チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 567

2023年11月29日 08時09分51秒 | 日記

有田に行き旧東海道をそぞろ歩いた

街道は筋は「有田絞」の店が連なっている。どこでもそうだが街道に面した店は、入り口はもちろん、店は大きくあけられるようになっていて、そこの敷居に腰かけて、商品を見る家の構図になっている

作業場は店の奥で、そこには大きな蔵が二つ、三つ、店によっては五つもある大店がある

広重の五十三次の絵を見ると、鳴海有田の賑わいがいかばかりかしのばれるがーー今はひっそりと暖簾が風に揺らめいている

中にはデイサービスに姿を変えた店もある、また甘味処、レストランなど

時代の移り変わりというもののの容赦ない変貌に胸が痛む

 

もともとは大分の別府で始まった三浦絞りが、その主がこちらの終わりに持ってきたものだといわれているが、別府の温泉で湯上りに様に開発された絞りがココ鳴海有田に来て洗練されたともいう

それもひとえに東海道という街道筋にあることで、っ参勤交代の大名たちをもてなしたことから、洗練されていったのだろうか

京都の絞りが宮家や公家の人たちに愛されはんなりといた美に洗練され、こちらは武家や商人文化人たちに愛されたのだろう、藍が中心できっぱりとした美しさがある

美しい女人が湯上りの素肌に有松絞を着ている夕涼みの日本画は、今でも人々の心を打つ

結婚した女性は普通の浴衣ではなく、この有松の絞りの浴衣を着るのが憧れだった、という時代もあった。その姿が大人の女を思わせたのだ

 

有松の絞りやさんは参勤交代の大名たちへのおもてなしのため、家屋に贅を尽くしている。それはきらびやかではなく、家の作りはもちろん、柱、壁、障子、ガラス、畳、電灯、天井など日本家屋の粋が集められている。特に茶室の作り、戦争で焼けていなくてよかった!都心から思える。しかしおかまなどの金物は戦時の時供出させられたという。しかし先祖には賢い人もいて、美術品である鎌を土に埋めてき難を逃れている

此処にも戦争が文化を破壊する姿がある

 

よく絞りのきものはお茶室に向きません

というような文言を見ることがある。それはないでしょう?有松のこの茶室に有松絞の着物を着てはいけないなど無茶な

きものもその時代の文化を語ってくれる。わたしたちはきものを着ることによって、日本のあらゆる文化形態に近づくことができる

先人たちがきものを残してくれたことに感謝だ

江戸時代にできた山上の茶室に座り、きものを着ていることの幸せをつくづく感じた有松だった

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする