城郭探訪

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淀城跡の石垣発見

2015年10月08日 | 平城

水車?用途不明の石組みも 淀城跡の石垣発見

 京都市伏見区淀の桂川河畔での発掘調査で7日までに見つかった淀城跡とみられる遺構では、石垣とともに曲輪(くるわ)の一部「内高嶋(うちたかしま)」の状況が明らかになった。古地図と同様の形をした池の跡からは当時の絵図の正確さが証明された。内部で確認された石組みはさまざまな用途を想像させ、城郭ファンの心をくすぐる。

 淀藩士が描いた「山州淀御府内之図」(稲葉神社崇敬会蔵)の淀城の絵図では、天守の南西側の川べりに内高嶋がある。その中に描かれた逆L字型の池の形が今回出土した池の跡と一致した。絵図と照合すると、調査地のやや上流の川べりに水車があったと推定でき、周辺では水車小屋の遺構が出ることも考えられる。「川の中にある石垣を調査してみるのも面白い」(京都市埋蔵文化財研究所)と今後の調査への期待は高まる。

 内高嶋内部では用途不明の石組みや地下排水溝の跡が見つかった。水車でくみ上げた水をためたり、汚れた水を川に流したりしたとも推定できる。水害が多い川べりのため、建物跡は確認できなかったが、瓦が出土していることから建物があった可能性は高い。

 調査した市文化財保護課の鈴木久史さんは「内高嶋の確認で、復元の資料となる絵図の信憑(しんぴょう)性や淀城が描かれた数種類の絵図がそれぞれどんな視点で描かれたのかを検討できる。また、淀城の造営で河川側の景観をどのように意識して整備したのかが分かり、淀城全域の復元が可能となる」と話している。

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若宮城(若宮氏館) 近江国(近江町)

2015年10月08日 | 居館

石版碑(若宮公園内)

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)飯 map:http://yahoo.jp/murS2g

区 分:居館(平城)

築城期:鎌倉期~

築城者:若宮氏

現 状:若宮公園・宅地

遺 構:説明石盤、説明板

 高:90m  比高差:0m 

目標地:徳善寺・八幡神社 

駐車場:若宮公園

訪城日:2015.10.4

石版碑(若宮公園内)

若宮氏顕著碑(若宮公園内)

(若宮公園内)山内一豊の妻「千代」 <見性院>

山内一豊の妻の千代は若宮喜助友興の子として弘治三年(1557年)にここで生まれと言う説があります。一説には郡上八幡の遠藤氏の子という説もあります。永禄九年(1566年)に父友興が戦死し、叔母の夫の不破氏に養われたが、長じて飯村に戻りましたが、隣村の宇賀野村の長野家に身を寄せていた山内一豊母子と出合い、一豊の妻になったされます。夫の出世を助け、内助の功を発揮し、妻の鑑とされました。晩年は京都に住み元和三年(1617年)に没しました。墓は妙心寺大通寺にあります。 <現地案内板より>

(若宮公園内) 当地は、若宮氏館跡の西北部に臨接し、若宮氏の歓進した八幡神社の元宮があった所とされている。応永7年(1400年)頃の創建で、祭神は応神天皇である。

長く武をもって知られた若宮氏は、出陣の度に武運の長久をこの宮に祈願し、日常も崇敬の念を怠らなかった。
永禄年間(1558年から1570年)、社地が狭くなったため、若宮氏はこの地より約百メートル西方に社領を寄進し、そこに社殿を造営して移転した。以来約四百年間、現在の八幡神社が存続してきた。
この元宮跡を「どじょ野」と呼び、聖地として不浄の物を近づけぬよう村民は心がけてきた。
なお、当地の言い伝えによると、この地内に不遠慮に入るとにわかに腹痛が起こるとか、また、地中に黄金の鶏が埋まっていて、元旦には向かって声高らかに時をつくったとか言われている。 

 滋賀県中世城郭分布調査滋賀県中世城郭分布調査

お城の概要

飯村の西部に若宮氏の居館若宮城がある。若宮公園として整備され、周辺の水路は堀跡とも伝わりますが、明瞭な遺構はありません。

北側は上屋敷、南側は下屋敷、堀(水路)は

2006年大河ドラマは功名が辻で、千代の出生地説のある。千代さんの出生地は『郡上八幡』とも言われています。

目標地:徳善寺の西(JR北陸線のガードを潜る直ぐ

歴 史

 山内一豊の妻「千代」は、近江浅井家の家臣「若宮喜助友興」の娘として生まれました。
大正3年に刊行された『坂田郡志』によると、若宮左馬助の娘「お松」が一豊に嫁いで「千代」と改名された。

