kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

赦しと救いと愛と  北欧の風景になじむ「ヤコブへの手紙」

2011-03-06 | 映画
本当に短い、地味な小品であった。でもいろいろ考えさせられたことがある。愛とは救いとは、赦しとは。
何らかの罪で服役中のレイラは恩赦で出所するが、働き先であり、居候先は地方の古い牧師館。年老いた盲目のヤコブ牧師に送られてくる手紙を読み、その返事を牧師の言うとおりに代筆する退屈きわまりない務め。手紙を捨てたり、唯一外の世界とのつながりである手紙を届ける郵便配達人とも諍いをおこしたり。ヤコブ牧師も妄想で生きている部分があり、誰も来ない教会で結婚式や洗礼式をあげようとする。しかし、牧師の吐露。「人を救おうとして自分自身が救われていたのだ」にかたく心閉ざしていたレイラに変化が。そして、明かされる真実。レイラの恩赦を願っていたのは、ほかでもない自分の姉。姉に暴力をふるう夫を姉を助けようとして刺し殺してしまったレイラは刑務所にいる十数年、姉からの連絡も無視し続けてきたのだ。だが、牧師館にあった姉の手紙には「自分のことを理解してくれていたのは妹だけだった」。冷たい表情に終始していたレイラの頬にあたたかい涙が流れるとき、ヤコブ牧師は逝ってしまう。
フィンランドの犯罪状況は分からないが、日本での殺人事件のおよそ40%は親族絡みと言われる。そこには幼児虐待や介護疲れが含まれる。そしてDVもあるであろう。レイラの場合は、小さいころ、暴力的な母親から自分を守ってくれたのは姉との思いがあるが、その暴力の被害者であった姉もまた、暴力を振るう夫を選んでしまったという悲劇。暴力は循環するという。もちろん、一概には言えないが、子どもや配偶者に暴力を振るう人間は、自身、子どもの頃そのような体験があり、暴力への閾値が低かったり、自己肯定性が低いとの報告もあながち信じられないことはない。
レイラは加害者ではあるが、義兄を失った、姉とともに被害者でもある。家族間の殺人はこのような構造を持つことが多く、被害者・加害者という二分では一筋縄ではいかない理由がある。しかし、被害者家族がいる時、必ず加害者家族もいるのであって、現在、被害者家族・遺族への十分なケアをとの流れの中(犯罪被害者基本法など)、加害者家族にも思いをはせるべきではないか(『加害者家族』鈴木伸元 幻冬舎新書)。もちろん同列には論じえないが、加害者家族とて、犯罪人を自分の家族から出そうなどと普段から考えているわけではないからである。にもかかわらず、現在何か事件がおこると、メディアは加害者の家に押し寄せ、近所や学校の人のコメントをとろうとやっきである。
「(殺人を犯すなんて)そんな風な人には見えませんでした」というコメントくらいばかばかしいものはない。普段から「(殺人を)犯しそうな人」がそばにいたら危なくて仕方ないではないか。しかし、そのような、分かったようなコメントを垂れ流すメディア。
映画は、このような日本のくだらない犯罪報道とは次元が違う。むしろ宗教的、倫理的観点としての加害者(像)、信仰によってその痛みを和らげようとする者のエゴイズムといった、言わば一元的な回答を拒否する投げかけなのである。そう、答えを出すのが難しいからこそ、とりあえずは支えよう、見守ろうというややもすれば迂遠な、先延ばしのやり方でもある。ヤコブ牧師は、その迂遠さが救いを求める信者のためと思っていたが、信者から頼られることで自己の存在価値を確認する偽善を気づいたため、結果的には命を縮めたのではないかとも思える。しかし、ヤコブ牧師の告白によってレイラが救われる方向性があるならば、ヤコブ牧師の偽善は十分福祉となっている。そう、犯罪者を厳しく罰することで被害者の癒しへとの方向は、新たな被害者や被害感情を生む可能性があるという意味で近代刑事手続きの予想した範疇ではないと考えるのだがどうだろうか。
宗教が担ってきた福祉機能を、現代日本に生きる私たちは新たに模索し、構築していかなければならないのだろう。小品の本作が心打つのは、そういう重い課題を静かに示してくれるからである。
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王室との距離は王政との距離と再認識   英国王のスピーチ  

