森達也さんが「多くの歴史的過ちは、こうして始まった」(『「開戦前夜」のファシズムに抗して』所収 2015.10 かもがわ出版)で、カンボジアを訪れた経験を語っている、プノンペンにあるトゥール・スレン虐殺犯罪博物館は、クメール・ルージュが支配していた(ポル・ポト派の)時代、学校の校舎で殺りくを繰り返していた現場。拘束器具はもちろん、血のりもふくめてすべてそのままに残してある。カンボジアの負の歴史を隠そうともしない。
森さんもだが、筆者はアウシュビッツを訪れたことがある。アウシュビッツはポーランドだが、ドイツが、その存在、世界遺産登録に反対したことはない。ドイツ最大の負の歴史の証拠であるのに。ドイツ国内にもダッハウやビルケナウなど強制収容所であった場所は、ナチスの蛮行と戦争を記憶する施設としてある。翻って森さんは言う。カンボジアやアウシュビッツをはじめとしてドイツの博物館を訪れて、カンボジアは野蛮な国、ドイツは尊敬するに値しないひどい国だと思うだろうかと。
「顔のないヒトラーたち」は、アウシュビッツでなされたことが、戦後ドイツ市民に知らされていなかったこと、歴史的記憶が共有されていなかったことを明らかにする。しかし、戦後13年、1958年、戦後復興にまい進するドイツでは、フランクフルトでアウシュビッツの実相、ナチスに加担した「普通」のドイツ市民の責任追及を明らかにしようとする正義感あふれる検察官ラドマンには壁の連続だった。
しかし、ユダヤ人で被収容経験のある検事総長バウアーの後ろ盾を得て、アウシュビッツを生き残った人たちの証言を得、アメリカ軍が保有している膨大な資料を精査、ナチスの先兵として加担した市民を逮捕、告発していく。ナチスの時代を隠そうとする政権や市民の思いは強く「父親を犯罪者として告発するのか」との攻撃、「傷が癒えている寝た子を起こすな」との批判に耐えて。そして、捜査に5年の歳月を要し、1963年に始まったアウシュビッツ裁判で、ドイツ人の市民が侵した罪を裁くことになった。ナチスに加担し、ユダヤ人らを殺りく、その末端を担ったのに、戦後は加害性を一切問われない普通の市民面していた人たちが裁かれたのだ。
このフランクフルトの検察官らの正義を求める意思が、ドイツで本当にナチス時代を清算することにつながったのだ。その後、賛否はあるがドイツでは「闘う民主主義」の伝統が根付く。民主主義のためには、自国民すべてに及ぶ過去の加害事実に目を向けないことはないと。
それは、いまだアウシュビッツ、ホロコーストに関する映画を制作し続けるドイツの姿に明らかである。冒頭の森さんの言説にかえれば、自国の負の歴史を描いたからといって、「ドイツは残虐でひどいから付き合わない」と思いますかと。「従軍慰安婦はなかった」「強制連行はなかった」「朝鮮半島、台湾、中国満州等で日本はいいことをした」。自己の負の歴史を否定し、それを後ろ押しする政権と、その政権を「支持」する世論。この国では1958年当時のドイツまでもたどり着いていない。
さらに、森さんは言う。日本で戦争を思い起こす「記念日」といえば、1945年8月15日である。ところが、ドイツではヒトラーが全権を握った日と、アウシュビッツ解放の日を戦争を記憶する日としていると。その違いはとてつもなく大きい。