kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

写仏の始まりは 「檀林皇后がお描きになった薬師三尊」

2020年03月27日 | Weblog
【阪神】藤浪選手が新型コロナウイルスに感染のニュースが・・・
藤浪選手は発熱やせき、けん怠感の症状もなく、においを感じない嗅覚、味覚異常があり、藤浪選手と共に食事した2選手も陽性判定されています。
まだまだ、これからが油断できない状態なので気を付けて下さい。

京都・大覚寺


大覚寺(正式名:旧嵯峨御所大覚寺門跡)は、京都市右京区嵯峨にある1200年の歴史を誇る寺院です。弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山として知られ、明治時代初頭まで、天皇もしくは皇統の方が住職を務めた皇室ゆかりの門跡寺院でも あります。

都で疫病が流行した弘仁9(818)年、嵯峨天皇が空海の勧めで、世の平安を祈って般若心経を浄書され「勅封心経」として、大覚寺心経殿に奉安されています

嵯峨天皇直筆の「般若心経」

縦約25センチ、横約68センチの紺綾織の布に、金泥で書かれています。

嵯峨天皇は書に優れ、空海や橘逸勢(たちばなのはやなり)と並び
平安時代の「三筆(さんぴつ)」として知られています。

写仏 般若心経の表紙「見返し絵」

天皇の写経に仏さまの姿を描いたと伝わる「見返し絵」は
檀林皇后が「薬師三尊」のお姿を写仏されたのが写仏の始まりとされています。


日本の第52代天皇・嵯峨天皇の皇后「橘 嘉智子(たちばな の かちこ)」は
『檀林皇后九相観』で知られる檀林皇后『だんりんこうごう)です。


『蜜蔵深弦(みつぞうじんげん)にして翰墨(かんぼく)に載せ難し』
写経の最初に仏の姿が描かれている「見返し絵」は、難しい経典がわからない人々や文字が読み書き出来ない人々に、分かるように絵で描き表わしたものが仏画で、仏画を描き写すことを行とするのが「写仏」です。

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●京都・壇林皇后九想図で知られる「第52代 嵯峨天皇后の嵯峨陵」に
行ったことがあり、嵯峨天皇后は忘れられない皇后の一人です。

六丁峠から嵐山方面に下っていくと・・・(2017年6月の記事)

「檀林皇后九相図」で知られる、第52代 嵯峨天皇后の 嵯峨陵さがのみささぎ でしょうか?
九相図とは、遺骸が朽ちていくさまを9段階に描いた仏教画のことです。


ここで通行止めでした。



● 京都の西福寺にある「檀林皇后九相図(だんりんこうごうくそうず)」
嵯峨天皇の皇后:檀林皇后(橘嘉智子)は、仏教に深く帰依し、自らが餌となって飢えた生き物たちを救うため、また、この世のあらゆるものは移り変わり永遠であるものは何一つ無いという教えを示すため、自らの遺骸は路傍に放置し、動物に食い荒らされてても哀れと思うな、と遺言したと伝わっている。美女として名高かったゆえに、死は身分や容姿にかかわらず必ず訪れるという教えとなり、どれほど美しくとも、死後は醜く腐り骨となり土に還る、と、僧の情欲を断ち切らせるために描かれたといわれる。死の瞬間のまだ美しい姿から、腐敗ガスで遺骸が膨らむ→腐る→虫がわく→鳥獣が食べる→ほとんど骨になる→完全な白骨になる→骨が散乱する→塚が建つ、の9場面に描き分けられた1枚の図です。(作者不詳)


いま、この奥の人の目も届かない静かな所で安らかに眠っておられるのです。

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天皇の許可なく開けられない「勅封」の扱いで保管され、60年に1度、寺院関係者らにのみ公開されます。写経から1200年の節目にあたることを記念し、2018年に公開されたので次回は2078年です。

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