城郭探訪

yamaziro

田屋城   近江国(マキノ)

2015年10月19日 | 戦国山城

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」
第1回戦国時代の湖西~田屋(たや)城

第1回 戦国時代の湖西~田屋(たや)城

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)マキノ町森西  map:http://yahoo.jp/9Ypr7R

目標地:極楽寺

区 分:山城

標 高:310m  登城口~比高差:205m

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀切・竪堀・説明碑 

築城期:織豊期

築城者:饗庭命鶴丸が築城したと伝えられる。

城 主:応永年間に清原蓮廉が入り、応永年間に田屋淡路守が入った。

  この城は田屋氏の詰城であり、居館は現在の長法寺館

訪城日:2015.10.18

講義「戦国時代の湖西と浅井氏」講師 仲川靖氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)

見学ルート
縄張り図

 大處神社目標地:極楽寺

「森西の歴史とロマンの道 案内図」

お城の概要

田屋城は森西集落の西に聳える標高310.1mの山に築かれている。現在はよく歩かれた堀底道が南東虎口まで続いており、城跡は展望所などが設けられて整備されている。

田屋城は少し変わった山城で、ほぼ同じ高さで土塁囲みの曲輪が五つある。主郭はこの中で一段小高くなった北奥にあり、「奥ノ丸」と呼ばれている。土塁囲みで南北に長い長方形の曲輪であるが、南側に内桝形状の虎口を設けている。北背後は大堀切で、東側面の部分は連続竪堀になっている。さらに北尾根には食い違いになった竪堀が両サイドに落ちている。

主郭の南下は少し低い谷間でここに二郭がある。この曲輪も土塁囲みであるが、東の土塁は先の主郭の桝形へ繋がる土橋のようになっている。

二郭の南に東西二つの土塁囲みの曲輪が並んでおり、西曲輪の南端から南へ伸びる尾根には二条の堀切とそれに付随する竪堀によって遮断している。東曲輪とその北東にある曲輪との間が通路となっており、その入口に桝形状の虎口がある。この虎口は西側から竪堀と土塁で防御した横矢が掛かり、北の曲輪からも土塁越しに横矢が掛かるなどなかなか堅固で、側面には竪堀が設けられて山腹の移動を防いでいる。

  城主  田屋氏(田谷氏)  案内  

森西集落にある極楽寺と大處神社の間の道を西へ進んでいくと「森西の歴史とロマンの道 案内図」という看板が出ている(地図)。この辺りに一台程車を駐めることができ、その先にある動物除けの柵を入って行くと登山道がある。

大手「重枡形虎口」

現地探訪 松下浩氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)

口の丸口の丸の横矢に、現地案内板

歴 史<現地案内板より>

観応三年(1352年)頃、饗庭命鶴丸が築城したと伝えられるそうです。その後、応永年間に清原蓮廉が入り、応永年間に田屋淡路守が入ったとされるようです。

 この城は田屋氏の詰城であり、居館は現在の長法寺及びその北西周辺にあった沢村城とされます。

 永禄年間、田屋山城守吉頼は浅井氏と与して織田氏と争い、浅井氏の滅亡前後に落城したようです。ただ、遺構からして、その後も海津港の守り等で織田氏系の手で改修され使用されたと想像します。

築城年代は定かではないが田屋山城守吉頼によって築かれたと云われる。

田屋明政は浅井亮政の娘婿であったが、田屋氏の消息は天正3年(1575年)大處神社棟札銘の田屋淡路守重頼を最後に途絶えている。

饗庭を以って氏号とする流れは、清和源氏の嫡流の一にして、源頼光を祖とする摂津、美濃源氏の分れ、所謂土岐源氏に属する氏族である。 美濃国大野郡相羽、近江国高島郡饗庭を本貫の地とする流れがあらわれ、相羽は饗庭、饗場、相場などに通じ用いられた。 近江の饗庭(饗場)も光俊の子孫であるという。

 「興地志略」に近江の饗場氏は、源頼朝の近臣饗場三郎、美少年六千騎を集めた花一揆を率いた足利尊氏の側近饗場命鶴丸がこの地を領したことが比叡山延暦寺の旧記に記載されている。 以上のことなどから、鎌倉より室町に至る間、この地の領主の氏族であったことがうかがえる。 長享元年(1487年)常徳院(足利義尚将軍)江州動座着到に遠州饗庭太郎とあり、遠江国にも饗庭氏が存在していたことを知る。相羽という人が近代まで静岡県森町にいて、「今川義元の家老であったが桶狭間の戦いで敗れ、森町に逃げてきた」と口伝いにつたわっている。

又、饗庭命鶴丸は三河の人であるといい、近世、徳川幕府御家人に相場氏がある。 恐らく三河、或いは甲斐の饗庭氏より出て幕臣となったものと思われる。

 

マキノ【田屋】 見学会 2015.10.18

 近江国高島郡は、戦国時代、近江源氏佐々木氏の流れをくむ西佐々木一族が独自の勢力を誇っていました。そうした中にあって田屋氏は浅井氏の配下として、浅井氏の湖西進出に大きな役割を果たしました。田屋氏の居城田屋城はマキノ平野の西にそびえる標高310mの稲山丘陵に位置します。今も土塁や空堀が明瞭に観察できる湖西屈指の山城の一つです。

北の丸へ

大手重枡形虎口(北ノ丸の横矢から)

主郭(奥ノ城)へ

主郭の内枡形虎口の土塁上で解説

主郭~腰曲郭~捨て曲郭へ

主郭の高土塁の裏の大堀切(南北に竪堀)

