湖畔人です。
宇宙戦艦ヤマトのモデルとなった戦艦大和、当時世界最大の軍艦で、巨大な大砲を持つその戦艦は、実は戦争末期においては時代遅れな戦力となっていたようです。日露戦争の様に軍艦同士の戦いであれば、遠くまで砲弾を飛ばさせる大和は多分世界最強の軍艦でしたが、太平洋戦争末期においては、小回りの利く性能の良い戦闘機が戦いの主力であり、その戦闘機を多数乗せて運ぶ空母による攻撃がもっとも強力な戦力となっていた時代だった為、大和は一時代前の、あまり実用性のない戦力になってしまっていたのです。実は、戦闘機と空母による戦いと言う流れを最初に作ったのは日本と言われており、空母の保持も小回りの利く機動性が高い戦闘機の保持も、実は日本が先行していたのです。ただ、その凄味に先に気付いたのが、米軍であり、短期間で徹底的に改善をして、最強の戦闘機を開発し、それを運ぶ空母を多数保有し、日本に勝ったと言うのが太平洋戦争の真相です。いつもそうですが、日本の良さを一番知らないのは日本自身なのです。当時の日本の上層部に軍事的センスの良い人が少なかったのかもしれません。また、通信傍受能力、殆どの暗号が解読されていた点もアメリカの強みでした。そして何より、産業の厚み、生産能力、資源、人口、それらインフラのベースがあらゆる面で日本を圧倒していたのです。それでも、日本はそこを精神力と愛国心と科学技術力でカバーし互角に戦っていたのですから本当にスゴイ事なのですが、それが故に、米国は戦後の日本から愛国心と宗教心を戦略的に奪い、弱めたのです。アメリカの強みは、大リーグを見ても判る通り、今も昔も、情報を取る力と、その分析能力と、それを受けて研究開発する能力と、産業化へ転化の速度が強みだったのです。全てをデータ化し、情報として統計として科学的に分析をし、自分達の弱みも謙虚に認めて最善を常に探して、新しい勝利の方程式を開発し、それを現実の力に変える適応能力、その速さに凄味があるのです。当時も今も変わりません。グーグルも、ツイッターも、彼らの強みなのです。精神論だけでは敵わないのです。日本も学ぶ必要がありますね。特にIT、情報を盗み解析し攻撃する力が弱すぎです。日本に凄腕ホワイトハッカーが多数いれば、現存する共産勢力圏にもグラスチノスチが起きて、共産党幹部の保身のままの巨万の蓄財と汚職の数々が暴露され、白日の下にさらされ勝手に崩壊となるはずなのです。攻め所を考えてほしいのです。そして、一方、日本は、当時の米軍によって骨抜きにされた愛国心と宗教心も取り戻さねばなりませんね。
さて、話は戻りますが、戦争後半においては、改善された圧倒的な戦闘能力を持った米軍最新鋭機により、日本の海軍が保有していた航空部隊は壊滅的状況となっており、残すは、特攻攻撃位しか手が無い状況でした。ですから、仮に大和が出撃しても、大和を守る航空部隊による援護がない状況での出撃となる為、沖縄までたどり着く見込みは殆ど無いと言われておりました。要は、大和の出撃は死を前提にした特攻攻撃だったのです。一説には帰りの燃料を積んでなかったとか、いや、帰りの分もあったとか、または、沖縄の住民に物資を届ける為、歯磨き粉他日用品をたんまり積んで、貨物船の代わりもしていたとか、いろいろと言われていますが、建前的には、沖縄の海岸の浅瀬に乗り上げ、砲台となって米軍を攻撃し、海軍兵も陸軍と一緒になって沖縄で米軍と戦う、と言う趣旨での出撃となったようです。しかし、本音を言えば、命令を下した本部ですらも、沖縄までたどり着ければ奇跡と思っていたようです。但し、この後に控えている本土決戦においては、一億総玉砕、一億総特攻と言うスローガンで国民全員を巻き込んで米軍と戦おうとしていたため、その先例として、身を賭して心意気を示せと、出撃を命令されたようなのです。当時は数千の乗組員を無駄に死なせるわけにはいかない、と、多くの反対が起きましたが、“一億総特攻の魁となれ”、と言う指示には抗えなかったようです。そして大和は出撃をし、薩摩半島の坊ノ岬沖で米軍の戦闘機約380機の攻撃を受け、2時間後に無残に太平洋に没したのです。本当に、溜息しか出ない、なぶり殺しに近い大和の出撃劇だったのです。
この時期、日本の航空戦力を振り絞った、沖縄戦での空の特攻攻撃が行われており、多くの若い命が失われましたが、米軍には多少のダメージを与えられはしても、巡洋艦、戦艦、空母は一隻も撃沈できず、あくまで、心理的なダメージを与える事にしかならない戦闘ではあったようなのです。
