空海さんは自由奔放で豪快闊達そしてお茶目、好奇心が強く更に愛の深い方だったのではないだろうかと、ある時から信じている
そのあるときというのは
四国阿波の徳島に目と鼻のところに、一番所と、終わりの八十八番所を作ったこと、これは私個人の考えなので意味がないと思うが
「人は始まりのところに戻ってくる」
つまりいつも初心に戻るということを暗に示しているように感じた
そしてもう一つは
「この場所が日本の始まりだよ」 ということも示しているのではないかと
その証拠に忌部の一族はこの地に住んでいる 忌部の神様と中臣の神様がニニギノミコトについて高天原から降りてくるのだが、忌部は農工商林業、など日常の生活の職能集団の租であり、また宮中祭祀の担い手、中臣は政治経済を指導する役目という任務を与えられていた
その忌部の里が徳島だ
空海の研究家は多い
空海を神格化しいる方も多い
しかし「空海さん」と呼んで親しみを持つ一般の方も多い
今回初めて高野山に行けた。 先達の深沢菜月さんと丹生都比売神社の丹生宮司様とのご縁のおかげで、高野山では丹生宮司様のご案内を賜った
というのは空海が唐での修行を終え日本にも仏教の修業の場を作りたいと思い、布を投げたところが高野山であったという伝説がある
唐から帰国した空海がその場所を訪ね歩いたところ、二匹の黒と白の犬の案内でたどり着いたのが高野山の地主神の丹生都比売神社であった
神様のご案内で高尾山中に投げられた布の場所もわかり其処を起点として、高野山真言宗を開山
丹生都比売神社はすでにそれより100年以上も前に鎮座していたので、空海は高尾山に丹生の神様を招き入れ、神さまのご縁を大事にする神仏紳祇の修業の場としたのだ
このことは日本人の心情をそのまま表しているのではないかと悟る
神を自分の軸に置き、仏心で他人や生きとし生けるものに愛と優しさを持つ、このことが日本人そのものの姿なのだ
神はあの大祓の詞にすべて書き表されている
高野山で修行している僧侶達は、今でも仏典で修業し光になって神を敬う。という姿勢を貫き、丹生の神様に修行願望や修行の様子のお札をささげている
「高野山にいって」神をもっと自分に据えて生きて行こうと思った
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