登城記念に

北西の土橋を持った堀切

口の丸~大手重枡形虎口~下城

登城口で点呼解散・・・お疲れ様

参考資料:当日レジュメ、パンフレット【田屋城を歩く】・・・マキノ文化財保存資料館に設置

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

 

今回の講座では、田屋城跡を文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

1.日時 平成27年10月18日(日) 9:50~16:30

      JR湖西線マキノ駅集合・解散

2.場所 講義:マキノ公民館(高島市マキノ町蛭口260番地1)

現地見学:田屋城跡(高島市マキノ町森西)・田屋館跡(高島市マキノ町沢)

3.行程 JRマキノ駅→マキノ公民館(講義・昼食)・マキノ資料館(自由見学)→田屋館跡(長法寺)→田屋城跡→JRマキノ駅

 全行程約10km ※急峻な山登りあり

4.主催 滋賀県教育委員会

5.協力 高島市教育委員会

6.講師 講義「戦国時代の湖西と浅井氏」 仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課)

     現地探訪 松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)

7.定員 60名(事前申込制)

 

 

 


宮川陣屋(宮川氏館) 近江国(長浜)

2015年10月18日 | 陣屋

 

お城のデータ 

所在地:長浜市宮司町 maphttp://yahoo.jp/6VMuJJ

別 名:宮川氏館

区 分:陣屋

遺 構:城跡碑

築城期:江戸期・・・・・元禄11年(1698)

初城主:堀田正休

訪城日:2015.6.27、2015.10.17

お城の概要

日枝神社の前に宮川陣屋跡を示す石碑が建てられている現在は、陣屋跡の碑があるのみである(『名城をゆく(小学館)』)。
宮川陣屋は宮川氏館跡に建てられた。石碑の横には十一川が流れ、宮川氏の館が十一川を利用した形で建てられていたことが窺える。
 なお、一帯は蔵などの古い家並みが残る。

番場堀

お城の歴史

 宮川陣屋は元禄11年(1698)堀田正休が宮川藩の政庁として設けたもので、長浜平野を南北に走る加田街道と東西に走る長浜街道の交差する交通の要所に位置している。元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。

  宮川藩は寛延元年(1748)には3000石を加増され、その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。(『名城をゆく(小学館)』)。

城主と見られる宮川氏は、『総持寺文書』中の永享5年(1433)屋敷寄進状に宮河光道等の名が見られるのが初見である。更に、総持寺の文書は、同氏が山門領坂田荘の下司・公公であったことも語ってくれる。

 

その城地として伝えるところはないが、宮司町(宮司は、明治7年宮川と下司が合併して成立)小字古殿が最もふさわしいだろう。この字内には、垣見氏館も含まれるが、元禄11年(1698)堀田正休が宮川藩の政庁として設けた宮川陣屋の跡地も存在する。

 

 この陣屋は宮川氏が田中吉政に従い筑後柳川へ転出した屋敷跡を利用して設けられたと考えることもできるでしょう。

当時の南東端で南川が十一川に合流し、南西端で十一側が分かれており、長浜平野を南北に走る加田街道と東西に走る長浜街道の交差する交通の要所に位置しているが、明治期の地籍図によれば、この二つの道は同字の東端を南北に重複していた事がわかり、宮司町内の元宮川村に属する当字には垣見氏屋敷が知られている。

東隣には元宮川山王と称した楞厳院荘の総社日枝神社があり、地名を姓にもつ宮川氏の屋敷が有ったものと思われる。

 宮川氏には永享5年総持寺文書の宮川光道や同11年長浜八幡宮塔供養の宮川又次郎らがいて、上坂に分家した宮川源六は上坂内蔵介に仕えている。

また、古殿の東半分は近世宮川藩の陣屋であったところで、十一川を隔てて満立寺がある。


元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。

宮川藩は寛延元年(1748)には3000石を加増され、その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。現在は、陣屋跡の碑があるのみである(『名城をゆく(小学館)』)。 明治4年の廃藩置県により宮川藩は廃された。なお、同町小字古殿内には垣見氏屋敷があったとされている。

 宮川藩は元禄11年(1698年)に堀田正休が、上野吉井から近江国甲賀、坂田、蒲生、愛知4郡内に領地を移され、坂田郡宮川に陣屋を構えて成立した藩である。
 宮川藩堀田氏は堀田の宗家にあたり、先々代正盛は家光の寵臣として下総佐倉11万石にまで登りつめたが家光に殉死し、二代正信は無断帰国をして除封された。
正信は狂疾とされ、堀田家は正盛の忠義によって家名存続が認められ、正休に上野国吉井でで1万石が与えられ、さらに宮川に移された。
三代正陳は、延享2年(1745年)7月に若年寄、寛延元年(1748年)10月に西の丸若年寄となって近江国野洲郡、滋賀郡内で3千石を加増された。
最後の藩主正養は出羽亀田藩主岩城隆喜の子で堀田家に養子に入り、戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

            本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


宇賀野・長野家 近江国(近江)

2015年10月18日 | 平城

お城のデータ

住所:米原市(旧:坂田郡近江町)宇賀野 map:http://yahoo.jp/QznBDo

区 分:平城

現 状:宅地

遺 構:碑・(説明板)

築城期:室町期

築城者:長野家

目標地:宇賀野会館

駐車場:宇賀野会館

訪問日:2015.10.3

お城の概要

宇賀野氏館は北陸本線沿いの宇賀野会館一帯にあったとされます。会館の西側の路地を北に進むと長野家がありました。(数年前に取り壊されようです)

さらに長野家から北西へ600mほどのところに山内一豊の母である法秀院の墓がある。

  

