チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 5

2021年08月20日 09時53分25秒 | 日記
私は今記憶をたどって「戦争体験」を書いている
何故?
それはこれから起きる新しい世界に対して私たちがどういう生き方をするのがよりいのかの参考になると思うから

アメリカのバイデン大統領はアフガニスタンの米軍撤退をいきなり決めた。アメリカの近代兵器を残したまま、その結果アフガニスタン国の大統領は逃亡しタリバンに占領され国民は不安の中に暮らしている。そしてタリバンと同盟国の中共にもろもろの新兵器が渡った
其の兵器で台湾を攻め、日本の沖縄や尖閣諸島いや本土も視野に入っているかもしれない

昭和20年8月15日に連合国に日本国は全面降伏の意思を伝え、20年9月2日に敗戦の調印をした。其の18日間の間に北方領土はソ連(ロシア)に占領され、中国本土では多くの日本の子ども達がさらわれた(日本人の優秀な血を自国に残すため、のちに日本人が捨てていった子供を自分たちが育てたといって、日本国からお金をもぎ取っている。子供を中国人にさらわれた幾組かの家族を取材した結果の話だ)

この度も同じように日本という優秀な民族や国を我が物にしたくて、武漢からの細菌兵器をまき、その病の予防と言って毒入りワクチンを打つようあおっている。心ある医師や科学者が警鐘を鳴らしても日本の国民は耳を貸さない。それはまるであの大東亜戦争時と同じ

「大本営発表」を信じて日本は勝つと思っていた国民は99%だった。しかし目の前で爆弾は落ち焼夷弾で町は焼かれていてもなお、人々は「大本営発表」を信じた

母や姉たちは装飾品を提出され、家にある金食器銀食器、飾り物、アルミの弁当箱まで、正しく金目のものは供出命令が出て憲兵が引っさらっていった(のちに日本銀行に装飾品は隠されていたというニュースが流れた。放出品としてデパートで売られていた)

その時点で父はもう日本の勝ち目はないと思ったという
しかし今まで日本は勝ち戦しかしていなかったので、敗戦後の社会変化を見通すということが父にもできなかった。あまりにも情報が一方的過ぎたのだ。ラジオと新聞のみ。

現在は情報は満ち溢れている、しかし多くの人はあの戦時中のようにテレビ、ラジオと新聞のニュースを鵜呑みにしている。何年か前識者が「テレビばかり見ていると大本営発表を鵜呑みにいした時代と同じ目に合う」とおっしゃっていたが、いまがそうだと思う

だからこそ私はつたない戦争体験を書いてみようと思った
気高い日本がこの76年でどう崩れていったか、でもテレビや新聞に取り上げられない賢者たちがこの国をしっかりと守っている姿も見受けられる
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戦争体験 4

2021年08月19日 10時32分41秒 | 日記
天皇陛下の玉音放送が12時に行われるという回覧板が回ってきて、全員公民館に集まった。子供たちは炎天下の下石けりなどして騒いでいた。時間になると大人たちが口に手を当てて「静かにしなさい」という態度を見せたので、子供たちは日陰で休んだ

何を言ってるのか聞き取れない口調の放送が終わると、大人たちが笑ったり泣いたり天に手を上げて狂ったように踊ったり、その様子にあっけにとられている子供たちに、兄が「戦争が終わった」とつぶやいた。

私はある風景を思いだしていた
珍しく敵機を打ち取ったわが兵たちが、その燃える機体から落下傘で降りてきた米軍の兵士を捕虜としてとらえ、縄を巻き目隠しして歩いていた。そこへ子供たちが群がり「やーいやーい」とか汚い言葉を吐きかけ石を投げようとする子供もいた。捕虜に付き添っていた日本の兵士が、「何をするか、やめなさい」と子供たちを諫めてにっこり笑って去った。「アメリ兵」を見たのは初めて、まだ少年のように若かった

あの人たちもお母さんに会えるのだと思いほっとした

ひと騒ぎ終わると、家に戻って料理を作り、それを持ち寄って宴会が始まった。どこにあったのかお酒も出てきて、大人たちは解放された喜びの無礼講が続いていた

一夜明けると事態は一転し、連合軍が占領をして来て何もかも略奪が始まり、女は坊主になって男の格好をするようにというお達しが来た
その時父は
「昨日の放送は、日本は連合国に対して全面降伏をした、これから何日かの後本当の終戦の調印式がある。その時まで連合軍はまだ日本全土を占領しない、落ち着いて」
と村の人たちに話をして、今後の身の振り方を真剣に考えねばいけないと結んだ

