石版碑(若宮公園内)
お城のデータ
所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)飯 map:http://yahoo.jp/murS2g
区 分:居館(平城)
築城期:鎌倉期~
築城者:若宮氏
現 状:若宮公園・宅地
遺 構:説明石盤、説明板
標 高:90m 比高差:0m
目標地:徳善寺・八幡神社
駐車場:若宮公園
訪城日:2015.10.4



石版碑(若宮公園内)
若宮氏顕著碑(若宮公園内)
(若宮公園内)山内一豊の妻「千代」 <見性院>
山内一豊の妻の千代は若宮喜助友興の子として弘治三年(1557年)にここで生まれと言う説があります。一説には郡上八幡の遠藤氏の子という説もあります。永禄九年(1566年)に父友興が戦死し、叔母の夫の不破氏に養われたが、長じて飯村に戻りましたが、隣村の宇賀野村の長野家に身を寄せていた山内一豊母子と出合い、一豊の妻になったされます。夫の出世を助け、内助の功を発揮し、妻の鑑とされました。晩年は京都に住み元和三年(1617年)に没しました。墓は妙心寺大通寺にあります。 <現地案内板より>

(若宮公園内)



当地は、若宮氏館跡の西北部に臨接し、若宮氏の歓進した八幡神社の元宮があった所とされている。応永7年(1400年)頃の創建で、祭神は応神天皇である。
長く武をもって知られた若宮氏は、出陣の度に武運の長久をこの宮に祈願し、日常も崇敬の念を怠らなかった。
永禄年間(1558年から1570年)、社地が狭くなったため、若宮氏はこの地より約百メートル西方に社領を寄進し、そこに社殿を造営して移転した。以来約四百年間、現在の八幡神社が存続してきた。
この元宮跡を「どじょ野」と呼び、聖地として不浄の物を近づけぬよう村民は心がけてきた。
なお、当地の言い伝えによると、この地内に不遠慮に入るとにわかに腹痛が起こるとか、また、地中に黄金の鶏が埋まっていて、元旦には向かって声高らかに時をつくったとか言われている。
滋賀県中世城郭分布調査
滋賀県中世城郭分布調査
お城の概要
飯村の西部に若宮氏の居館若宮城がある。若宮公園として整備され、周辺の水路は堀跡とも伝わりますが、明瞭な遺構はありません。
北側は上屋敷、南側は下屋敷、堀(水路)は
2006年大河ドラマは功名が辻で、千代の出生地説のある。千代さんの出生地は『郡上八幡』とも言われています。
目標地:徳善寺の西(JR北陸線のガードを潜る直ぐ
歴 史
山内一豊の妻「千代」は、近江浅井家の家臣「若宮喜助友興」の娘として生まれました。
大正3年に刊行された『坂田郡志』によると、若宮左馬助の娘「お松」が一豊に嫁いで「千代」と改名された。
平成4年に近江町飯の牛尾田家において、土佐よりの書状(「牛尾田文書」)が発見され、「若宮お松」の嫁ぎ先が「五藤内蔵助」であると判り、「お松」と「千代」が別人であると判明しました。
しかしながら、千代の出自が近江の若宮家であることは依然かわるものではありません。
また現在の飯村には、「若宮外記仲間」といって19軒(昔は22軒)の仲間組織があり、牛尾田・伊部・吉田・宮崎・日比・吉用の各家が、若宮家遺領の田6反1畝・畑2反4畝・宅地3反7畝・山林1反を共同管理し、その年貢によって若宮家代々の法要が営まれています。
幼くして両親を亡くした千代は、隣の宇賀野という集落に裁縫と行儀見習いに行っていた。
その人物こそが、一豊の母・法秀院だった。法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。
山内一豊母『法秀院』の墓
宇賀野に山内一豊の母は、夫盛豊が亡くなった後、法秀院として出家し、次男・一豊らを連れて居を転々としたのち、永禄末年(1569)頃、4人の子どもを連れて宇賀野の長野家に身を寄せたと考えられています。法秀院はつつましく穏やかな性格で、村の子ども達から慕われていたと伝えられています。近所の子どもに裁縫や行儀見習いを教えていましたが、その中に後に一豊の妻となる千代の姿がありました。
一豊が長浜城主となった際、一時この地を離れたこともありましたが、生活の基盤は親しい知人が多い宇賀野におかれていたと言われています。その後生涯をこの地で過ごしたとされます。
なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています。
一豊と千代像(坂田駅前)。地元の彫刻家作品。
NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。
坂田駅前
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア
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