新書でありながら750頁の大部である。その多くを沖縄戦を体験した人たちの証言に割く。中でも戦況も芳しくない1944年9月に沖縄で配置された秘密部隊、第一、第二護郷隊に動員された少年兵らの証言が多く占め、その実相を明らかにする。少年の年齢は15〜17歳。その任務は遊撃隊としての活動、即ちスパイ活動である。まだ中学生くらいの年齢の少年に戦闘員としての射撃や擲弾筒の技術のほか、スパイ、テロ、ゲリラ戦・白兵戦の訓練を短期間に課した近代戦争の歴史上類例のない秘密作戦であった。秘密であるから資料は少ない。そして正規の軍人ではないから戦後の補償も一切ない。著者はこの数々に明らかにされてきた沖縄戦の歴史の中での空白を体験者の証言を通して一つずつ繙いてゆく。
護郷隊を指導、指揮したのは陸軍中野学校を出たばかりの22、23歳の青年将校や下士官ら。中でも第一護郷隊長村上治夫と第二護郷隊長岩波壽(ひさし)は少年らの尊敬と羨望を一手に集める陸軍の超エリートにて優れた指導力の持ち主だったようだ。帝国陸軍には「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が絶対であるほど、敵に囚われるような事態になれば自刃しろとの定めがあったが、スパイは囚われてからの行動こそその真価を問われた。であるから「死ぬな」というのが絶対的命令であったというのが皮肉だ。村上隊長と岩波隊長は性格的に動と静、行動型と沈思黙考型と正反対のようだったが、いずれも少年らの信頼厚く、戦後は二人とも沖縄に通い、慰霊と追悼、元少年兵らのへの気遣いなど、二人を非難したり、悪く言う人は少ない。著書の三上智恵は考える。この二人の戦争責任を問うには、「悲惨な沖縄戦」や「捨て石にされた沖縄」と言った通り一遍の言説だけで説明はつかないと。わずか15歳ほどで戦場に放り込まれ、死んでいく仲間を嫌という程見た一人ひとりの思いを聞き取ってこそと。
しかし、いくら元少年兵らが二人の隊長を「立派だった」と評しても、戦場が過酷であったことには変わりない。そこには、沖縄ゆえの地域的特性、すなわち日本軍がそもそも沖縄の人間を信用しておらずスパイ視する素地があったこと、実際、米軍が上陸し、敵軍との攻防は眼前で展開される喫緊、実際にある事態であったことなど。本書では皇軍兵士に敵軍のスパイとして殺される沖縄住民らの実態も明かされる。そして、スパイを征伐したと褒めそやされる「敗残兵」や、スパイ視されてあわや殺されかけた少女など。しかし、凶暴な敗残兵も、スパイリストを作成し住民殺戮を指導した兵士も、別の側面からは尊敬され、愛された存在であったことも明かされる。人間の多面性と簡単には分析できないが、多くの善良な男子が、中国その他侵略した地では、悪魔と化したことと同根であるかもしれない。戦地、戦場は人から善良さを奪い去ってしまう事実。
ただ、著者も押さえておかなければならないとする。「戦争末期とはいえ、(護郷隊創設という)こんな法も道義もかなぐり捨てた無茶な作戦を当時の大人たちが東京(=大本営)から平然と下命したことに驚きを禁じ得ない。間違いなく日本戦争史に残る大きな汚点」で「大本営の過ちは厳しく追及されるべきである」と(330頁)。ところで、著者は証言者の隊長、下士官、正規の軍人らに対するアンビバレンスな感情を丹念に拾い上げるとともに、指導した隊長や住民虐殺に関わった軍人らの責任についても言及するが、そういった皇軍が本源的に内包していた不合理性、住民は守らないのは国(体)を守るため、と言う構造としての責任にはあまり触れない。いや、著者が明らかにしたかったのは、一人ひとりの兵士そのものが死ぬために戦地に赴くという絶対的な不合理性、そのようなことはあり得ないが、生き残るのは天皇のみと言う非科学性への射程ではない。しかし、天皇制軍国主義の思想では、合理性や科学性は捨象される。ここでは住民は人としてではなく、武器・弾薬と同じ消耗品であったことを明らかにすることによって、著者の立場を明らかにしているのであろう。現に、沖縄戦の最中、本土でも護郷隊の計画が進んでいたことも著者は調べ上げている。
本書を読むきっかけは三上と大矢英代が共同制作したドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(2018)を見たことであった。大矢はマラリアが蔓延して危険な地であることが分かっている波照間島に住民を強制疎開させ多くの犠牲者を出した事件、強制疎開を指揮したのもまた中野学校出身者であった、も認めている(『沖縄「戦争マラリア」 強制疎開死3600人の真相に迫る』あけび書房 2020)。こちらも併せて推薦したい。