取り壊された長野家

お城の歴史

長野家は在原業平の後裔とされ、御所や公卿に関連する職務を行っており、武家が干渉することもないとの配慮からであるという。

長野家は、永禄二年(1559年)に岩倉織田家が織田信長に攻められ落城し、岩倉織田家の家老であった山内盛豊も討死したため、幼い山内一豊と母は流浪し、知人の紹介で永禄三年(1560年)に宇賀野長野家に匿われました。法秀院は、この後、死ぬまで宇賀野に住したと伝えられます。

 天正13年(1585年)閏8月21日、秀吉は、山内一豊に湖北において2万石を与え、長浜の城主とした。秀吉、柴田勝豊についで3代目の長浜城主である。この後、5年間領国政治を行う。
 この長浜城主時代に、一豊と見性院の夫婦に悲劇が襲う。天正13年11月29日、長浜を大地震が襲い、二人の子供である与祢姫が、御殿の棟木が落下した下敷きとなり、乳母とともに息絶えてしまった。この年6歳であった。
 一方、地震から数年後、見性院は城下で男子の捨て子を拾い、養育した。後に、山内家の菩提寺である妙心寺大通院の湘南和尚となる

坂田駅前

宇賀野と法秀院

 戦乱が果てしなく続く尾張の岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559年)に落城、岩倉城の家老であった一豊の父盛豊は城と運命を共にし、一豊と母や弟妹は夜陰の中、城から脱出、家臣や縁故親戚にもかくまわれていたが、信長の詮索が厳しく、逃避、流浪の上、知人の紹介で永禄3年(1560年)宇賀野の長野家に落ち着かれた。
 一豊の母は、夫盛豊が戦死したのち出家し法秀院と称したが、資料が乏しく実名等は定かでない。
 法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていました。

 一説によると、この習子の中に、後に一豊の妻となった千代がいました。利発な彼女を見初めた法秀尼は、息子の嫁に推されたと伝えられています。悲運を背負い苦労の中にも地域の人達の温情に守られ、二十数年の歳月が経ち、念願であった息子一豊が長浜城主に栄達の朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来ましたが、謙虚な人で老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また長年住み慣れ恩義を受けた宇賀野を去り難く、再三の迎えにも応じず、その翌年天正14年(1586年)7月17日、病にてこの世を去りました。

戦乱の中の遍歴

 一豊は、天文14年(1545年)7月、丹馬守盛豊の三男として尾張国で生まれました。このとき、信長12歳、秀吉10歳、家康3歳という関係になります。一豊は、幼名を「辰之助」と言い、長じて「伊右衛門」と名乗りました。
 多くの戦国武将がたどったように、尾張国岩倉・苅安賀・美濃国松倉・牧村と遍歴し、永禄3年(1560年)には、近江国勢多城主の山岡景隆の近習に仕えたといわれています。
 一豊母子が、近江国宇賀野の長野家に身を寄せていたのは、山岡景隆に仕えていたとされ、一豊は少年期から青年期にかけて、宇賀野に居住したことになります。また、一豊の母は、この地で死亡したとされ、宇賀野墓戸に墓所があり、長野家に「法秀院縁月妙因大姉」と記された軸が残されています。現在の長野家には、一豊に縁のある品として、鏡、くつわ、桝などと共に、貴重な文献資料(「長野家文書」)が残されています。
「長野家文書」には、土佐の山内家が、一豊の母「法秀院」の墓を発見するに至る経緯が記されおり、山内一豊の研究上、極めて貴重な資料とされています。(現在、長浜歴史博物館に保管されています。)
一豊は、やがて「内助の功」の誉れ高い「千代」をめとりますが、少年期を母と共に、この地で過ごし終えたことは、大きな転機となったと思えます。なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています。

 参考資料:現地説明板・ウィキペディア

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

坂の頭関所 近江国(永源寺・相谷)

2015年10月17日 | 関所

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷 map:http://yahoo.jp/BhtW11

現 状:山林・山麓 

区 分:山麓館(関所)

遺 構:土塁・郭・石列

築城期:室町期

築城者:小倉?小辰氏?

標 高:250m 比高差:10m

目標地:相谷バス停(標高:248m)・寶珠禅寺(標高:238m)

駐車場:相谷バス停・ゲットボール場駐車場

訪城日:2015.10.15

相谷バス停・ゲットボール場駐車場

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城した

 山に入る直ぐに石仏(集められた石仏)

山麓館跡(相谷関屋(関所)の館か?)

お城の概要

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城するとすぐ東へ、10mも進むと国道421号との間の土塁が。

旧八風街道から、比高15mに位置し、国道421号で分断された、土塁で囲まれた曲郭が、

八風街道の警護をしていたか。小辰氏?小倉氏?

西側の土塁東側の土塁と曲郭南側石列

歴 史

相谷の「小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。

 

<八風峠>
 国道421号が八風街道と呼べるのは、この八風谷橋を渡った所までであろうか。
 
 以前は八風峠への分岐の角に、永源寺町教育委員会による「八風峠」と題した立札が立っていた(写真)。
八風の名は古く、伊勢風土記逸文、神武天皇東征神話に早くも八風の文字がある。」と始まる説明文は、最後に「戦国時代を全盛とした峠道も、信長は安土城下に楽市を開いて山越商人を禁止、江戸幕府の関所徹底取締令などで八風越えは殆んど消滅したことは、慶安三年(1650)の黄和田文書が示しており、今も荒廃のままである。」と結んでいた。
上の画像をクリックすると拡大されます。
八風峠の看板・・・・ (撮影 1992.10.21)(画像は不鮮明です)

城山・谷筋側の谷筋に石列だ!

