本当に短い、地味な小品であった。でもいろいろ考えさせられたことがある。愛とは救いとは、赦しとは。
何らかの罪で服役中のレイラは恩赦で出所するが、働き先であり、居候先は地方の古い牧師館。年老いた盲目のヤコブ牧師に送られてくる手紙を読み、その返事を牧師の言うとおりに代筆する退屈きわまりない務め。手紙を捨てたり、唯一外の世界とのつながりである手紙を届ける郵便配達人とも諍いをおこしたり。ヤコブ牧師も妄想で生きている部分があり、誰も来ない教会で結婚式や洗礼式をあげようとする。しかし、牧師の吐露。「人を救おうとして自分自身が救われていたのだ」にかたく心閉ざしていたレイラに変化が。そして、明かされる真実。レイラの恩赦を願っていたのは、ほかでもない自分の姉。姉に暴力をふるう夫を姉を助けようとして刺し殺してしまったレイラは刑務所にいる十数年、姉からの連絡も無視し続けてきたのだ。だが、牧師館にあった姉の手紙には「自分のことを理解してくれていたのは妹だけだった」。冷たい表情に終始していたレイラの頬にあたたかい涙が流れるとき、ヤコブ牧師は逝ってしまう。
フィンランドの犯罪状況は分からないが、日本での殺人事件のおよそ40%は親族絡みと言われる。そこには幼児虐待や介護疲れが含まれる。そしてDVもあるであろう。レイラの場合は、小さいころ、暴力的な母親から自分を守ってくれたのは姉との思いがあるが、その暴力の被害者であった姉もまた、暴力を振るう夫を選んでしまったという悲劇。暴力は循環するという。もちろん、一概には言えないが、子どもや配偶者に暴力を振るう人間は、自身、子どもの頃そのような体験があり、暴力への閾値が低かったり、自己肯定性が低いとの報告もあながち信じられないことはない。
レイラは加害者ではあるが、義兄を失った、姉とともに被害者でもある。家族間の殺人はこのような構造を持つことが多く、被害者・加害者という二分では一筋縄ではいかない理由がある。しかし、被害者家族がいる時、必ず加害者家族もいるのであって、現在、被害者家族・遺族への十分なケアをとの流れの中(犯罪被害者基本法など)、加害者家族にも思いをはせるべきではないか(『加害者家族』鈴木伸元 幻冬舎新書)。もちろん同列には論じえないが、加害者家族とて、犯罪人を自分の家族から出そうなどと普段から考えているわけではないからである。にもかかわらず、現在何か事件がおこると、メディアは加害者の家に押し寄せ、近所や学校の人のコメントをとろうとやっきである。
「(殺人を犯すなんて)そんな風な人には見えませんでした」というコメントくらいばかばかしいものはない。普段から「(殺人を)犯しそうな人」がそばにいたら危なくて仕方ないではないか。しかし、そのような、分かったようなコメントを垂れ流すメディア。
映画は、このような日本のくだらない犯罪報道とは次元が違う。むしろ宗教的、倫理的観点としての加害者(像)、信仰によってその痛みを和らげようとする者のエゴイズムといった、言わば一元的な回答を拒否する投げかけなのである。そう、答えを出すのが難しいからこそ、とりあえずは支えよう、見守ろうというややもすれば迂遠な、先延ばしのやり方でもある。ヤコブ牧師は、その迂遠さが救いを求める信者のためと思っていたが、信者から頼られることで自己の存在価値を確認する偽善を気づいたため、結果的には命を縮めたのではないかとも思える。しかし、ヤコブ牧師の告白によってレイラが救われる方向性があるならば、ヤコブ牧師の偽善は十分福祉となっている。そう、犯罪者を厳しく罰することで被害者の癒しへとの方向は、新たな被害者や被害感情を生む可能性があるという意味で近代刑事手続きの予想した範疇ではないと考えるのだがどうだろうか。
宗教が担ってきた福祉機能を、現代日本に生きる私たちは新たに模索し、構築していかなければならないのだろう。小品の本作が心打つのは、そういう重い課題を静かに示してくれるからである。