これら多くの若者の命を奪った、この特攻と言う攻撃方法は本当に必要だったのか、本当に有効だったのか、意味のある死だったのか、無駄死にでは無かったのかと、本当に深い溜息が出て来るのですが、でも実際、その特攻から来る心理的プレッシャーは当時のアメリカ政府の方針変更にまで影響を与えていたと言う意見もあるようです。
本ブログでも何度か触れて来た外交評論家の加瀬英明氏ですが、彼によれば、まず、昭和天皇が、停戦と降伏を決意したのは、何も広島長崎の原爆ではなく、それは『ポツダム宣言』である、と言っております。嘗ては、日本の降伏の条件として、『カイロ宣言』にて“無条件降伏”が要求されていたのですが、『ポツダム宣言』では、“条件付きの降伏”に条件が変わって来ており、その内容なら日本国民を活かせるし、主権も保てるし、無暗に“一億総特攻”でもって命を散らす必要はない、として、終戦を決意されたようだと、そう加瀬氏は言います。そして、アメリカが『ポツダム宣言』において“条件付きの降伏”に内容を変えて来たその背景には、当時の米軍の統合参謀本部の試算があって、統合参謀本部の試算によれば、“もし日本で本土決戦を行った場合、この戦争は1947年まで継続し、想定される米軍の死傷者の数は100万人を超える”と言う試算の報告がされており、その報告を受けたトルーマンが、条件付きに内容を変えたのだ、と加瀬氏は言います。よって、無駄に命を散らして来たかのように見えていた悲劇の特攻の戦士達の死も、米国の政治判断にも影響を及ぼし、結果、戦争を止める重要な役割を果たしたのだと、加瀬氏は言います。“もし、アメリカが無条件降伏を要求し続けていたとすれば、たとえ原爆が投下されても、本土決戦は行われたはずであり、一億総特攻の方針下で更に多くの命が奪われ、日本は更に壊滅的なダメージを受けていたはずだった、その状況を救ったのは、降伏条件が条件付きに変わった事にあり、その状況を作ったのは、太平洋で戦い命を散らした特攻の戦士達のお蔭なのだ”と、そう言った主旨の事を加瀬さんは言われているのです。
それが本当であれば、南の海で散って行った数多くの勇ましき英霊達の死も浮かばれると言うものですね。その死に意味があったのであれば、死にがいもあったと言うものです。加瀬さんの解釈が正しければ英霊も救われますね。ありがたい事です。
湖畔人
宇宙戦艦ヤマトのモデルとなった戦艦大和、当時世界最大の軍艦で、巨大な大砲を持つその戦艦は、実は戦争末期においては時代遅れな戦力となっていたようです。日露戦争の様に軍艦同士の戦いであれば、遠くまで砲弾を飛ばさせる大和は多分世界最強の軍艦でしたが、太平洋戦争末期においては、小回りの利く性能の良い戦闘機が戦いの主力であり、その戦闘機を多数乗せて運ぶ空母による攻撃がもっとも強力な戦力となっていた時代だった為、大和は一時代前の、あまり実用性のない戦力になってしまっていたのです。実は、戦闘機と空母による戦いと言う流れを最初に作ったのは日本と言われており、空母の保持も小回りの利く機動性が高い戦闘機の保持も、実は日本が先行していたのです。ただ、その凄味に先に気付いたのが、米軍であり、短期間で徹底的に改善をして、最強の戦闘機を開発し、それを運ぶ空母を多数保有し、日本に勝ったと言うのが太平洋戦争の真相です。いつもそうですが、日本の良さを一番知らないのは日本自身なのです。当時の日本の上層部に軍事的センスの良い人が少なかったのかもしれません。また、通信傍受能力、殆どの暗号が解読されていた点もアメリカの強みでした。そして何より、産業の厚み、生産能力、資源、人口、それらインフラのベースがあらゆる面で日本を圧倒していたのです。それでも、日本はそこを精神力と愛国心と科学技術力でカバーし互角に戦っていたのですから本当にスゴイ事なのですが、それが故に、米国は戦後の日本から愛国心と宗教心を戦略的に奪い、弱めたのです。アメリカの強みは、大リーグを見ても判る通り、今も昔も、情報を取る力と、その分析能力と、それを受けて研究開発する能力と、産業化へ転化の速度が強みだったのです。全てをデータ化し、情報として統計として科学的に分析をし、自分達の弱みも謙虚に認めて最善を常に探して、新しい勝利の方程式を開発し、それを現実の力に変える適応能力、その速さに凄味があるのです。当時も今も変わりません。グーグルも、ツイッターも、彼らの強みなのです。精神論だけでは敵わないのです。日本も学ぶ必要がありますね。特にIT、情報を盗み解析し攻撃する力が弱すぎです。日本に凄腕ホワイトハッカーが多数いれば、現存する共産勢力圏にもグラスチノスチが起きて、共産党幹部の保身のままの巨万の蓄財と汚職の数々が暴露され、白日の下にさらされ勝手に崩壊となるはずなのです。攻め所を考えてほしいのです。そして、一方、日本は、当時の米軍によって骨抜きにされた愛国心と宗教心も取り戻さねばなりませんね。