 砂防ダム

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 、神崎郡志、遺跡ウォーカー:滋賀県の遺跡

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


土田遺跡(つちだいせき) 近江・(多賀)

2015年10月17日 | 遺蹟

所在地:多賀町大字多賀・土田

時 代:縄文時代晩期中葉~末、弥生後期、古墳時代前期,、墳時代後期、鎌倉時代

主要遺構:墓跡(縄文時代晩期中葉~末),集落跡(古墳時代後期)

見学日:2015.9.27

概要

1998年に町教委の実施した発掘調査によって縄文時代晩期の墓跡が発見された。墓には土器を棺材として用いる土器棺墓や木棺墓、土坑墓が混在した状況で検出された。
 土器棺墓は2個体の土器の口を合わせて埋めたものや、土器の口に別個体の土器を割って蓋にしたものなどがある。土器棺に使用された土器は篠原式~長原式にあてはまる。
 遺構面や土坑の中から磨石類・石鏃・剥片・石斧・石剣、土偶などが出土した。

概要:

1.『県営広域営農団地農道整備事業に伴う発掘調査報告書 木曽遺跡・土田遺跡・月ノ木遺跡』2002 滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会 
2.「土田遺跡-第4次調査・第5次調査-」『多賀町埋蔵文化財発掘調査報告書第14集』2004 多賀町教育委員会

多賀そばの花が、満開でした!

参考資料:多賀町埋蔵文化財発掘調査報告書 、丸山竜平先生の現地説明

         本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!   


土田館  近江国(多賀)

2015年10月17日 | 平城

土田公民館横

 

専光寺

 

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町土田 map:http://yahoo.jp/gl05x3

現 状:集落・田畑

遺 構:曲輪

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:土田縫殿助

城 主:土田縫殿助

目標地:土田公民館・正福寺

駐車場:正福寺無料駐車城

訪城日:2015.9.27

 お城の概要

 土田館は、芹川南岸の土田集落の北方の一画にあったとされる。

 周辺は田園が広がるが、北側から集落を眺めると宅地は見事に微高地なのが判る。

集落北側の微高地は円形に張り出し、北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残る。また集落内の路地は「くい違い」「どんつき」の城館特有の通路が雰囲気を留めている。

また、200m北は芹川、集落内は堀川(現在は用水路)、集落全体が微高地の【土塁と曲郭】城館、中央付近の食い違い路、往時が名残りが読みがえる。

堀川のはしの

集落中央付近の食い違い道路

 

集落の北部・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存

 歴 史

  「大洞弁天当国古城主名札」に、土田縫殿助の名がみえる

土田氏は近江国の出身で、

 宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木六角氏の旗本を務め、土田氏(近江佐々木氏庶流建部氏)は代々「近江守」を称していた。

  4代目の近江守秀定の頃、文明年間(1469年~1486年)に近江国蒲生郡より東美濃木曽川河畔の土田村に移り住んだ。渡り田の大井戸渡しを支配して土田村や下畑や川原田を拓き、開墾領主として当地の土豪へと生長した。

  近江佐々木義詮の末裔が、この地来て明智氏に属して土田に築城し土田と名乗ったのが始まりである。弘治2年(1556年)3代城主土田源太夫の時に明智城が斎藤義龍の命を受けた関城主長井道利に攻められ落城時討死し土田氏の直系は絶えてしまった。

  2代城主泰久の2男勘助は母方の尾張丹羽郡小折城主生駒家広に嫡子がなかったので養子となっていたが、親重と改名し土田・小折城を領した。生駒親重は初め犬山城主織田信清に属していたが信長と信清が手切となり犬山城は落城し親重は土田城で謹慎し後信長に仕えた。4

  親重の嫡男親正は信長・秀吉に仕え、戦功を重ね天正13年赤穂6万石の大名となり15年には17万石を拝領し四国丸亀目城主となり土田城は廃城となった

 美濃・土田城は、標高181mの城山にある規模270m×100mの城。この城はあの織田信長の母、土田御前の出生地である。

中世の武士団、東山道近江

 三河伴氏の富永兼網を女婿とし、その子吉弘が頼弘の後 ... 馬杉-中井の諸氏となっており、さらに、頼男の子孫は、代々もと伴氏の庶流ないしは伴部の裔であって、善男との関係は後世の付会に過ぎないであろう。 ... 遺胤が、三河伴氏となったという伝承については前述したつた生駒親正の父親重は、右の土田氏から出て、生駒氏を継いだのである。 ... 光基の弟澄覚のの子光助は建部大夫に復し、承久の乱で京方に属したため誅殺された

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

           本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!   


相谷城山城(鶴尾山城)  近江国(永源寺)

2015年10月15日 | 戦国山城

永源寺ダムの西に位置し”城山”の”西側の、”鶴尾山・山腹”に『相谷山城』は現存する

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷 map:http://yahoo.jp/e84GeM

別 名:旧坂の頭城・鶴尾山城/小倉氏城

現 状:山林.山腹 

区 分:山城・山麓館関所

遺 構:掻揚げ土塁・郭・掻揚げ城道・物見櫓台・武者隠し

築城期:織豊期

築城者:小倉左近将監良親

標 高:438m 比高差:190m

目標地:相谷バス停(標高:248m)・寶珠禅寺(標高:238m)

駐車場:相谷バス停・ゲットボール場駐車場

訪城日:2015.10.15

相谷バス停・ゲットボール場駐車場

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城した

山に入る直ぐに石仏

集められた石仏

山麓館跡(相谷関屋(関所)の館か)

相谷の「小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。

西側の土塁東側の土塁と曲郭南側石列

城山・谷筋側の谷筋に石列だ!

