城郭探訪

yamaziro

週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2012年10月07日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.10.06(土) 699 PV 173 IP 5702 位 / 1771197ブログ
2012.10.05(金) 583 PV 135 IP 9990 位 / 1770899ブログ
2012.10.04(木) 561 PV 146 IP 12076 位 / 1770506ブログ
2012.10.03(水) 609 PV 174 IP 6386 位 / 1770095ブログ
2012.10.02(火) 606 PV 198 IP 5180 位 / 1769716ブログ
2012.10.01(月) 679 PV 213 IP 4516 位 / 1769292ブログ
2012.09.30(日) 855 PV 227 IP 4075 位 / 1768897ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.09.30 ~ 2012.10.06 4592 PV 1266 IP 6222 位 / 1771197ブログ
2012.09.23 ~ 2012.09.29 3960 PV 1099 IP 7888 位 / 1768557ブログ
2012.09.16 ~ 2012.09.22 4717 PV 976 IP 9007 位 / 1765930ブログ

トータルアクセス数

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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


中仙道 愛知川宿パネル展

2012年10月06日 | 歴史講座・フォーラム

 

愛知川宿(えちがわじゅく)は中山道65番目の宿場(->中山道六十九次)で、現在は滋賀県愛知郡愛荘町(旧愛知川町)。

元は東山道の宿駅で、『太平記』に記載されている。宿場町であると同時に近江商人の町でもあった。「びん細工手まり」は、起源は定かでないが、愛知川だけに伝承される工芸品である。

 

歌川広重による愛知川の風景

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


志賀街道の石仏

2012年10月06日 | 歴史講座・フォーラム

北白川の石仏   ③西教寺の石仏(大津市山中町)

②志賀の大仏(おぼとけ 大津市滋賀里町)

西教寺の石仏(大津市山中町)

阿弥陀如来座像。鎌倉時代。
西教寺の門脇、街道に面して祀られています。地元では「薬師さん」として信仰を集めています。山中越を利用した旅人の目標として「一里塚」とも呼ばれています。

                                                                                                                 山中町西教寺の石仏     志賀の大仏(おぼとけ)

志賀の大仏(おぼとけ 大津市滋賀里町)

阿弥陀如来座像。鎌倉時代。
奈良時代、天智天皇が建立した崇福寺跡に向かう山道への入口に祀られています。地元の方々は「大仏講」をつくり、大切に信仰されています。お顔の優しい表情が印象的です。


北白川の石仏

〈御詠歌は「みちばたの川にはさまれ東むき あさひをうける子安観音」〉

傍らの説明書きには、
「ここは昔から白川の村の入り口に当り、東は山を越えて近江に向い、洛中へは斜めに荒神口に通じていた。また出町から百万遍をへて浄土寺へと向う細道との交差点でもあった。
この堂々たる鎌倉期の石仏は『拾遺都名所図会』に希代の大像として描かれている弥陀像であるが長い年月の間にかなりの風化が見られる。古来子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る。」
とありました。

北白川石仏_20100905164348 北白川石仏_20100905164240
〈天明7(1789)年刊行の『拾遺都名所図会』より 北白川の石仏〉

【参考文献】

大津の歴史事典HP
森本茂「志賀の山越えの<いはえ>考」(『奈良大学紀要』17号)
『滋賀県の地名』(平凡社)
林屋辰三郎・川嶋将生・鎌田道隆編『京の道ー歴史と民衆』(創元社 1974)


「幻の聚楽第」本丸の石垣遺構

2012年10月05日 | 遺蹟

「幻の聚楽第」本丸の石垣遺構 初確認

聚楽第跡地から出土した本丸の石垣の一部(4日、京都市上京区で)=川崎公太撮影

 豊臣秀吉が16世紀後半に造営した城郭式の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」跡地(京都市上京区)で本丸の石垣の一部とみられる遺構が見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日発表した。完成からわずか8年で消えた「幻の聚楽第」の中心地で、本格的な遺構が確認されたのは初めて。

 京都府警宿舎の建て替えに伴い、本丸推定地の南端約1100平方メートルを調査。発掘された石垣は高さ約80センチが残り、40~50センチの石を2段に積み重ねていた。

 北側の1か所では施設跡とみられる柱穴(縦約1・5メートル、横約1・2メートル、深さ約50センチ)も確認。周辺では金箔(きんぱく)を施した瓦の破片3個が出土した。

 聚楽第は秀吉が養子・秀次(ひでつぐ)に関白職とともに譲り渡した邸宅。秀吉は嫡男・秀頼が生まれると、秀次に謀反の疑いをかけて自害させ、聚楽第を取り壊した。

 跡地一帯は住宅地で調査が難しく、詳しい実態はわかっていないが、これまでに北の丸の石垣の一部や大量の金箔瓦が出土。桃山時代の「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)には石垣に囲まれた天守などの本丸が描かれ、当時、日本にいた宣教師ルイス・フロイスは著書で大坂城より豪華だったと記している。

 現地説明会は7日午前10時~午後3時。問い合わせはセンター(075・933・3877、当日080・5321・8666)。

 鋤柄(すきがら)俊夫・同志社大教授(中世考古学)の話「見栄えも意識した立派な石垣で、秀吉時代の大坂城の石垣を彷彿(ほうふつ)とさせる。想像しかできなかった本丸の実態に迫る発見だ」

