kenroのミニコミ

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「確信」の危うさを突きつける   「私は確信する」

2021-03-08 | 映画

フランスの刑事司法制度には詳しくないが、アメリカのような陪審制度と違って裁判官の裁判に市民が参加する参審制度だと以前読んだことがある。しかし、映画では陪審制度として描かれていた。しかし、アメリカのように市民たちだけで決するわけではないのでやはり制度としては参審で、映画ではわかりにくいので「陪審」と呼ばれていたのだと思う。それなら法廷で3人の裁判官の両側に3人ずつ並ぶ形といい、日本の裁判員制度に似ている気もするが、大きく違うところがある。控訴審でも参審制度だということだ。

だが、映画ではその「陪審」であるからかどうかは重きを置かれていない。むしろ、人間はどこまで「確信」を持てれば、人を有罪にできるかという刑事裁判に関わる全ての者、裁判官や参審員はもちろんのこと、捜査に当たった警察官や公訴を提起した検察官、そしてその事件・裁判を見守る市民とメディアに突きつけた問いである。そこには本源的な陥穽がある。フランスに限らないだろうが、逮捕・捜査した警察官は犯人だと思い、取り調べをするし、有罪が欲しいから起訴したのは検察官だ。彼らはすでに「確信」を持っている。そしてメディアは疑惑が大きいほど報道価値があると考え、結論に至る過程が混迷を深めればよくその帰趨にはあまり興味がないようにも見える。そして、メディア以外に情報がない市民はその報道に踊らされるし、「確信」までは至らない。では、法廷の傍聴者と、最終的に判断をしなければならない参審員はどうか。

主人公のノラは一審で参審員をつとめ、判決に疑問を持ち、控訴審で敏腕弁護士に頼り、自ら膨大な関係者の会話記録を分析して、被告人以外の人間への疑惑を暴く。それは被害者とされる女性が突然3人の子どもを残して失踪し、夫により殺されたと裁判になっているが、夫がその犯人との確信が彼女には持てなかったことにある。一審に関与した参審員が控訴審の証拠収集に関わってもいいのか、採用していいのかという素朴な疑問もあるが、フランスの司法制度では公判が始まるまで相当な予審に時間を費やすこともあり、可能なのかもしれない。それとは別に、作品が問いたかったのは、「確信」が100%持てなけれれば推定無罪を貫かなければならないことと、ノラも失踪した妻の愛人を犯人と「確信」する正義(感)が持つ危うさだ。

 刑事裁判の原則は、絶対に冤罪を生み出さないことにあるはずだが、強い正義(感)こそ確信を後押しし、それによって新たな冤罪を生み出しかねないという現実とパラドックスが、私たちをして人を断罪する時に求められる迷いや揺らぎの必要性を自覚させる。

 そもそも一審で無罪になった者をまた公判に引きずり出していいのかという、古典的には二重の危険を考える視点もあり得よう。日本でも一審で無罪だったのに、高裁、最高裁と有罪になり、再審で冤罪をやっと晴らせた東電OL事件のような例もある。東電OL事件の時はまだ裁判員裁判は始まっていなかったが、現在では市民がそういった場面に関わっている。覚醒剤事件の事案では一審無罪なのに逆転有罪の例もある。

 「確信」を確信することこそ危うい。スリリングな裁判劇は法廷に止まらない緊張と魅力にあふれている。

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