平成4年に近江町飯の牛尾田家において、土佐よりの書状(「牛尾田文書」)が発見され、「若宮お松」の嫁ぎ先が「五藤内蔵助」であると判り、「お松」と「千代」が別人であると判明しました。

しかしながら、千代の出自が近江の若宮家であることは依然かわるものではありません。
また現在の飯村には、「若宮外記仲間」といって19軒(昔は22軒)の仲間組織があり、牛尾田・伊部・吉田・宮崎・日比・吉用の各家が、若宮家遺領の田6反1畝・畑2反4畝・宅地3反7畝・山林1反を共同管理し、その年貢によって若宮家代々の法要が営まれています。

 幼くして両親を亡くした千代は、隣の宇賀野という集落に裁縫と行儀見習いに行っていた。
その人物こそが、一豊の母・法秀院だった。法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。

 
山内一豊母『法秀院』の墓

宇賀野に山内一豊の母は、夫盛豊が亡くなった後、法秀院として出家し、次男・一豊らを連れて居を転々としたのち、永禄末年(1569)頃、4人の子どもを連れて宇賀野の長野家に身を寄せたと考えられています。法秀院はつつましく穏やかな性格で、村の子ども達から慕われていたと伝えられています。近所の子どもに裁縫や行儀見習いを教えていましたが、その中に後に一豊の妻となる千代の姿がありました。
一豊が長浜城主となった際、一時この地を離れたこともありましたが、生活の基盤は親しい知人が多い宇賀野におかれていたと言われています。その後生涯をこの地で過ごしたとされます。
なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています

一豊と千代像(坂田駅前)。地元の彫刻家作品。

 NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。

坂田駅前

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア

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飯村城(嶋氏館) 近江国(近江町)

2015年10月08日 | 居館

お城のデータ

別 称:嶋氏館

所在地:米原市(旧坂田郡)近江町飯 map:http://yahoo.jp/wWUCef

区 分:平城

現 状:春日神社・飯集落

築城期:戦国期

築城者:嶋若狭守秀安

城 主:嶋若狭守秀安

遺 構:石盤・堀跡

標 高:90m    比高差:0m

城 域:集落

目標地:徳善寺

駐車場:若宮公園に駐車(集落内は、道路も狭い)

訪城日:2015.10.4

お城の概要

飯村集落の東部に位置した城で、京極氏の根本被官今井氏の家老として嶋氏がこの館に住した。

JRで分断された飯村集落の東部に位置し、周囲を水路の巡る。北側水路は明治中期まで”通船川”として荷物の運搬用水路として機能していた。

一方集落の東側は北国街道が通るが、街道を横切る天野川は、この地を”渡し場”として機能して嶋氏は”渡し番”も担っていた。

天野川の上流には、今井氏の居城「箕浦城」「能登瀬城」の要路要壕であった。

ここ(消防ポンプ庫)路地から、春日神社へ

集落内の水路

徳善寺http://yahoo.jp/7Tayjy

歴 史 

江州佐々木南北諸士帳に、坂田郡飯村 住 佐々木浅井隋兵堀一族 島若狭守成久、島角左衛門、島四朗左衛門、島忠左衛門、島七左衛門、宮崎左近の名が残る

 京極氏の被官で近江坂田郡飯村城主・嶋若狭守秀安(入道朴底)の孫秀親・秀季(二男秀淳の子)または一族の新六郎が左近ではないかとするもので、『関ヶ原軍記大成』などに見える「嶋左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに庵を作ってこもっていた。石田三成は天正の末に近江国の水口を領地に賜り、そこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を石田は無理に招き、賓客のようにして自分の所においた」という記述から、左近は同郷人である三成に親近感を抱き、その家臣となって活躍したとするもののようである。

画像は飯村の嶋氏館跡(現滋賀県坂田郡近江町飯 春日神社)にある説明板で、嶋左近は当地の出自であるとされている。

嶋氏『島記録』に詳しいが、昔から嶋仲間が四組(角左衛門、新六、仁左衛門、十郎右衛門)があり、遺領の土地や位牌を守り毎年法要を行っている。

『近江坂田郡志』(中巻)によると、嶋若狭守は田那部氏とともに京極氏の譜代家臣・今井氏の臣下にあってこれを支えてきたが、姉川の戦いの際に田那部氏が寝返って信長方に付いた。やがて浅井氏が滅びたため田那部氏の栄達に反して嶋氏は没落、老いた父母を飯村に残して一族は他国へ散っていったという。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア 

