チャ子ちゃん先生は蚕の一生を見て、蚕が人に声明を当て和えつくすところをみて「無条件の愛」を教わったと公言している
自分の命を他のものに与えてそれが自分の満足,愛なのだと人間は思わない
モノ言わぬ蚕が人にささげている姿は尊い、だからこそわが先人たちは蚕にいただいた無条件の愛を、きものという形の中で「使いつくして」その愛に報いるという行動に出ているのだと思う
無条件の愛は「与えたら与えたことを忘れる」というものだと思っている
与えられた方がそれをどう生かしていくかを考える
ところが
この無条件の愛を「与えなければいけない」と思っている人が多いのに気が付いた
どんな目にあっても「無条件の愛」で相手を許す。そういう風に考えて自分自身を愛さない
これって絶対違う
私たち人間は「無条件の愛」など人に与えることはできない
それを体験した
自分が失敗したから相手に謝る
こうしろああしろと言われれば、相手に愛を持つことこそが大切と思い、条件を付けない愛を注ぎ、いわれたことを黙ってする
そうすると相手はどうしていいかわからず、逆に無理難題を押し付けてくる
それでも引き金は自分の失敗だから、自分が悪いんだからと相手の要求を無条件に飲んでいく
この繰り返しが「いじめ」や「暴力」の原因になっていく
愛を注いでいるつもりが、相手に傲慢さという武器を与えてしまう、相手も自分の落としどころがわからなくなってる
悪循環
無条件の愛は自分自身に与えないと、自分が壊れていく
蚕と日本の先人たちの関係って本当の「愛」を知っている同志だったのだなあとつくづく思う