 砂防ダム

砂防ダムの西隅から、尾根筋まで直登(斜度60℃南へ北へと)した。

お城の概要

永源寺ダムの西に位置し”城山”の”西側山の山腹に『相谷城山城』は現存する

国道421号線の相谷バス停(標高248m)の東側から、山に入った直ぐに石仏が集められいる。

山麓館跡が、西側土塁を伴う『関所の館』か・・・そのまま山道進むと巨石の石列20m(谷川沿いに) 、石を配置した庭園を伴う。砂防ダムまで進み、砂防ダムの西隅から、尾根筋まで直登(斜度60℃南へ北へと)した。

北尾根に出るとすぐ、東向きに”武者隠し”(出丸か)、西側は切り岸80℃位、南に進むと主郭へ。

主郭は、掻揚げ土塁・土取り跡も、そのままに山城というより詰め城・砦。

鶴翼の構えで、旧八風街道の抑えか。九居瀬城の出城の役割を担っていた。

尾根に出るとすぐ、東向きに”武者隠し”、西側は切り岸80℃位!

山腹の頂部(438m)

相谷城山城 ( あいたにしろやまじょう)・・・鶴翼の構えで

主郭頂部(登城記念にmy pole)テレビアンテナが、撤去されていた。掻揚げ土塁掻揚げ土塁主郭頂部から、西側・・・曲郭・低土塁が続く

西へ”城道”があった!・・・この道を下城したが”九十九曲り急勾配”であった

城道に倒木が井戸跡城道を振り返る目印水道タンクの裏から、城道

歴 史

小倉城は承暦年代(1077~1080)に清和源氏の後裔小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いたものである。

 清和源氏の後裔である小倉氏は、南北朝期から室町期にかけて愛知川流域を支配したが、室町中期に3~4家に分家し、愛知川小椋庄を支配した小倉東家は高野城ならびに小倉城を居城とした。また、神埼郡御園庄(山上郡)を支配した小倉西家は山上城を本拠とした。

 小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城と考えられている。
 その他小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、九居瀬城、八尾山城等がある。

 『近江神崎郡志』大橋金造編、上巻・下巻には、相谷の小字鶴ケ岨(今は上村と言う)にあり、三ケ所に分れ、中央なるは東西10間・南北6間、東には東西10間・南北6間、東なるは7間・南北4間その周囲は頗る広い。小倉三河守良秀の子、左近将監良親が元亀の頃に築城したと云う。小倉三河守良秀の子、左近将監良親が元亀の頃に築城したと云う。

「淡海温古録」高野の条には、「羽柴武蔵守ト名付此高野ニ居館ヲ営ム、小倉三河守良秀、同左近大夫良ヲ後見トシ・・・」と記す。

高野の「上田家系図」(愛知郡志にも)には、「小倉実澄の四男、実高の弟として左近大夫賢治、神崎郡山上邑領主、同郡相谷村露尾山ニ小城構フ・・・」と記す。

相谷の「小辰家文書」には「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…略…出城ハ相谷、長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立、其処ニ木造ヲ立チ・・・・」と記す。

「今掘日吉神社文書」75の「四本衆より、いか五連到来候祝着旨得其心…云々 良秀 花押」や、永禄3年の同文書143の「是も相谷関屋云々」などから、永禄初頭小倉三河守良秀の在城が確認できる。

小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。

この看板を左へ…城道

国道421号線へ

空き家もようだが(駐車可?)相谷城山城(遠景)

城道へは此処からが、お勧め、目標地”丸和油脂滋賀工場”西側

国道421号から城道丸和油脂滋賀工場相谷城山城(遠景)

旧八風街道(永源寺ダムで此処で10m上にバイパス国道421号線)

[++ 相谷 ++] (あいだに)  旧神崎郡永源寺村:山上村に属した村

 以前は八風街道が中心を通っていたが永源寺ダム建設により、現在は松尾谷方面、永源寺ダムの奥手まで北側に続く川岸道路がある。街道は明治25年に八日市-山上間が明治28年に山上-相谷間、明治40~43年に相谷-佐目間が改修された。
  愛知川に沿った相谷隧道を過ぎると道路幅は徐々に狭くなる。この辺りもバイパス工事中、永源寺バス車庫手前より山間部をショートカットし、愛知川を横断して現行の対岸を走るルートはある。 現在、付近には食堂や民宿が目立っている。

 氏神の寺は宝珠寺。当時は相谷では農業用水は佐目子谷より引いていた。

旧八風街道

淵龍山 寶珠禅寺の茅葺の本堂

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 淡海の城、神崎郡志、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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西円寺館 近江国(米原・西円寺)

2015年10月14日 | 居館

集落の入口(八幡神社横)に城址碑

西円寺山門本堂

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)西円寺 map:http://yahoo.jp/T9xj4c

区 分:居館  

標 高:120m  比高差:10m 

現 状:寺・山林

遺 構:郭・土塁・城主墓・城址碑・類似説明板

築城期:戦国期

築城者:今井氏

目標地:西円寺 

駐車場:西円寺参拝者駐車場

訪城日:2015.10.12

 西円寺山門本堂

境内には、

創建当時に植えられたと伝わる『木斛樹』、樹齢600年。

龍目井

お城の概要

西円寺館は馬蹄型に山がめくられ、北に開かれた地形。西円寺の本堂の南側は(近江稲荷)土塁と認められるところ

西円寺の山門は奇抜な山門でした。説明板によれば、窟門(竜宮門)と呼ばれる中国形式の門で双龍門(閣)と呼んでいるそうです。寺の南側は尾根の先端がY字に分かれて平地に下りてきている斜面という感じですが、土塁にも見えます。この中腹に、ここを支配した今井氏の墓所があります。

本堂裏に

 

玉泉庭

近江稲荷近江稲荷土塁

西円寺全景(今井一族の墓地)

 

西円寺山門の向かいの山上へ・・・西円寺館の詰め城か?

