喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

ふるさとの歴史 ~旅する巨人 宮本常一から学ぶ~

2016-06-07 | ふるさと
 宮本常一が書いた「ふるさとの生活」という本を読んだ。
初版が25年前の1986年。

 民俗学者柳田国男は、常一のことを
「永いあいだ、もっとも広く日本をの隅々の、だれも行かないような土地ばかりを、
歩きまわっていた旅人」と言っています。

 常一は、ふるさと山口県大島郡の村を学びの場としました。
大島も瀬戸内海に浮かぶ1つの島。
私のふるさと伊方町平礒も日本一細長い佐田岬半島の陸の孤島のようなところ。
 はたして、そこから何を学ぶのでしょうか?

 本にはこう書かれています。

 ふるさとには、学ぶべき大切なものが日常生活の中にいくらでもあり、
何気なく見たり、聞いたり、あるいは使ったりしているものの中に、
私たちの先祖の歩んできた歴史が刻まれている。


 第1章の「ほろびた村」の最後に
「歴史は書かれている書物の中だけにあるのではなく、
このような、ほろびた村のあとにも、また私たちの暮らしの中にもひそんでいます。
そして、そういうものがあきらかになってこそ、日本人は本当にどんな生き方をしてきたかが、
あきらかになると思います。」

と結んでいます。

 そしてこの本の最後には、
「村を、今日までのようにするためにかたむけた先祖の努力は大へんなものであったと思います。
その努力の中にこそ、のこる歴史があったのでした。
 私たちは、いつでもその人たちの前進しつづけた足音が聴けるような耳と、
その姿の見えるような眼を持ちたいものです。」

と書かれています。
 この考え方は、常一自身の生涯の座右の銘でもあったようです。

 なるほど、「見方」、「聞き方」がとても重要ということです。
こう考えると、自分のふるさとに対して実に大ざっぱにしか見ていない、聞いていないことばかり。
 ふるさとの今は、すべて先祖の努力のたすきリレー。
それをもっとよく知ることは、自分を知ること。
さらに自分の生き方を示していくような気がします。


 すばらしいです。
「ふるさとの生活」って。

嗚呼 釜木小学校 ~終わりは、新たな始まり~

2016-06-07 | 教育
 2011.3.15 ブログより


 三崎町立釜木小学校の閉校に際して
                 校長  松坂 末広

 続き

 思えば、明治12年5月15日に釜木小学校が設立されてから
昭和52年3月現在に至るまで、隆々発展した本校は、卒業生1272名を数えます。

 国民教育のたしかな基礎を修めた本校卒業生は、郷土の文化・産業の発展に貢献し、
あるいは都市に進出して、政治・経済・文化等各会における成功者も多く輩出しています。

 本校は地域生活文化の中心として機能し、同窓生にとりましては、
心のふるさととして親しまれてきたのであります。

 世の移り変わりはどうすることもできず、ここに閉校の日を迎えました。
心さみしい限りであり、本校97年の歴史を偲び、学校閉鎖の現実に寂寥の感を禁じ得ません。
       
 しかしながら、私たちは閉校の感傷をのりこえて、あしたへの希望に目を転じ、
教育の進展と子どもたちのしあわせを願わなければなりません。

 近代化された二名津小学校の広い運動場、完備された教室での学習を思うとき、
ほのぼのとした展望がひらけています。

 21世紀に生きる子どもたちに、どうか思う存分自己を伸ばしてほしいと願ってやみません。』


 
 松坂校長先生のあたたかい思いがしのばれます。

「明日への希望に目を向ける」ことが私たちにはとても大切なことです。

 母校釜木小学校の校舎はもうありませんが、
校庭の片隅に二宮金次郎の像が残っています。
 今度の休みに、久しぶりに行ってみようと思います。
金次郎さんに会いに。

                  岬人

嗚呼 釜木(かまぎ)小学校  ~さようなら母校~

2016-06-07 | 教育
2011-03-25 | ブログ


 今日、すごいものを手にしました。

 私の母校、釜木小学校。
3年間通い、その後二名津小学校に統合されました。
 歳を取ってもあの幼き日の思い出は残っていて、
たまに哀愁にふけるのです。

 その釜木小学校の閉校に際して、
当時の校長先生が書かれた冊子を見せてもらったのです。

 紹介します。


『 三崎町立釜木小学校の閉校に際して
                   校長  松坂 末広

 序
 昭和52年3月31日をもって釜木小学校を閉じることになりました。
 4月1日からは、二名津小学校に吸収合併し、97年の歴史をとじることになったわけです。
 
 科学技術の進歩と経済の高度成長による国民生活の動向は、
都市集中型となりました。

 反動的に校下の釜木・平礒地区では過疎化がすすみ、昭和34年の児童数152名を擁した本校も、
ついに在籍児童25名に減少してしまいました。
 
 教育もまた近代化がすすみ、教育機器の導入による学習指導法の改善、
集団学習での社会性・連帯感の育成が強く望まれることになりました。

 そのなかにあって、年々減少する児童数の推移を憂慮する父母ならびに教育関係者は、
数年前から学校統合の問題について検討を重ねてきたのであります。
 
 ここに至り、町教育委員会は大所高所より統合を決断し、
昭和51年12月25日、町議会もこれを認めて三崎町立学校設置条例を改定しました。


 
 続く