何らかの罪で服役中のレイラは恩赦で出所するが、働き先であり、居候先は地方の古い牧師館。年老いた盲目のヤコブ牧師に送られてくる手紙を読み、その返事を牧師の言うとおりに代筆する退屈きわまりない務め。手紙を捨てたり、唯一外の世界とのつながりである手紙を届ける郵便配達人とも諍いをおこしたり。ヤコブ牧師も妄想で生きている部分があり、誰も来ない教会で結婚式や洗礼式をあげようとする。しかし、牧師の吐露。「人を救おうとして自分自身が救われていたのだ」にかたく心閉ざしていたレイラに変化が。そして、明かされる真実。レイラの恩赦を願っていたのは、ほかでもない自分の姉。姉に暴力をふるう夫を姉を助けようとして刺し殺してしまったレイラは刑務所にいる十数年、姉からの連絡も無視し続けてきたのだ。だが、牧師館にあった姉の手紙には「自分のことを理解してくれていたのは妹だけだった」。冷たい表情に終始していたレイラの頬にあたたかい涙が流れるとき、ヤコブ牧師は逝ってしまう。
フィンランドの犯罪状況は分からないが、日本での殺人事件のおよそ40%は親族絡みと言われる。そこには幼児虐待や介護疲れが含まれる。そしてDVもあるであろう。レイラの場合は、小さいころ、暴力的な母親から自分を守ってくれたのは姉との思いがあるが、その暴力の被害者であった姉もまた、暴力を振るう夫を選んでしまったという悲劇。暴力は循環するという。もちろん、一概には言えないが、子どもや配偶者に暴力を振るう人間は、自身、子どもの頃そのような体験があり、暴力への閾値が低かったり、自己肯定性が低いとの報告もあながち信じられないことはない。
レイラは加害者ではあるが、義兄を失った、姉とともに被害者でもある。家族間の殺人はこのような構造を持つことが多く、被害者・加害者という二分では一筋縄ではいかない理由がある。しかし、被害者家族がいる時、必ず加害者家族もいるのであって、現在、被害者家族・遺族への十分なケアをとの流れの中(犯罪被害者基本法など)、加害者家族にも思いをはせるべきではないか(『加害者家族』鈴木伸元 幻冬舎新書)。もちろん同列には論じえないが、加害者家族とて、犯罪人を自分の家族から出そうなどと普段から考えているわけではないからである。にもかかわらず、現在何か事件がおこると、メディアは加害者の家に押し寄せ、近所や学校の人のコメントをとろうとやっきである。
「(殺人を犯すなんて)そんな風な人には見えませんでした」というコメントくらいばかばかしいものはない。普段から「(殺人を)犯しそうな人」がそばにいたら危なくて仕方ないではないか。しかし、そのような、分かったようなコメントを垂れ流すメディア。
映画は、このような日本のくだらない犯罪報道とは次元が違う。むしろ宗教的、倫理的観点としての加害者(像)、信仰によってその痛みを和らげようとする者のエゴイズムといった、言わば一元的な回答を拒否する投げかけなのである。そう、答えを出すのが難しいからこそ、とりあえずは支えよう、見守ろうというややもすれば迂遠な、先延ばしのやり方でもある。ヤコブ牧師は、その迂遠さが救いを求める信者のためと思っていたが、信者から頼られることで自己の存在価値を確認する偽善を気づいたため、結果的には命を縮めたのではないかとも思える。しかし、ヤコブ牧師の告白によってレイラが救われる方向性があるならば、ヤコブ牧師の偽善は十分福祉となっている。そう、犯罪者を厳しく罰することで被害者の癒しへとの方向は、新たな被害者や被害感情を生む可能性があるという意味で近代刑事手続きの予想した範疇ではないと考えるのだがどうだろうか。
宗教が担ってきた福祉機能を、現代日本に生きる私たちは新たに模索し、構築していかなければならないのだろう。小品の本作が心打つのは、そういう重い課題を静かに示してくれるからである。