今井氏墓所中央の小さな墓碑と大きい五輪塔

 向かいにも、墓碑(歴代住職墓か)

山上にも墓碑が一基
境内の南西に張り出した舌状尾根に今井権六三代の墓が残されている。

今井権六三代の墓の刻印は風雨にさらされ、文字はほとんど判読出来ないが、大きい五輪塔は「天正十二年***」と明確に読みとれ、こちらが14代目今井権六秀俊であることは間違いない。ちなみに今井権六三代とは、14代当主が今井権六秀俊(権六尺夜叉),15代当主が今井権六定清(権六備中守),16代当主が今井権六秀形(権六丸)であったことから名付けられている。

歴 史

 京極氏の根本被官(筆頭家老)今井氏の菩提寺であり、境内から100mほどの距離にある今井権六三代の墓には、三代の墓と云われながら、一石五輪塔が2基しかない。あと1基は不明とのこと。
また、境内の墓所に年代の古い宝篋印塔が1基あり、これがそうかもしれないが土に埋もれており、確認は出来ていないとのこと。

京極氏、浅井氏に従った箕浦城を本拠とする今井氏の館とされます。

西円寺の一帯は、京極氏根本被官であった「今井氏の奥城で菩提寺」でもある

 今井氏14代今井権六秀俊は享禄元年(1528)の内保河原の戦いで六角方が敗れたため、浅井方に従ったが天文2年(1533)に浅井亮政に進退を疑われ神照寺で切腹させられた。15代今井権六備中守定清は浅井方に属し、永禄4年(1561)太尾山城の夜襲で敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて討死し、また、子の今井権六丸(秀形)は秀吉に従っていたが天正11年(1583)に伊勢にて討死し同じくここに葬られたとあります。 <現地案内板より>

坂田郡では、旧近江町寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とも・・・安土)城郭研究所HPより

竪堀風斜面竪堀風斜面 

平削地山上にも墓碑が一基

頂部へ

竪堀か?土塁

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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旗本西郷氏邸  近江国(山東・梓)  

2015年10月14日 | 居館

旗本西郷氏邸碑

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡)梓河内 map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :居 館

築城期:江戸期

築城者:西郷氏

遺 構 :郭址・土塁・石碑

訪城日:2015.10.12

第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)引用

江戸後期 旗本西郷氏領 梓河内村」 手前側に 「右中山道]、裏側に 「左 旧中山道」を示している。

旧中仙道はぬかるんでいるが少し山に入ってすぐに右に進む旧道を進む。東山道の雰囲

旧中山道旗本西郷氏邸跡

小黒谷遺跡碑

山裾の途中にある「館跡 小黒谷遺跡」。

 梓地区は山間部の狭い範囲であり、有力者が駅(宿)を運営していた。

小川の関・菖蒲池

詳細不明坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 (米原市・米原観光協)

菖蒲池跡

君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光

  「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」    享保十九年(1734)『近江與地志略』

 その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と  『中山道宿村大概帳』  江戸後期には消滅したようである。

  『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、現地案内板、 第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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小川(こかわ)の関 近江国(山東・柏原)

2015年10月14日 | 関所

下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ
このあたりに東山道の関所があったところという

案内板

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)柏原町小川  map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :関所

築城者:不 明

築城期:鎌倉期

関 守:稚淳毛両岐王

遺 構 :石碑・館跡、寺院跡

訪城日:2015.10.12

第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)引用

昔は、天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが、江戸末期には消滅してしまったらしい。

小川の関・菖蒲池

詳細不明坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 (米原市・米原観光協)

菖蒲池跡

君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光

  「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」     享保十九年(1734)『近江與地志略』

  その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』 江戸後期には消滅したようである。昔は,天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが,江戸末期には消滅してしまったらしい。

お城の概要

 旧中山道沿いに石碑と案内板があり、そこから民家を横切って藪中へ入ると、発掘調査により検出された館と寺院の跡があります。少し先で舗装された中山道に合流する。
 下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ。
約八百年前、自然の地形を利用した中世の東山道(鎌倉街道)、このあたりに東山道の関所があったところという。
このため今まで、街道の議論がされてきたが、具体的に示されたものはなかった。その隣には、「菖蒲ヶ池跡」の石碑が建つ。江戸後期には消滅したようである。

右手の旧道(右)に入りますが、分岐する所に小川の関碑や歴史街道の道標、菖蒲池跡碑等、もろもろが置かれています。
中世に関があったこの地、今は長沢になっていますが、古くは小川(こかわ)、古川、粉川とも言われたようです。

小川の関から西に300mほど行くと、梓ノ関があります。小川の関が、関所と呼ぶには開けた場所にあるのに対して、梓は南北に山が迫る峻険な地形にあるため、実際の関は梓に設けられ、小川には横河の宿駅と役宅が置かれていたのではないかとも思われます。

小黒谷館跡の石碑

寺院跡の石碑

伝・横川の宿駅跡

 中山道伝・横川の駅家跡

梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。

推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)

古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。

近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。

米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。

古代近江の交通路 中山道

歴 史

 『坂田郡志』に記されている「関屋」の比定地である。発掘調査により、館や寺院の跡が検出されている。 詳細は不明であるが、この小川を壬申の乱の舞台の一つ「横河」の転訛であるとする説がある。また、同じく律令時代の東山道横河駅を小川に比定する説もある。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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梓ノ関(あずさ)/石田館 近江国(山東)

2015年10月13日 | 関所

 中仙道碑(左)が、右は江戸後期大和郡山領、柏原宿・左は東山道横河駅跡、梓とあります。
大和郡山の飛び領だったんですね。金魚すくい大会や桜見物に行った大和郡山市、柳沢吉保が治めたこともあるという。
向かいには、黒谷遺跡とか中仙道道標。