他の家族の中には夫や息子が戦地に行き、無事に帰ってくるのかもわからない。今度は自分の身に危険がなくなったので、夫や息子たちの身の安否を真剣に気にするようになった。便りも全く届かないので、生きているのか死んでいるのか家族は気が休まることはない

父の仕事の再開、姉や兄の通学、私の病気治療もあり、一週間後にはまた父の実家へ戻った
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戦争体験 3

2021年08月18日 12時49分07秒 | 日記
とりあえず六人家族は父の実家の蔵の二階に落ち着いた
長い一日だった
朝六人が一つの食卓を囲み楽しく食事をした、しかしその場所は一瞬に消え失せ、生まれて初めて過ごす蔵の二階。小さな窓から夜空の星の瞬きが見える。その星を眺めながら私一人は早々に寝入ってしまった。みんなは母屋に行って、今後んこん後のことを話し合っていたらしい

その結果か翌日から柿山の山小屋にしばらく住むことになった
薪を拾って湯を沸かし、たらいを買ってきて行水、煮炊きするかかまどは小さく、母や姉は里に下りて父の実家の台所を使って家族の食べ物を作って持ってくる。

私はあの防空壕での爆風にやられていてずっと寝たっきり。姉や兄はまだ軍需工場へ汽車で通う。夕方家族の顔がそろうとみんなほっとした
母は昔から父の親戚、母の親戚に心砕いた付き合いをしていたので、皆さんがお米や野菜を運んできてくれて食べることには全く不自由はなかった

その間私の病状はだんだんひどくなり、母のひくリヤカーに乗って医者がよい。しかしその医者は私の病状は腎臓が弱っているというのは判断できても、それに対応する治療ができない。母は意を決して漢方で治すことにし、勉強を始めたとのちに姉が教えてくれた

季節が夏だったので「唐もろこしのひげ」を煎じて飲まされたり、スイカを毎日半分、白身の魚は父が川に行ってつってく

兄や姉たちは爆弾の後の我が家に立ち寄り、へこんだ薬缶や鍋かま、壊れていない茶碗やグラスや箸スプーン。防空壕に入れてあった無傷のちゃぶ台、重箱そして本なども少しずつ運んで来て、小さなちゃぶ台を6人が囲んだ日は嬉しかった。やっと坐れた私には枝豆をつぶしたスープが、家から掘り出してきたグラスに収まっていて、緑色の美しさを今でも思い出す

そしてその夜、村人たちの知らせで外に出ると、遠くの空が真っ赤に染まっていた。大分市中に焼夷弾が落とされ町中が火の海になったのだ。誰も一言も声を発しない。真夏なのに急に寒くなり、みんな襟をかけ合わせながら空を染める火の動きを無言で見つめていた

次の朝
この村も危ないかもしれないもっと山奥へ移動、ということになり、今度は全員トラックに乗って久住高原に移住。ここは父の書生をしていた人の家で、ご家族がよくしてくださったので、私の病状も回復に向かい、近所の子供たちと遊ぶ元気も出てきた

しかしこの地にも疎開で来る人たちが多くなり、食量もままならなくなって、子供たちはみんなお腹を空かしていて、畑の作物を失敬する子も多く、人心が食べ物のために乱れてきていた
「あの子がトマト盗んだ、あの子が卵盗んだ」っと大人たちが騒ぐので、わが世話焼き母さんは
毎朝大きなかごをもって、農家を回り公民館に作物を集め、農家の人が値段をつけて、欲しい人は買っていくという制度を作ったのだそうだ。(直売制度のはしり)
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戦争体験 2

2021年08月17日 08時26分36秒 | 日記
夏の初め我が家の玄関に爆弾が落ちた。防空壕に入っていたのは両親と私それに憲兵さん。爆音と爆風の強さで生きた心地がしなかった。警戒警報解除のサイレンと共に防空壕から出ようとしたが、戸口が全くあかない。体格のいい憲兵さんが中から必死に開けようとするがびくともしない

防空壕の中は4畳半くらいの広さで、電気を引いてあり、ランプもある。水や乾パン、缶詰、お茶の道具もそろえているので餓死することはないが、窒息死するかもしれないという恐怖が大人たちにはあったようだ。

こういう騒ぎの中私は母の膝で眠っていたらしい。後で父に聞いたら「これも運命、戦地で戦っている人に比べたら静かに死ねる、其れだけでもありがたい」と思って静かに目をつむって祈っていたという

