華麗なるオーストラリアンライフ

渡豪17年。職業・看護師。
白熊のようなオージーの旦那1人とワンコ2匹で
ニューサウスウェルス州の田舎町で生息中。

しばし休憩

2010年09月02日 18時09分00秒 | Weblog
昨日の閲覧ページ数が1000(!)を超えてるんやけど、私のブログを昨日一日で何ページにも渡って読んだ人がいるってことなんかしら? ちなみに閲覧者数は100人ぐらいだった。まぁ、いいや。読まれるのは嬉しいことだ。

現在も図書館にて論文作成中。昨日の努力により今日は理解度も高く、比較的順調に進んでいる。ただ、大幅に書き直しているので草稿の完成は明日になりそう。ただいま息抜き中。

ふと思いついたことがあるので書く。
20代の頃、友人が私の思い通りの反応をくれなくてプンスカと腹を立てていたことがある。それを兄に話したところ「他人に期待したお前が悪い。人に期待しすぎず、物事は自分で決めて自分で解決しなさい」と言われた。まだ今よりずっと経験値が低く、価値観も狭かった私にとってガーンと来た言葉だった。以来、自分と他人とでは違う考え方を持っていて、期待通りの反応が得られなくてもそれは当たり前のことだと思うようにしている。
だけど、それをいつも実行できるかと言えばそうではない。
たとえば私にダンナはいないが、「ダンナが浮気してるみたいやねん…」と友人に打ち明けるとき、期待しているものは慰めだったり、一緒になって怒ってもらったりだと思う。なのに、「え、そうなんや。うちはラブラブやで」なんて言われる。もしくは「誕生日のプレゼント、香水がいいな」と言われ喜ぶ顔が見たくて用意したのに、実際あげたら「本当はバッグが良かった」と言われる。打ち明けた&相手を喜ばせようとした自分はバカみたいだし、軽くスルーされたことはかなり恥ずかしい。だけど、こういうことは得てして起こるもので、そういう場面に直面したとき私は「あぁ、期待した私がアカンかった。もっと強くならなくちゃ」と思う。

でもこういう行き違いはなぜ起こるんだろう? で、出た答えが2つ。

1.単純に相手がこちらの気持ちに気づいていない
2.気持ちに気づいていたとして、相手にとって私が深く慮るほどの人ではない

どっちも正解のような気がするなー。

さて。「強くならなくちゃ」はいいとして、正直なところ相手に対してガッカリした感情は拭い去ることができない。勝手に期待した自分が悪かったとしてもどうしようもない。今後の付き合い方を考えてしまうぐらいだ。こういうのも自分勝手ってことになんのかしら?と自分を戒めてみるけど、そこまで自分を抑えて今後も会いたい?と自問自答したら疑問が残る。まして私は感情的な人間なので、努力とは裏腹に許容量がかなり狭い。一度でも心底ガッカリしてしまう、もしくは心底怒るとその人に対する感情のリカバーがかなり難しい。

なぜこんなことを書いているかというと、図書館で一緒に勉強していた友人がこういう状況に陥っていたから。わが身に置き換えて考えたとき「私、心せまっ!」と思った次第。ちなみに友人は韓国人。日々外国人と時間を過ごす私たちは、そもそも同じ国民なら当たり前に持っているはずの“コモンセンス”を探すことから始まるので、こういう場面にはよく遭遇する。「人間関係って難しいねー」でこの会話は終わったんだけどさ。

あぁ、10分の休憩のはずが、いつの間にやら一時間も経っている。勉強に戻ろっと。
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めっちゃ嬉しいんスけど。

2010年09月02日 10時02分29秒 | Weblog
何を隠そう(!?)、明日は誕生日。37歳となる。

昨日、くたびれて帰宅したら日本の友人から手紙。「誕生日カードかな」と思って開けた。それはその通り誕生日カード、仲良しグループの寄せ書きだった。そしてそして、それに加えて

子供たちの寄せ書き

超嬉しいんスけど。

イラストと「おめでとう」のタイトルを3人の子供たちが描いてくれていた。生まれた頃から知っている子供たちからのプレゼント。「あの幼子もこんなことができるようになったのね…」という親戚のおばちゃんみたいな喜び。ものすごくホッコリとした気分になった。いやぁ、嬉しいもんやねんなー、こういうの。ニクい演出するなー、友人たちも。

迷わず壁に貼ったし、Facebookのプロフィール写真にもした。うぉーい、今日もがんばるでぃ。
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