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多賀城 近江国(多賀)

2015年10月07日 | 城郭寺院

多賀城遺跡(たがじょういせき)

 

所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀546 map:http://yahoo.jp/n3TYnfこの地図のURL

区 分:平城 
現 状:宅地・多賀交差点  
築城期:鎌倉期
築城者:多賀氏
城 主:河瀬主馬(多賀大社の神官)
遺 構:土塁・堀・ 西徳寺石碑
訪城日2015.10.4 
 
 
お城の概要
平成14年滋賀県遺構地図には、多賀交差点周辺を比定しているが、(国道307号線と県道227号) 

多賀町の城

 多賀町内に存在する中世の城館跡は21を数えます。城館と一口にいっても城と館では性格が異なっています。館とは、おおむね平野部や丘陵のすそ部などの居住に最適な地で、交通・軍事のかなめにあたるところにつくられた屋敷のことです。水堀や土塁をめぐらしており、緊急時には防御施設になります。
 一方、城は山や丘陵の自然地形を利用し、堀や土塁を築いた軍事施設で、非常事態に立てこもるという性格が強いものです。ただし、久徳城のように平野部に城が築かれ、城と館の区別が明確ではない場合もあります。
 滋賀県内の城館跡は1300カ所と、全国でも有数の城館数を誇っています。多賀町は以外に少なく感じられるかもしれませんが、平均くらいでしょうか。多賀町の場合、多賀社、敏満寺などの社寺が大きな勢力を持っており、ほかの地域に比べて特殊な様相を呈していたと考えられます。
 今後、多賀町内に所在する城をご紹介していきたいと思います。

さ307号沿いの土塁?
お城の歴史

河瀬氏の支城。城主に多賀大社の神官「河瀬主馬」の名が。
河瀬氏は河瀬城を拠点に犬上郡に勢力を持つ一族で、織豊期には「多賀大社」の大神主であった。

江州佐々木南北諸士帳』に、「多賀 一宮士 川瀬主馬・二宮士 川瀬斎宮・三山田宮士 大岡玄蕃」とある。

・西徳寺(さいとくじ) 多賀町多賀 承和二年法相宗から天台宗に改宗。建長七年親鸞聖人三日間滞在。永正二年浄土真宗に改宗。

元亀元年織田浅井の兵火により焼失。元亀四年顕如の命を受け、僧證慈門徒760人をもって石山合戦に参加し討ち死に。

 多賀氏

  多賀氏は、古代より多賀地方および近接の甲良地方に土着の豪族であり、多賀社を氏神にしていたと考えられる。しかし、家系図の上では公家の中原氏と結び付けられ、天武天皇皇子・舎人親王の末裔である中原真人長谷に始まる江州中原氏が、多賀社の神官を務め、多賀氏を名乗ったのが始まりであるとされている(旧説では、江州中原氏は崇峻天皇皇子・定世親王の後裔と見なされていたが、今では仮冒[他人の名を語る偽称]と判じられている)。

いずれにしても、多賀氏は鎌倉初期から中期にかけて多賀と甲良に勢力を張る氏族であり、室町時代には犬上郡および坂田郡にて同族間で争いながらも隆盛であった。

 戦国期には、甲良の下之郷城に居城した多賀高忠を始めとする幾人かの著名な武将の名が見え、織田政権下・豊臣政権下でも為政者に直仕する、堀氏と縁戚関係になるなどして有利に活動していたが、関ヶ原の戦いの際、敗軍となる石田三成方についたことが禍し、戦後、所領を没収されて没落した。

 多賀氏であるが愛知大領成行なる人物から5代目信景が多賀へ移って多賀神社の神官を勤めたことから多賀姓を名乗った、平安時代中央官僚の中原氏が愛知郡の大領に任じられ長野郷に住したので長野姓を名乗り秀定の時多賀姓に変えたなどの説があるがもともとは多賀神社を氏神にする土豪だったらしい。その後侍所京極持清によって若宮氏と交替で京都所司代を勤めた。しかし多賀氏は豊後守系と出雲守系とに別れた。出雲守清直が失脚後、京極高数の次男が多賀家を継ぎ豊後守高忠となり持清を助け、六角氏の湖北侵略に対抗した。持清の存命中湖北は安定していたが、その死後失脚した清直が下坂家の内紛に介入して再び表舞台に出てきた。その子宗直は三田村定元の協力を得て高忠に勝利して湖北を支配した。これに対し持清の遺児秀綱が宗直に反発する勢力を集結、反撃に出て宗直・定元を破って湖北を奪回した。
高忠の子孫が貞能である。信長のもとで働くが本能寺の変で明智光秀についたため没落した。貞能には男子がなく、信長の側近だった堀秀政の弟を養子に迎えた。