旧道と新道が合流するとまもなくこの地蔵堂がある。

中仙道(東山道)沿いのお堂の中にも、ぎっしりと道祖神が詰まっています。
国道21号線と名神高速と並行する旧道沿いの梓は、古くは東山道の横河駅があった集落。

お城のデータ

所在地:米原市梓河内 (旧坂田郡山東町大字梓河内) map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :関所

築城期:江戸期

築城者:不 明

関 守:石田氏

遺 構 :土塁・石碑

訪城日:2015.10.12

中山道沿いの土塁

お城の概要

大字梓にあるためこの名が付けられたものと思われるが、壬申の乱の舞台となった”息長横河”の地は、米原町丹生川附近と伝う。文献等に明確に登場するものはない。 ただ、明らかな土塁遺構が見られることや、梓川の上流に石田館の比定地がある。

関守石田氏の館跡(http://yahoo.jp/GHU7OZ)がある。

大字梓は中山道と東山道合流地点で、中山道を挟む格好で土塁が築かれているが、その構造や規模から古代のみならず戦国時代にも使用されていた。

 中山道

推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)

梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる。                                        「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。

古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。

近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。

米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。

古代近江の交通路 中山道

歴 史

梓ノ関のある梓地区は、南北を峻険な山に挟まれ、北側を天野川の支流が流れる東山道の急所といえます。

現在、規模としては大きい土塁の遺構を中仙道の沿いに認めることができます。その規模や形状から、上平寺や柏原に勢力を保っていた京極氏によって、戦国時代に入っても監視目的に利用されていた。

 石田一族ゆかりの京都妙心寺寿聖院に伝わる過去帳によれば、源平合戦の時に木曽義仲を討ち取った石田為久が京極氏に被官し、河内の山上にある猪鼻城を預かり、その子孫が城の守備にあたっていたといいます。

 又、梓には京極氏が関を設けて関銭を徴収していたが、関の管理にも石田一族が関与していたと言われているのです

  その子孫で三成の父正継の曽祖父が室町時代に石田村へ転出したというのだ。 三成の先祖の地も諸説あるようですが、ここ河内が一番有望なようです。

梓ノ関から東に300mほど行くと、小川ノ関の比定地があります。こちらは発掘により、いくつかの建造物の痕跡が見つかっています。ただ、小川ノ関のほうは梓に比べて要害性に乏しいことから、こちらの方は律令時代の横河駅が置かれていたか、あるいは封鎖線が梓で官庁が小川と分けられていた。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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西山城(城山城) 近江国(山東)

2015年10月13日 | 平山城

山上『城山城址』碑

西山城(城山城) 西山 

お城のデータ

別 称:城山城、源氏山遺構

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)西山 maphttp://yahoo.jp/4ZDciX

区 分:平山城 

標 高:221m 比高差:70m 

現 状:山林・宅地・山頂(城山城) 

築城期:室町期

築城者:大原氏

遺 構:土塁・廓、城址碑 、堀(現用水路)

目標地:源氏山・長恩寺・八幡神社、西山会館

駐車場:西山会館の駐車場に

訪城日:2015.10.12

 米原市(旧山東町)西山八幡神社。

小さな神社ですが石段の両脇に杉の大木が17本並んで、樹齢400年超、幹回り5m超。豊臣秀吉が長浜城主の頃から武神であったこの八幡神社を崇敬していて、後大阪城に­移り安産祈願して居たところ無事秀頼が誕生したお礼にと薩摩より杉の苗木を取り寄せて­植えたと伝えられています。

八幡神社より登山道が整備

頂部の『城山城址』・・公園化され『城石碑』のみ・・・物見櫓址か、

10m×10m平削地に「源氏山ふれあいの里」の吾妻家が立つ。

山頂(城山城址)からは北国脇往還道・東山道共に江濃境目を見張ることが出来る。

お城の概要

西山集落は、城山城(西山城)の城下町か、

源氏山の山麓にある八幡神社に秀吉が植えさせたという杉並木は見事である。

西山城は別称源氏山と呼ばれ、佐々木信綱により息子重綱に分与された大原荘の最南端に位置する

山頂(城山城址)からは北国脇往還道・東山道共に江濃境目を見張ることが出来、南東中腹には20m×10mの舌状郭(源氏山公園)が付加されている。舌状郭の南面には竪堀状の遺構が見られる。

登山道の整備工事を行っている最中で、山肌の殆どが切削・加工工事されてしまい往時の遺構は殆ど残っていない。

宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。源氏山と呼ばれる由来は、佐々木源氏(佐々木信綱により息子重綱大原)

 

集落内は、

 

 

 

歴 史

 大原氏は、宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。

佐々木信綱の庶長子大原重綱を祖とする。近江国坂田郡大原庄より発祥。 

  鎌倉時代には佐々木宗家を継承した弟の佐々木(六角)泰綱と領地争いをした記録が残る

佐々木氏の長男系という血筋の良さから格式は高く、室町時代には足利将軍の奉公衆になっている。 

 戦国時代の大原政重を最後に血統が絶え、同じ佐々木一族の近江守護六角氏から迎えた養子高保が将軍足利義晴・義輝父子に仕えた。さらに六角氏から養子が入った賢永(高賢)が慶長6年(1601年)に死ぬと大原氏は断絶した

 西山会館の駐車場に

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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近江国 出身武将

2015年10月10日 | 武将

近江国(滋賀県)

  

