1980年光州事件。1989年天安門事件。国家権力がその独占的暴力を用いて国民を虐殺したのに、その事実を伏せ、あまつさえ事件さえも語ることを許さず、「なかった」ことにした事例は戦後において数多くある。光州事件は、民主化した韓国でその事実が明らかになり、首謀者への断罪も進んでいるが、天安門事件はそうではない。同事件より20年以上前の1962年、実際あったノボチェルカッスク事件は知らなかった。ソ連が崩壊し、ロシアになるまで語られることが許されなかったからである。
それがドキュメンタリーのようなモノクロ画像によって蘇った。描かれるのは、事件の真相究明や、首謀者・責任者への断罪、あるいは、それを見過ごしてしまった市民の悔恨ではない。ソビエト共産党の指導方針をつゆとも疑わず、党に近しい立場であるゆえの特権階級、そうではない一般民衆を下にみている一女性の視点、視線である。けれど、事件の真相と隠蔽、その国家的謀略に触れるにつれ、特権階級といえども地方の一公務員に過ぎないリューダは国家への疑念が生じたようだがその先までは描かれない。多分、リューダはその疑念を押し殺して、事件以前と変わらぬ顔で過ごしていくことだろう。そうでないと生きていけないからだ。
時はスターリン後のフルシチョフの時代。先立つ1956年の「スターリン批判」を経て、もう粛清には怯えなくて済む「自由」の時代かに見えた。しかし、そのフルシチョフ政権がノボチェルカッスクの労働者・市民の自然発生的デモの弾圧を命じたのだ。映画は、市民への発砲・虐殺はKGBの犯行説を採用しているが、軍そのものの蛮行という説もあり、事実解明は難しいだろう。そもそもスターリン時代を良かったと考える層には、事件そのものが信じられず、デューダのように実現場を目撃している者でも、党の誤謬を信じないのであるから、実際に経験していない者には「間違い」に気づくことはないだろう。それくらい党は絶対的であり、国家=自分であったのだ、末端細胞であるデューダのような人物でればなおのこと。
多分、デューダも党の誤り、事件の真相を気付いている。しかし、気付いていないと自己を納得させることが生きていく術であったのだ。それが、騒乱に巻き込まれて行方知れずとなった愛娘を探し回り、やがて死亡したかもしれず、その遺体さえ秘密裏に埋められている事実に直面し、疑いがどんどん大きくなっていったことだろう。党は過ち、そして市民に銃口を向けるのだと。
本作は実際のモデルがいるわけではなく、デューダも創作であるそうだが、あのような経験を持つ母親、市民、労働者はきっといただろう。モスクワの南西、国境も近いノボチェルカッスクという地域は、革命に反したコサックの地元であり、地域に対する差別と冷遇が労働者・市民の大規模デモにつながったことも伺われる。労働者は皆平等で、人種的な差別などない社会主義国の理想は、達成できていなかったことが微細に暗喩される。
「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」(ウィンストン・チャーチル)