西徳寺(さいとくじ) 多賀町多賀

承和二年法相宗から天台宗に改宗。建長七年親鸞聖人三日間滞在。永正二年浄土真宗に改宗。

元亀元年織田浅井の兵火により焼失。元亀四年顕如の命を受け、僧證慈門徒760人をもって石山合戦に参加し討ち死に。
西徳寺 西徳寺

慶照寺

多賀の古代・中世
奈良時代
  • 和銅5年(712年、奈良時代初頭) :この年に編纂された『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
  • 天平宝字3年(759年)頃か :坂田郡側の霊山(現・霊仙山)山麓にて霊仙(長じて日本で唯一の三蔵法師となる人物)が生を受けたと伝えられる。この後、奈良の興福寺に入山する15歳頃までは霊仙山にある寺院(松尾寺など)で修行に励んだという。
  • 奈良時代 :霊山(現・霊仙山)山頂に霊仙寺(非現存)が建立されたと伝えられる。
平安時代
  • 天安2年(858年) :惟喬親王が藤原良房の追討を逃れて京の都から逃れる際、犬上郡の鞍掛峠(現・多賀町大君ヶ畑〈おじがはた〉の鞍掛峠)にて馬の鞍を外して休憩をとらせたと伝えられる(鞍掛峠および大君ヶ畑の地名由来)。
  • 延長5年(927年、平安時代後期) :この年に編纂された『延喜式神名帳』に「近江国犬上郡 多何神社二座」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
鎌倉時代
  • 鎌倉時代 :胡宮神社(このみやじんじゃ)が天台宗・敏満寺の鎮護として繁栄し、48伽藍120坊の規模を誇った。
室町時代
  • 明応3年(1494年、室町時代中期) :神仏習合が進み、多賀神社境内に神宮寺として不動院(天台宗)が建立される(多賀大明神の隆盛期の始まり)。
  • 永禄5年(1562年) :浅井長政の攻撃を受ける久徳氏に味方した敏満寺が長政に攻められ、焼き討ちに遭って120以上あったという堂宇が炎上焼失する。
安土桃山時代
  • 元亀3年(1572年) :命に応じなかった敏満寺を織田信長が攻め、残りの堂宇をことごとく焼き討ちにした上、寺領も取り上げ、これによって敏満寺は廃寺に追い込まれる。唯一残った福寿院が胡宮神社の別当寺院となったが、胡宮神社も被害甚大で衰退期を迎える。
  • 天正年間(1573-1592年) :胡宮神社の再興の願いに対して豊臣秀吉の許可が下り、社殿と大日堂が再建される。
  • 天正16年(1588年) :多賀神社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため、社殿改修を行い、大名に与えるに等しい1万石を寄進する。
  • 慶長年間(1596-1615年) :敏満寺跡地に残った礎石が彦根城普請のために運び去られる。
  • 慶長4年9月15日(1599年10月21日) :関ヶ原の戦いに敗れた西軍の武将・島津義弘が関ヶ原から犬上郡の五僧峠(現・多賀町五僧の五僧峠)を越えて高宮(現・彦根市高宮町)の犬上川河畔で一泊し、翌日、信楽経由で大阪の堺まで敗走する。
江戸時代
  • 寛永年間(1624-1645年) :3代将軍・徳川家光の庇護の下で大造営が行われ、現存する本殿・大日堂・観音堂が寛永15年(1638年)に建立される。
  • 寛永15年(1638年) :大僧正・慈性が多賀神社境内正面にて石造りの太鼓橋を造営し、以後、橋は太閤・豊臣秀吉と当社の縁に由来する「太閤橋」の名で呼ばれるようになる(現存)。

 

参考資料:

『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査報告「旧愛知・犬上郡の城」』・ 滋賀県の遺跡:遺跡ウォーカー

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佐和山城 「西の丸」と伝わる曲輪から建物跡遺構

2015年10月04日 | 戦国山城

西の丸と伝わる曲輪から建物跡遺構 石田三成ゆかりの佐和山城跡

 石田三成(1560~1600年)の居城として知られる滋賀県彦根市の佐和山城跡で西の丸(同市古沢町)と伝わる曲輪(くるわ)を調査をしていた彦根市教委は25日、曲輪から建物跡の遺構を確認したと発表した。同城山中で曲輪を発掘調査したのは初めて。

