とても怖い映画だ。数多あるオカルトやサスペンス、スリラーではない、現実を映し、それも登場人物が全て冷静、正気、論理的に整合性が保たれているのが何よりも怖いのだ。
ヴァンゼー会議。1942年1月20日、ベルリン、ヴァンゼー湖畔の邸宅で行われたわずか90分の会議で、ナチスドイツの高官らによって「ユダヤ人問題の最終的解決」が話し合われ、全員一致で遂行が決定された。「最終的解決」とは言わずもがなの虐殺、滅殺である。そこで話し合われたのは、欧州に住まう1100万人のユダヤ人をいかに効率的に運搬し、虐殺し、死体を処理するかということ。そして、選別、運搬等は「人道的」に行わらなければならず、対象のユダヤ人の血統性も。ナチスドイツの占領現場の軍人や高官らが気にするのは、その地域に何人のユダヤ人がいて、その「処理」にいかほどの労力、日数がかかるかということ。彼らが見ているのはユダヤ人という「人間」ではない。まるで、生産・流通・消費管理とも言える工業製品の数のようだ。そう、原題はTHE CONFERENCE。「会議」であったのだ。
進行はビジネス会議そのもの。ヒトラー総統の意思―アーリア人のヨーロッパ建設のめにユダヤ人を一掃―との計画を説明するラインハルト・ハイドリヒは、ゲシュタポ(親衛隊=SS)高官を引き連れ、話し合いと言いながら用意した「解決」策を政府次官や軍事参謀に飲ませる。そう、異論は許さないし、そもそも、異論が生じる余地もない。ユダヤ人の「最終的解決」については誰も疑いなく賛同していたからだ。彼らの興味関心は、あくまで遂行に至る輸送や担当するドイツ軍の受け入れ態勢、「処理」する時間などであって、ユダヤ人という「人」にはない。それまで行われてきた銃殺では、撃つ兵士に心的影響が発する恐れがあるけれども、ガス室で大量「処理」すればそれは解決されるというのだ。それも、徴発したユダヤ人を貨物車両に押し込み、収容所に引き込み線を設置し、降車させてすぐガス室に入れれば、ドイツ人の誰の「手も汚さず」、心理的負担もないという。なんというビジネスライクなのだろう。
ハイドリヒの説明を有能な事務方として補足するのはアドルフ・アイヒマン。アーレントが「凡庸な人物」と評した一公務員ではなく、冷酷な執行者であった。アイヒマンは、建設中の巨大な「殺人工場」アウシュビッツはじめ、収容所へのユダヤ人の強制輸送を「効率的」、計画的に「成功」させた人物として知られる。しかし、多分、アイヒマンのみならず、ハイドリヒやその他の次官、軍人等、会議に出席したナチスドイツの指導・決定層は仕事としてユダヤ人の「最終的解決」をいかに成し遂げるかという公務―それがヒトラーのおぼえめでたい地位になりたかったとしてもーに邁進していたに過ぎない。そこまでユダヤ人であれ、ナチスに有用でないと見た人であれ同じ「人間」と見ない感性と、それを後ろ押しする政策のコマに過ぎなかったということだ。
ヴァンゼー会議に集った者らは、ヒムラーやゲーリングといったヒトラーの最側近ではなかった。いわば現場のトップに過ぎなかった。中には、この会議で重要な決定に与ったとしてヒトラーに面談をと願う者もいる。王に見(まみ)えたい下僕そのものの心性だ。
さすがにヴァンゼー会議のような悪魔の決定を行なっているとは思わないが、国会という代表民主制の枠組みがあるにもかかわらず、この国では軍事拡張を目指す重要な決定を国会に諮らずに閣議決定という手法を用いている。暴走する政権が勝手に開く「会議」の怖さと内容を改めて思うのだ。