2011-03-06 | 映画
最初に辛口評をいくつか。戦争を控えていた時代であるから仕方ない点もあるかもしれないが、国王の言葉一つで国民が一致団結するというのはヒットラーのドイツとどう違うのか。あるいは、「自民党をぶっ壊す」という分かりやすい言葉で民衆を惹きつけ、党内反対派を引きずりおろして郵政選挙を自民党の圧勝に導いた小泉純一郎とどう違うのか。
政治家には言葉が必要という。もちろん国王は「政治家」ではない。けれど政治的決断は首相をはじめ結局政治家がするとしても、国民統合の存在理由としての王が国民に直接語りかける形で「みんな、戦争で一致団結しよう」というのは、国民に犠牲を強いることではあるまいか。もっとも、くだんのジョージ6世はドイツの空爆のおそれもあるのにロンドン離れなかったことで国民の信頼と人気を保ったそうであるが。それに比して、太平洋戦争時、昭和天皇は皇居をはなれ、御用地にいたり、あまつさえ爆撃に耐えうる(と思われた)長野の地下に隠れようとしたのは、「国民とともに」とあまりにもかけ離れた所為ではないか。
皇室のことはさておき、辛口評のもう一つは、国王ジョージ6世をはじめ、その夫人エリザベスなどとても「人間的」であること。もちろん王室とて人間であって、神ではない。キリスト教世界のイギリスでは神に選ばれし王という位置づけで(王権神授説もイギリスでは盛んであったそうな)、国王がイコール神ではなかった。そのあたり、天皇が神であった国と大分違っているが、王に「人間的」側面を描くことによって、民衆や観るものの親近感や支持を得ようとする意図があるとすれば間違っている。王も普通の一人の人間であることを前提に、そのような王が「普通」を生きる困難さがあることが王制といういびつな制度である、ことを明らかにするために王制を描く意味があるのであって、王様も優しく、戸惑い、苦悩する同じ人間であることを描いただけでは、そもそもなぜゆえに王様とそれ以外の人間がいるのかという根本的な問いとはかけ離れているからである。
とここまで、かなり、映画の意図するところ、製作者や観る人もそれをおそらくは望んでいないであろう「言いがかり」をつけたので後半は好意評へ。
まずアカデミー賞を取ったからではないが、コリン・ファースがいい。もともと口数の多い役がなかった人だが、今回は大事なところで形式ばった演説をしようとするとどもってしまうという民衆に語るのが仕事の国王としては致命的な役。しかし、生涯の友となった言語聴覚士ライオネル役のジェフリー・ラッシュも上手い上、妻エリザベスを演じたヘレナ・ボナム・カーターもやはり上品。その上でファースは今回、どもりながらもセリフは多い。ライオネルに汚い言葉を吐けと言われてどもらずにしゃべくる様、国王として重大なスピーチを成功させた後、ライオネルに「Wの発音を間違えた」と指摘され、「でないと私と分からないだろ」とユーモアでかわす様、どれも英国〈紳士?〉らしくフランスのそれとは違うどこか深く、それでいて茶目っ気もあるファースの演技が冴えわたっていると感じるのだ。
まあ、「ブリジット・ジョーンズの日記」でブリジットの恋人、有能な弁護士を演じた時も口数少なく(もちろん、「高慢と偏見」のダーシーのパロディ)、男前は寡黙を地で行っていたわけであるが、そのファースが口で勝負という役柄だから面白い。
全編、際立った事件があるわけではなく(兄の退位は大事件だが)、変化の乏しいにも関わらずあっという間の2時間。脚本あるいは脚色がうまいのであろう。そして、何も感動的なエピソードなどいらないし、どんでん返しの意外性もいらない。これもアンチ・ハリウッドか、かも。必要であるのは、映画で描ける王室や王といったアンタッチャブルな世界をどれだけ親近感を持たせ、かつ、現実離れと再認識させるか。
冒頭に日本の皇室について少し触れたが、英王室の方が、離婚や、不倫なども含めてスキャンダルが蔓延していだけ「開かれている」とは言える。しかし、英国民は王制をいつまでも支持すると世論結果も報道される中、日本の皇室は次期天皇の子どもが不登校だとか、現天皇のいとこの娘がそれなりに奔放、遊学中であるとか、それこそ「上品な」とりあげ方ばかり。王制の距離を再認識さえ、また、その存続如何を国民が議論しないことを確認させられた作品ではある。
ジョージ6世やチャールズ皇子のように王位より恋を選ぶみたいなスキャンダルがある方が、国民の王室への距離が縮まると思うのだけれどもね。
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