 本丸跡は佐和山頂上(標高約230メートル)にある。西の丸は本丸跡から北側に約180メートルメートル離れ、標高は約180メートル。

廃城から約200年後の江戸時代に描かれた「沢山古城之絵図」では西の丸に三段の曲輪があり、今回下段で初めて範囲確認を実施。

広さは南北約30メートル、東西約25メートルあり、斜面を切り土と盛り土で平らにしていた。軒平瓦などおびただしい焼けていない瓦片が出土した。

 北西端には、何かを貯蔵した地下室と推定できる楕(だ)円状の土坑(長軸約6・9メートル、短軸約5・6メートル、深さ約1・9メートル)があり、その土坑の四隅(南北約5・7メートル、東西約3・8メートル)から建物の礎石据え付け跡を確認し、瓦ぶきの建物があったことが分かった。

瓦以外に出土品はなく建物や地下室の用途は不明という。

 中井均 滋賀県立大教授(日本城郭史)は「出土した瓦の形状から16世紀後半、豊臣政権の威光を示すため、本丸から西の丸まで巨大な城域を持つ山城として造られたとみていい」と話していた。

 現地説明会は、10月4日午前9時半から同市鳥居本の近江鉄道鳥居本駅前集合。参加料100円。

西の丸(塩硝櫓)(塩櫓)

切岸下から斜度40°

かもう坂通り往還---旧道を島津家の家門石

同市文化財課TEL0749(26)5833。京都新聞(2015.9.26)

参考資料:彦根市文化財課レジュメ、京都新聞記事、現地説明版

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水にまつわる伝説の地 醒井宿を訪ねて

2015年10月03日 | 探訪「近江水の宝」

10 月3 日(土)開催 近江歴史探訪

  151003_samegai.pdf (266.2 KB)

水にまつわる伝説の地 醒井宿を訪ねて
山の湧水を水源とする地蔵川に沿って形成された中山道の宿場町、醒井宿。江戸時代にここを
通過する大名や役人に人速や馬を提供した施設が今も残されています。
宿場の中を地蔵川が流れ、川面に浮かぶ梅花藻(6 月~9 月)などの自然と、多くの文化財が
散在する歴史を楽しめる町並みとが融和し、独特の景観を作り出しています。
ヤマトタケルが傷を癒した「居醒泉」(いざめのいずみ)伝説、西行が旅の途中に茶を飲み、子
を宿らせた伝説、水源である霊仙山の水神と参詣者の仏縁を結んでいたという伝説など、水にま
つわる伝説に彩られた地でもあります。
 
JR 醒ヶ井駅 →(出発)→
明治時代の醒井小学校玄関(昭和36年名神高速道路の建設で・・・移築)
 旧醒井郵便局(ヴォーリス建築) → 
 
地蔵川の地蔵橋
十王水 →
了徳寺のオハツキイチョウ→
地蔵川のバイガモ
醒井城は、旧中山道醒井集落のほぼ中央付近にあった。醒ヶ井は宿場町の町並みと、中山道沿いを流れる清流地蔵川に生息する「梅花藻(バイカモ)」が有名であるが、その中心地付近、南側の小さな山付近が城跡だとされている。

醒井集落は、南背後に名神が走り、城山は名神開通に伴い南方の山系から分断さている。

問屋場跡→
廣重の醒井宿
地蔵堂 →
居醒の清水 →
 
cafe
お茶壺本陣→
 西行水 →
中山道道標
三大寺遺跡 →
天神水 →
六軒茶屋 →
醒ヶ井駅前 松尾寺政所 →
→  JR 醒ヶ井駅(解散)

今回の探訪は、米原観光ボランティアガイド協会のガイドの案内で、水にまつわる伝説の地、
醒井宿を詳しく訪ねます。
★開催要項
◇日時:平成27 年10 月3 日(土)13 時15 分 ~ 16 時頃
◇距離:約6km(標高差約70m)
◇持物:健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、まち歩きができる服装と靴等
◇集合:JR 醒ヶ井駅13 時15 分
◇定員:60 名(20 名×3 班)※先着順・定員になり次第受付終了
◇費用:50 円(ガイド料等)
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本日の歩数  10,971 歩
歩行距離     8.2km
歩行時間     1:50
消費カロリー  341.9kcal
脂肪燃焼量   48.8g