ちょっと今日は偉そうなことを書く。
自分を「すごいかもしれない」と思う瞬間があったりする。これはたとえば、3メートル離れたところから投げた紙屑がごみ箱に一回で入ってスゲー
と思うのとはちょっと意味が違う。
私は自信家ではなく、どちらかというと「私なんか~」と自分を卑下しながら若い時代を過ごしてきた。今は昔ほど控えめでもなく、それどころか年を重ねて厚かましくなってきたので、そういう思考回路を持つ機会は減ってきた。今んとこ至って普通のいい状況ではないかと思う。
で、「すごい」の話。
自分が取った行動が他人に刺激や感動を与えたりしていると知った。その時、すこーしだけ「私ってすごいかも」と思ってしまった。
私自身、人さまの言葉に力をもらって生きているクチなので、自分がそういう立場とみなされているだけでも感動モノ。今は好きなことをしているけれど、その代わりしんどいし、泣きそうになることなんてたくさんあるし、不安で眠れないことだってある。迷ってもがいて、それでも何とか前に進もうとしている。そういう中で評価してもらえると、少しぐらい自分をほめてもいいのかなと思う。
人と少し違うことをしているため「すごい」と言われる機会は多い。だけどやってる本人はそれがすごいことかどうかわからない。同じ会社で15年も働いたことないし、主婦も母親もやったことないから比べようがない。すごいと言われる理由は単純に、経験を共有できる人の絶対数が少ないからであって、結局みんな何かしら悩みを抱えながら頑張ってる。そういう過程の中で、もし自分の言動が人様に何か感銘を与えることができているとしたら、すこーしだけ「アタシってすごいかも」と思ってしまう。
少し話はずれる。
つい先日、ある困難とぶつかった。もう心がしおれるようなことだった。だけど泣いてもわめいても現実は変わらないから、問題を見つめ、解決法を探して実行し、時が過ぎるのを待った。あとは結果待ち。時間はかかるけどこのまま頑張ればうまくいくと思う。こうやって問題を乗り越えながら私は強くなってきたし、また強くなっていくんだなーなんて考えていた。
第三者として自分を見ることは不可能だけど、「今んとこそこそこ頑張ってんちゃう?」というのがとりあえずの自分への評価。すごくなくていいから、まぁ、ボチボチ生きていこうかと思う。
うーん。書いている間に自分の考えていたオチとは全然違うとこにきたなー。まぁいいや。
自分を「すごいかもしれない」と思う瞬間があったりする。これはたとえば、3メートル離れたところから投げた紙屑がごみ箱に一回で入ってスゲー

私は自信家ではなく、どちらかというと「私なんか~」と自分を卑下しながら若い時代を過ごしてきた。今は昔ほど控えめでもなく、それどころか年を重ねて厚かましくなってきたので、そういう思考回路を持つ機会は減ってきた。今んとこ至って普通のいい状況ではないかと思う。
で、「すごい」の話。
自分が取った行動が他人に刺激や感動を与えたりしていると知った。その時、すこーしだけ「私ってすごいかも」と思ってしまった。
私自身、人さまの言葉に力をもらって生きているクチなので、自分がそういう立場とみなされているだけでも感動モノ。今は好きなことをしているけれど、その代わりしんどいし、泣きそうになることなんてたくさんあるし、不安で眠れないことだってある。迷ってもがいて、それでも何とか前に進もうとしている。そういう中で評価してもらえると、少しぐらい自分をほめてもいいのかなと思う。
人と少し違うことをしているため「すごい」と言われる機会は多い。だけどやってる本人はそれがすごいことかどうかわからない。同じ会社で15年も働いたことないし、主婦も母親もやったことないから比べようがない。すごいと言われる理由は単純に、経験を共有できる人の絶対数が少ないからであって、結局みんな何かしら悩みを抱えながら頑張ってる。そういう過程の中で、もし自分の言動が人様に何か感銘を与えることができているとしたら、すこーしだけ「アタシってすごいかも」と思ってしまう。
少し話はずれる。
つい先日、ある困難とぶつかった。もう心がしおれるようなことだった。だけど泣いてもわめいても現実は変わらないから、問題を見つめ、解決法を探して実行し、時が過ぎるのを待った。あとは結果待ち。時間はかかるけどこのまま頑張ればうまくいくと思う。こうやって問題を乗り越えながら私は強くなってきたし、また強くなっていくんだなーなんて考えていた。
第三者として自分を見ることは不可能だけど、「今んとこそこそこ頑張ってんちゃう?」というのがとりあえずの自分への評価。すごくなくていいから、まぁ、ボチボチ生きていこうかと思う。
うーん。書いている間に自分の考えていたオチとは全然違うとこにきたなー。まぁいいや。