近江出身武将
大谷吉継:旧余呉町 藤堂高虎:甲良町 六角氏
宮部継潤:旧虎姫町 小川祐忠:旧能登川町 京極氏
浅井長政:旧湖北町 蒲生氏郷:日野町 尼子氏
脇坂安治:旧湖北町 長束正家:草津市 滝川氏
片桐且元:旧湖北町 中村一氏:甲賀市 黒田氏
海北綱親:旧浅井町 朽木元綱:高島市 井伊直弼:彦根市
石田三成:長浜市 田中吉政:高島市  
小堀遠州:長浜市 見性院(山内一豊妻):旧近江町
 

磯城  近江国(米原)

2015年10月08日 | 居館

お城のデータ

所在地:米原市磯  map:http://yahoo.jp/BoYl59

区 分:居館

現状:畑地、宅地、県道

築城期:室町期

築城者:磯崎氏

遺 構:堀痕(水路)、石垣・石材

 高:90m  比高差:0m 

目標地:磯崎神社 

駐車場:磯崎神社 

訪城日:2015.10.4

県道2号線のバイパスの南側の畑地が残る。

石材石垣微高地

県道2号線のバイパスの北側は集落・畑地。

社か?石仏か?

お城の概要

磯山城・磯碕神社の北、県道2号線のバイパスで分断された比定地。

磯村に「小字大小屋」地名が残る。明治期に地籍図には微高地と思われる畑地が描かれいる。

 現状は、県道2号線のバイパスの南側の畑地が残る、北側は集落・畑地。

米原市磯2484

磯崎神社

 伊吹の荒ぶる神の毒気に当たった日本武尊が、醒井の居醒の清水で正気を取り戻し、都へ帰る途中に千々の松原にて崩御され、ここ磯山に葬られたと伝えられています。

 崩御された日本武尊は白鳥になって飛び立ったとも伝わっています。 日本武尊を厚く守護神として祭るため、この神社が建立されました。毎年5月3日の例祭では「磯武者行列」がおこなわれ、日本武尊にあやかって男児は武者姿、女児は稚児姿で巡行します。

歴 史

『江州佐々木南北諸士帳』に 「坂田郡 磯 宮士 磯崎金七」 とあり

『淡海木簡攫』には、「往古磯崎金七ト云武士住居ス、邸宅跡猶在ス、後裔伊賀国上野ノ家士ノアリト云」

信長公記 三巻 志賀の陣  志賀御陣の事

信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷(現滋賀県米原町)へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

『近江百人一首』に、和歌の全文は「さざれなみ 磯越路(いそこしぢ)なる 能登瀬川(のとせがは) 音のさやけさ たぎつ瀬(そ)ごとに」で、歌の意味は「さざ波が磯を越すといふ、その越すではないが、越(こし)の国へ通う路にある能登瀬川の音のさやかなことよ、はげしく流れる川の瀬ごとに。」であると記されています。また同資料には、作者は「波多小足」で、略歴は「万葉集第三期の歌人。続日本紀に見える足人・広足・百足らと同族かという説があり、また武内宿禰の子孫かという説もある。万葉集にはこの一首のみが載っている。」とあります。収録されている歌集は「万葉集 巻第三」と記されています。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『江州佐々木南北諸氏帳』『淡海国木間攫』『信長公記』ウィキペディア

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淀城の内高嶋の城

2015年10月08日 | 平城

淀城の川べり石垣を初確認 90m、内高嶋の城壁か

京都新聞2015.10.8

桂川べりで見つかった淀城「内高嶋」の城壁に使ったとみられる石垣。約90メートルにわたって確認された(京都市伏見区淀)

 江戸時代に現在の京都市伏見区淀に築城された「淀城」の曲輪(くるわ)「内高嶋(うちたかしま)」の遺構とみられる石垣約90メートルが、桂川べりで7日までに見つかった。川に面した城壁に淀城のシンボルの大きな「水車」を擁した石垣で、城内にあった「池」の跡も古い絵図通りに確認された。水に浮かぶ優雅な城として名高い淀城で川べりの石垣が確認されるのは初めてで、城の全体像を明らかにする新史料として注目される。

■台風11号で露出、調査

 同区淀下津町の桂川河畔で見つかった。台風11号の影響で石垣が露出したのが調査のきっかけとなった。調査した京都市によると、川に面した淀城の状況を表す絵図が示すように、川べりに城の南西部の曲輪「内高嶋」とみられる石垣が約90メートルにわたって積まれていた。度重なる洪水のためか修復の跡も見られた。石は使いやすく加工され、石質から宇治方面から運んだと考えられる。

 さらに内高嶋の曲輪内に、淀城の古い絵図で描かれていた逆L字型の池と似た池の跡が出てきた。絵図と照合すると、淀城に2カ所あったうちの西部分の「水車」は調査地のすぐ上流にあったことが推定でき、場所がほぼ確定できた。池の用途は分からないが、水車でくみ上げた水をためたとも推察できる。

 京都産業大の鈴木久男教授(考古学)は「河川敷でありながら石垣がよく残っていた。調査から川を利用して水べりに面していた淀城の全容がイメージできる。さらに現存する淀城中心部の石垣との高低差や深さの調査を進めることが必要だ。水車の位置や仕組みの解明にも期待したい」と話している。

 調査はすでに終了した。

 <淀城>伏見城廃城に伴い、徳川秀忠の命で松平定綱が築城し、1625年に完成。その後、永井氏などが入り、幕末まで稲葉氏の居城となった。城壁に2カ所付いていた大型の水車は淀川を行き交う船からの眺めが有名で絵画にもよく描かれている。豊臣秀吉が改築した淀君ゆかりの古い淀城は、現在の淀城跡公園北側にある納所の妙教寺付近にあったと推定される。

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