 ◆聚楽第 豊臣秀吉が1586年、平安宮跡の内裏近くに造営を始め、87年の完成後、大坂から移って政務を執ったが、秀次に譲った後、95年に破棄した。西本願寺・飛雲閣(国宝、京都市下京区)、大徳寺・唐門(同、同市北区)などは聚楽第から移築されたとの説がある。本丸は東西約200メートル、南北約330メートルと推定されている。


大津祭の本祭で、曳山(ひきやま)の重さ

2012年10月04日 | 歴史講座・フォーラム

大津祭の曳山、重い2基は? 連盟が初のクイズ

華麗な飾りや懸想品に彩られた大津祭の曳山。最も重いのはどれ?(昨年の曳山巡行)
華麗な飾りや懸想品に彩られた大津祭の曳山。最も重いのはどれ?(昨年の曳山巡行)

 10月7日に行われる大津祭の本祭で、曳山(ひきやま)の重さの上位2基を当てるクイズが初めて実施される。大津祭曳山連盟が昨年から2年がかりで取り組んでいる「曳山の重量測定プロジェクト」の締めくくりとして、見物客の前で実際に測定し、解答を応募してもらう。「観客参加型のイベントで、祭りがさらに盛り上がれば」と曳山連盟の関係者らは期待している。

 大津祭の曳山は江戸時代に作られたが、全13基とも、正確な重量は分からなかった。国の重要無形民俗文化財の指定を目指す機運が高まっていることもあり、正確な記録を取るために、昨年から測定を開始。大津発祥の計量機器メーカー「近江度量衡」(草津市)の協力を得て、11基を測定した。今年は6日の宵宮に、残る西王母山(せいおうぼざん)と郭巨山(かっきょやま)を測る。

 7日の本祭当日は、午後0時半ごろからJR大津駅前の中央大通りで、デモンストレーションとして猩々山(しょうじょうやま)の重量測定を実施。計量器を道路に設置して曳山を載せ、その場で重量を公表する。

 見物客は猩々山(しょうじょうやま)の重量をヒントにして、応募用紙に13基の中から重さの上位2基を予想して記入し、投票する。正解は10月末に大津祭ホームページで発表され、当選者には抽選で景品が贈られる。

 曳山連盟の吉田幸孝理事は「昨年の測定結果からみると、重量はタマ(車輪)の幅や素材に左右されるようだ。ぜひ測定の様子を実際に見て、クイズに挑戦してほしい」と話している。

【2012年10月04日 12時40分】http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121004000065


昨年の「まるごと佐和山城」は

2012年10月02日 | 戦国山城

今年は9月30日に「まるごと佐和山城2012」開催予定だったが台風17号で中止になってしまった。

 
○まるごと佐和山城址探訪  20111002
○まるごと佐和山 佐和山城は中世から南北近江の境目の城として、京極・六角両氏が抗争を繰り広げた重要な城。また豊臣秀吉を支えた五奉行の一人石田三成の居城としても有名です。...
 

主旨

佐和山城は中世から南北近江の境目の城として、京極・六角両氏が抗争を繰り広げた重要な城です。また豊臣秀吉を支えた五奉行の一人石田三成の居城としても有名です。しかしながら現在は、かつての姿を彷彿とさせるような遺構はほとんど見られず、わずかに残る石垣や土塁・空堀に往時の姿を想像する他ありません。そこで佐和山城に対する関心を高め、城跡見学のマナーを啓発することで、佐和山城跡の適切な保存活用につなげていくことを目的としてこの事業を実施します。

特に今年度は、伐採事業によってこれまで困難だった太鼓丸の見学が可能になりました。城内最大級の郭である太鼓丸この機会に是非ご見学ください。

鳥居本宿→内町→かもう坂往還→切り通し→本丸跡→太鼓丸→石垣→本丸跡→切り通し→かもう坂往還→内町→鳥居本宿

  • 全行程約6km
  • 所要時間約3時間30分

http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20120810_1.html

残念、後日の開催に期待しよう!

 

石田三成の実像語る 佐和山城研究会・田附代表京都新聞滋賀本社主催の講演会「湖灯塾」

石田三成の肖像画をスクリーンに映して話す田附さん(近江八幡市出町・湖灯ホール)
石田三成の肖像画をスクリーンに映して話す田附さん(近江八幡市出町・湖灯ホール)

 京都新聞滋賀本社主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が15日、近江八幡市出町の京都新聞湖東・湖北総局湖灯ホールで開かれた。滋賀県にゆかりの深い武将石田三成の実像を「佐和山城研究会」代表の田附清子(たづけすがこ)さん(50)が語り、大河ドラマや小説で悪人に描かれがちな三成のイメージに疑問を呈した。

 三成が領内に発布し、地域で現在まで大切に保管されてきた掟書(おきてがき)を紹介。年貢を代官が農民と一緒に決め、直訴も許していた点を挙げ、「農民の生活の安定をまず考えていた」と名君だった側面を紹介した。

 また、三成が失敗して「戦下手」と評される根拠になった「忍城(おしじょう)の水攻め」について、豊臣秀吉の水攻め指示に三成が当初反対していたとする説を紹介。「賤ケ岳の戦いでも一番槍(やり)の戦功を挙げている」とし、戦下手説を疑問視した。

 最後に、関ケ原の戦いで敗れた三成が逃走した滋賀県北部の足跡をスライド写真でたどり、「(三成の悪いイメージは)江戸時代の徳川家中心の史観で形成された。地域に残る三成の逸話、伝説の中に本当の歴史があるのでは」と結んだ。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120915000099