「歌は世界を変える」であるとか「音楽は世界を変える」といった言い回しは、政治や経済、軍事力といった実際に世界を変えるであろう要因に比して情緒的すぎてあまり好きではない。しかし音楽は少なくとも個人を変える力は持っているのだろう。
「オーケストラ!」は荒唐無稽、あり得ないお話である。パリは有名劇場シャトレ座から、2週間先の公演依頼を支配人室で偶然見つけた清掃人フィリポフは仲間を集めてボリショイ管弦楽団になりすまし、パリで公演しようというのだから。フィリポフは実は30年前のソ連時代、天才指揮者と讃えられた名指揮者だったが、ある事件で楽団を追放され、以後清掃人の身に。そして、彼がシャトレ座公演の演目に選んだのがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、そしてソリストに選んだのが若手のスターヴァイオリニストであるアンヌ=マリー・ジャケ。フィリポフがチャイコフスキーを選んだのも、マリーを指名したのも訳がある。それは30年前の出来事と密接に関係があるのだ。
この作品は映画解説(佐藤忠男)によると喜劇であり、悲劇であり、社会派であり、大メロドラマであるという。喜劇の部分は言うまでもない。30年も音楽活動から離れていたフィリポフや仲間たちが今更そんな大舞台で演奏できるのか、楽器もそろわない中でのドタバタ、リハーサルそっちのけでパリでキャビアの行商に励む団員たちなど喜劇の要素はたっぷり。悲劇とは、音楽をこよなく愛したフィリポフらが30年前楽団を追われたことや、マリーが両親を知らず育ったことなど。そして社会派。
旧ソ連時代ユダヤ人排斥が長く続いていた。ペレストロイカ以前、ブレジネフはユダヤ人を信用せず様々な職域から排斥、弾圧したという。スターリン時代の有無を言わさない「粛正」ほどではなかったとの評価もあるが、別に罪を犯したわけではないユダヤ人をシベリアに抑留するのは非人道的圧政以外の何ものでもない。本作はこのブレジネフ時代の政策を批判しつつ、ロシアになってからも旧共産党時代を懐かしむアナクロニズムにも批判の眼を向けている。フィリポフに手を貸すソ連時代のボリショイ劇場支配人ガヴリーロフ(彼こそが直接フィリポフらもを追い出した張本人)は、フィリポフの情熱に負けたわけでも音楽を市民の手に取りもどそうとしたわけでもない。落ち目のフランス共産党のかつての同志とともに、シャトレ座で共産党復権を謳い上げるためだった。また、資金不足に悩むフィリポフらを援助するのは天然ガスの利権をバックに経済界を牛耳るロシアン・マフィア。金がすべての現在のロシアの姿をも描いている。
大メロドラマとは、マリーが実はフィリポフが放団される原因となった、彼が守ろうとして追放、シベリアに抑留され、酷寒の地で命を落とした団員夫婦の一粒種であったということ。フィリポフはその若くして死んだソリスト レアに究極のチャイコフスキー演奏を求めていた。それが、クライマックスの偽ボリショイ楽団とマリーの演奏の中で明らかになっていくところ。チャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲ニ長調(作品35)が12分間にわたって演奏される中、フィリポフの脳裏に、マリーの、なぜ彼が自分を選らんだのか分かった様に、最初バラバラであった演奏が見事なハーモニーを奏でるまでに盛り上がっていく様子は圧巻だ。
ロマ(ジプシー)の描かれ方など少しティピカルすぎるし、いくらアンダーな世界が支配するロシアとはいえ、空港で偽のパスポートとビザを用意するなど「そんなわけは…」と突っ込みたくなる部分も多々あるが、そこはご愛敬。本作は実はフランス映画であって、ルーマニア生まれのラデュ・ミヘレイアニュ監督によって撮られたが、フィリポフを始め主要キャストはロシアの名優たちだが、赤の広場のシーン以外はすべてルーマニアとフランスでの撮影という。それらを不自然に感じさせないところがスタッフの手腕といったところであるが、バイリンガルであるとか、ヴァイオリン演奏であるとかキャストは大変だったであろう。けれど、国を超えて、言葉を超えて、時空を超えて分かち合えるのは音楽の持つ大きな力の一つ。
ブレジネフの罪はもちろん、フィリポフの後悔、マリーの蟠りは消えることはない。しかし、同時に音楽というそれ自体には罪のないものを通して(その使われ方や、その制作過程で迫害や差別はもちろんある)、過去の事実の直視と真実への探求心が止むことはない。喜劇と悲劇と社会派とメロドラマ。エンタテイメントの要素が詰まった快作に出会えた。さあ、噎ぶヴァイオリンの響きにうっとりしよう。