さて、話は戻りますが、戦争後半においては、改善された圧倒的な戦闘能力を持った米軍最新鋭機により、日本の海軍が保有していた航空部隊は壊滅的状況となっており、残すは、特攻攻撃位しか手が無い状況でした。ですから、仮に大和が出撃しても、大和を守る航空部隊による援護がない状況での出撃となる為、沖縄までたどり着く見込みは殆ど無いと言われておりました。要は、大和の出撃は死を前提にした特攻攻撃だったのです。一説には帰りの燃料を積んでなかったとか、いや、帰りの分もあったとか、または、沖縄の住民に物資を届ける為、歯磨き粉他日用品をたんまり積んで、貨物船の代わりもしていたとか、いろいろと言われていますが、建前的には、沖縄の海岸の浅瀬に乗り上げ、砲台となって米軍を攻撃し、海軍兵も陸軍と一緒になって沖縄で米軍と戦う、と言う趣旨での出撃となったようです。しかし、本音を言えば、命令を下した本部ですらも、沖縄までたどり着ければ奇跡と思っていたようです。但し、この後に控えている本土決戦においては、一億総玉砕、一億総特攻と言うスローガンで国民全員を巻き込んで米軍と戦おうとしていたため、その先例として、身を賭して心意気を示せと、出撃を命令されたようなのです。当時は数千の乗組員を無駄に死なせるわけにはいかない、と、多くの反対が起きましたが、“一億総特攻の魁となれ”、と言う指示には抗えなかったようです。そして大和は出撃をし、薩摩半島の坊ノ岬沖で米軍の戦闘機約380機の攻撃を受け、2時間後に無残に太平洋に没したのです。本当に、溜息しか出ない、なぶり殺しに近い大和の出撃劇だったのです。
この時期、日本の航空戦力を振り絞った、沖縄戦での空の特攻攻撃が行われており、多くの若い命が失われましたが、米軍には多少のダメージを与えられはしても、巡洋艦、戦艦、空母は一隻も撃沈できず、あくまで、心理的なダメージを与える事にしかならない戦闘ではあったようなのです。
これら多くの若者の命を奪った、この特攻と言う攻撃方法は本当に必要だったのか、本当に有効だったのか、意味のある死だったのか、無駄死にでは無かったのかと、本当に深い溜息が出て来るのですが、でも実際、その特攻から来る心理的プレッシャーは当時のアメリカ政府の方針変更にまで影響を与えていたと言う意見もあるようです。
本ブログでも何度か触れて来た外交評論家の加瀬英明氏ですが、彼によれば、まず、昭和天皇が、停戦と降伏を決意したのは、何も広島長崎の原爆ではなく、それは『ポツダム宣言』である、と言っております。嘗ては、日本の降伏の条件として、『カイロ宣言』にて“無条件降伏”が要求されていたのですが、『ポツダム宣言』では、“条件付きの降伏”に条件が変わって来ており、その内容なら日本国民を活かせるし、主権も保てるし、無暗に“一億総特攻”でもって命を散らす必要はない、として、終戦を決意されたようだと、そう加瀬氏は言います。そして、アメリカが『ポツダム宣言』において“条件付きの降伏”に内容を変えて来たその背景には、当時の米軍の統合参謀本部の試算があって、統合参謀本部の試算によれば、“もし日本で本土決戦を行った場合、この戦争は1947年まで継続し、想定される米軍の死傷者の数は100万人を超える”と言う試算の報告がされており、その報告を受けたトルーマンが、条件付きに内容を変えたのだ、と加瀬氏は言います。よって、無駄に命を散らして来たかのように見えていた悲劇の特攻の戦士達の死も、米国の政治判断にも影響を及ぼし、結果、戦争を止める重要な役割を果たしたのだと、加瀬氏は言います。“もし、アメリカが無条件降伏を要求し続けていたとすれば、たとえ原爆が投下されても、本土決戦は行われたはずであり、一億総特攻の方針下で更に多くの命が奪われ、日本は更に壊滅的なダメージを受けていたはずだった、その状況を救ったのは、降伏条件が条件付きに変わった事にあり、その状況を作ったのは、太平洋で戦い命を散らした特攻の戦士達のお蔭なのだ”と、そう言った主旨の事を加瀬さんは言われているのです。
それが本当であれば、南の海で散って行った数多くの勇ましき英霊達の死も浮かばれると言うものですね。その死に意味があったのであれば、死にがいもあったと言うものです。加瀬さんの解釈が正しければ英霊も救われますね。ありがたい事です。
湖畔人