チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 415

2021年03月12日 11時06分55秒 | 日記

新しいHPが出来る

そこのブログに引っ越しをするのだが、そこのブログは「中谷比佐子の着物ヒストーリー」にした

幼いころは病気がちだったが、学校が好きで(信じられない)熱が下がると学校に行きたがるので、着物を着せ#れていた

今考えると着物を着て小学校に通っていたのだ。それをいやだとは思わなかったのだろうか

そのころを知る姉や兄たちはもうこの世にいないので、そのころのことを聞くすべもないが

それは戦争が激しくなる前のことで、教える先生も着物を着て袴をはいていたように記憶している。昭和18年前後であろう。1943年くらいか。78年前だ。すごい前だね

送り迎えは女中さんがしてくれていた。この時代は中流家庭には「行儀見習い」と称して、女中さんが常時二人位はいて、若い女中さんは子供の世話をしていた。彼女が赤い別珍の足袋をはいていたのを記憶している。自分が何を着せられていたかは覚えていない。「きんしゃ」という音を覚えているので、錦紗の着物を着ていたのだろう。確か羽織に真綿を入れてあって、首にも真綿をいれた包帯を巻いていたように思う。この包帯も母の手作りで、今思えば羽二重なのだが、私は市販されている包帯にあこがれていた。つまり「お蚕ぐるみ」の着物姿でもあったのだ。気管が弱かったのだ(今でも弱い)

小学校に上がる前に「ご臨終です」をやっているので、母は細心の注意を私に払っていたのだと思う思う(黄泉の国に行きそびれた話はいづれ書くつもり)

 

着物を着て授業受けているのだが、それを冷かしたりいじめたりする学童はいなかった。むしろ親切に、休んで受けていない場所を教えてくれていたりした。

大好きな先生が欠席だったりすると、そのまま家に帰っていたこともある。一人で帰ってきたといって大騒ぎされ、女中さんが小さくなっていたのをみて、自分勝手にしてはいけないのだとわかったのがこの時。しかし自分勝手に動くのは今でも私の特徴だ。この幼少のころからの性格なのだと、ヒストリーを書いているときに改めて思い知った

 

確か姉が亡くなったとき、姪がアルバムに入っていたと送ってくれた写真の中に、そのころのものがあったような気がする。探し当てたらFBに載せよう

 

というわけで新しいHPのブログもお楽しみいただきたい

 

 

 


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