「オーケストラ!」は荒唐無稽、あり得ないお話である。パリは有名劇場シャトレ座から、2週間先の公演依頼を支配人室で偶然見つけた清掃人フィリポフは仲間を集めてボリショイ管弦楽団になりすまし、パリで公演しようというのだから。フィリポフは実は30年前のソ連時代、天才指揮者と讃えられた名指揮者だったが、ある事件で楽団を追放され、以後清掃人の身に。そして、彼がシャトレ座公演の演目に選んだのがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、そしてソリストに選んだのが若手のスターヴァイオリニストであるアンヌ=マリー・ジャケ。フィリポフがチャイコフスキーを選んだのも、マリーを指名したのも訳がある。それは30年前の出来事と密接に関係があるのだ。
この作品は映画解説(佐藤忠男)によると喜劇であり、悲劇であり、社会派であり、大メロドラマであるという。喜劇の部分は言うまでもない。30年も音楽活動から離れていたフィリポフや仲間たちが今更そんな大舞台で演奏できるのか、楽器もそろわない中でのドタバタ、リハーサルそっちのけでパリでキャビアの行商に励む団員たちなど喜劇の要素はたっぷり。悲劇とは、音楽をこよなく愛したフィリポフらが30年前楽団を追われたことや、マリーが両親を知らず育ったことなど。そして社会派。
旧ソ連時代ユダヤ人排斥が長く続いていた。ペレストロイカ以前、ブレジネフはユダヤ人を信用せず様々な職域から排斥、弾圧したという。スターリン時代の有無を言わさない「粛正」ほどではなかったとの評価もあるが、別に罪を犯したわけではないユダヤ人をシベリアに抑留するのは非人道的圧政以外の何ものでもない。本作はこのブレジネフ時代の政策を批判しつつ、ロシアになってからも旧共産党時代を懐かしむアナクロニズムにも批判の眼を向けている。フィリポフに手を貸すソ連時代のボリショイ劇場支配人ガヴリーロフ(彼こそが直接フィリポフらもを追い出した張本人)は、フィリポフの情熱に負けたわけでも音楽を市民の手に取りもどそうとしたわけでもない。落ち目のフランス共産党のかつての同志とともに、シャトレ座で共産党復権を謳い上げるためだった。また、資金不足に悩むフィリポフらを援助するのは天然ガスの利権をバックに経済界を牛耳るロシアン・マフィア。金がすべての現在のロシアの姿をも描いている。
大メロドラマとは、マリーが実はフィリポフが放団される原因となった、彼が守ろうとして追放、シベリアに抑留され、酷寒の地で命を落とした団員夫婦の一粒種であったということ。フィリポフはその若くして死んだソリスト レアに究極のチャイコフスキー演奏を求めていた。それが、クライマックスの偽ボリショイ楽団とマリーの演奏の中で明らかになっていくところ。チャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲ニ長調(作品35)が12分間にわたって演奏される中、フィリポフの脳裏に、マリーの、なぜ彼が自分を選らんだのか分かった様に、最初バラバラであった演奏が見事なハーモニーを奏でるまでに盛り上がっていく様子は圧巻だ。
ロマ(ジプシー)の描かれ方など少しティピカルすぎるし、いくらアンダーな世界が支配するロシアとはいえ、空港で偽のパスポートとビザを用意するなど「そんなわけは…」と突っ込みたくなる部分も多々あるが、そこはご愛敬。本作は実はフランス映画であって、ルーマニア生まれのラデュ・ミヘレイアニュ監督によって撮られたが、フィリポフを始め主要キャストはロシアの名優たちだが、赤の広場のシーン以外はすべてルーマニアとフランスでの撮影という。それらを不自然に感じさせないところがスタッフの手腕といったところであるが、バイリンガルであるとか、ヴァイオリン演奏であるとかキャストは大変だったであろう。けれど、国を超えて、言葉を超えて、時空を超えて分かち合えるのは音楽の持つ大きな力の一つ。
ブレジネフの罪はもちろん、フィリポフの後悔、マリーの蟠りは消えることはない。しかし、同時に音楽というそれ自体には罪のないものを通して(その使われ方や、その制作過程で迫害や差別はもちろんある)、過去の事実の直視と真実への探求心が止むことはない。喜劇と悲劇と社会派とメロドラマ。エンタテイメントの要素が詰まった快作に出会えた。さあ、噎ぶヴァイオリンの響きにうっとりしよう。