何十年も前なので記憶の上書きをしていると思うが、小中高を通して、いじめられないように立ち回る学校生活を送っていた。それは、いじめられたり、その1番のターゲットになりそうな同級生を見ていたからだ。けれど、逃げ通すことはできず、中学では殴られ、高校ではパシリを進んでしていた。幸い、大学ではいじめの対象とはならなかったが、就職してからも自分にキツく当たる先輩から逃れようと、彼の視界に入らないよう工夫もした。けれど、あちら側にすれば避けているのが見え見えだ。
子どもは実は残酷と言われる。ある面でそうであり、またそうでもないだろう。あるいは無垢とも言われるが、それもまた両面ある。しかし、子どもだけのことだろうか。大人にも残酷と無垢な面もあるだろう。ただ、違うのは社会性を備えた大人はそれらの面を自分の意思で操作したり、また、わざとそういう面を生きていることが多いということだ。そして善人、悪人の境目など常人には不確かで不可分だ。
「怪物」とは何者で、誰がそうなのか? あるいは、どんな人でも内なる「怪物」を有しているのか。安藤サクラ演じる麦野早織は、シングルマザーとして一人息子の湊を愛し、大事に育てている。その湊に異変が、突然髪を切り、スニーカーが片一方しかない。永山瑛太演じる担任の保利先生に暴力を振るわれたと訴えたため、学校に乗り込む。全く無表情、能面のような校長(田中裕子)、極限まで自己保身にまみれている副校長。無理やり謝罪させられる保利先生はやがて全校集会で謝罪、辞職する。保利先生の視点で描かれた現実は違っていた。彼には何の非もなく、むしろ湊がクラスメートの星川依里をいじめているように見えた。依里は同級生の中では小柄で、どこか他の子らと違ったところがある。そして湊の視点。
角田光代がコラムを寄せている。子どもからの視点に移った時点で「ようやく観客は、入れ子の箱のいちばん最後に隠されていた真実を知ることになる。なんとうつくしく、やさしく、残酷な真実だろうか」とネタバレになることなく本作をズバリと言い当てるあたり、さすがベストセラー作家だ。そう、おそらく港や依里のほんとうの姿が「うつくしく、やさしく、残酷」であったため、ある意味起こった事件と言える。そして、他の主たる登場人物、早織も、保利もその多面性を抱え、そして子どもも含めて他者に対して「怪物」であった時もあった。複雑な関係性 − 二者間ではその複雑さが理解されないことも多い ― そのものが「怪物」を育てていたのだ。人間関係そのものが「怪物」であったのだ。
「誰も知らない」、「万引き家族」をはじめ、子どもを中心に「家族」を問い続けてきた作品で高い評価を得ている是枝裕和監督は、自ら脚本を手がけるのに、本作は坂元裕二に任せた、いや、坂本の脚本ならと監督だけを引き受けたそうだ。坂本は、2022年度のテレビドラマの賞を総なめした「エルピス 希望、あるいは災い」の佐野亜裕美プロデューサーと組んで好評だった「大豆田とわ子と三人の元夫」の脚本家である。
映画が始まると、当初、居心地が悪かった。善人そうに見える早織も、その他の人たちもそんなに悪い、深慮遠謀を凝らした悪巧みを隠しているようには見えない。しかし不穏なのだ。そして子どもは、どこまで子どもで「小さい大人」なのだろうか。学校が舞台ということもあり、ある意味、日本的な描写だがラストまで一気にすすむ。目が離せない秀作だ。