軍需工場から引き揚げてきた姉や兄が防空壕の扉が開いていないのを見て、近くにいた男たちに手伝ってもらい扉を開けてくれた。助けられ外に出てみた景色は、だだっ広い土地と土埃、家は、家は吹き飛ばされ跡形もなく、防空壕の周りに瓦や柱土塀などが固まって載っていたのだ

防空壕を出るとすぐ私は母の手によって目隠しをされた。そして常に母が私の手を握っていて、また時にはおんぶして歩く。どこに向かっているのかわからないが、家族は一緒に走っていた。ときどき憲兵さんが私をおぶる。しかし母の声が耳元でするので私は安心してその背中で眠っていた

途中どこで調達したのか兄がリヤカーを持ってきて私をその荷台に載せたが目隠しはそのまま。憲兵さんも自分の家に帰るということで「比佐子ちゃんまたね」と耳元でさよならを言ってくれた。私は黙って手をひらひらさせていたのだそうだ

何時間か歩いて止まった。目隠しが外されあたりを見ると稲田、遠くに山が見えカエルが鳴いていた。とりあえず父の実家に身を寄せるという。家が吹っ飛んでないのだからまずは家族が身を寄せる場所が必要だ

あぜ道に座り家族六人リュックから出した食べ物を広げて黙々と口に運ぶ

何故母に目隠しをされたかは中学生になったとき姉が教えてくれた
急な爆撃だったので防空壕に入れぬ人たちが爆風に飛ばされ木の枝にぶら下がっていたり、道路には亡くなった人たちが転がっていたのだそうだ。その屍をよけながら歩いていたのだという。姉たちが見たものは地獄絵だったのだ

家族が同じ思いで末っ子の私には地獄は見せまいとした深い愛に今も感謝している

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戦争体験 1

2021年08月16日 10時20分13秒 | 日記
チャこちゃん先生は今まさに世界は戦争中と受け止めている
武器は持たないが細菌兵器を使われていると思う

敗戦日が9歳だったので大人たちの動きをかすかに記憶している
父は戦争反対の意思を早くから公に唱えていたらしく、我が家には毎朝憲兵さんが出勤?していた。まだ若いお兄ちゃんで私とすっかり仲良くなり、よく遊んでくれていた。まるっきり私の家来のように仕えてくれていた。(戦後も訪ねてきて世話焼き母さんは、彼の結婚相手も見つけて親戚付き合いになった)

姉と兄は軍事工場に駆り出されていて、父は幽閉の身なので書斎にこもりっきり、お手伝いさんたちは空襲が激しくなったので皆生家に戻り、母は一人で家の掃除や洗濯、食事作り、保存食を作ったり大忙しだった。それで庭に防空壕を作るのもその憲兵さんがほとんど一人で作ってくれた。近くに力になる若い男はみんな戦地に赴いていたのだ

我が家も上二人の姉がもし男の子であったら、年齢からいって戦争に駆り出されていたであろう。兄は14歳だったので、少年兵としては一つ年が足りなかった。その性別と歳のおかげでわが家族は戦争で1人も欠けることがなかった

ある日父と兄それに憲兵さんと私は父の恩人の屋敷に行き、そこでお昼をご馳走になり、帰途に就いた。そこへ空襲警報発令、近くの林の中に逃げ込んで隠れた。兄が「B29だっ!」と叫んだら憲兵さんが「しー」と声出すなと合図。飛行機まで声が聞こえるのだと感心した

真っ青な空に銀色の機体が美しいなあと私は見とれていたら、機体がいきなり光りばばばーんと、耳をつんざく激しい音
「動かないで!機銃照射だからっ!」
息を凝らして地に伏せる。よそ行き用のワンピースが汚れるのが嫌だと強く思う私
暫くして音も消え、機体もいなくなったら、空襲警報解除のサイレンが鳴り私達はその林を出て道に戻った

「警戒警報もなくいきなり爆撃だから、もう戦争も終わりだな」と父がつぶやく。それは昭和20年の6月の終わりだった。後でわかったのだが、私が林と思っていたのは実は大麻の畑だったそうだ。街中に住んでいても、ちょっと足を延ばせばあたりは畑が一面に広がっていた戦前の風景

家に帰っても、土に伏せた怖さより、機体の美しさを口早く母に告げる私の頭を父は黙って撫ぜていた




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降伏文書に調印した日(終戦ではない)

2021年08月15日 11時50分07秒 | 日記
本日8月15日が「終戦記念日」として多くの人に認識されているけど、本当の終戦は9月2日。8月15日戦艦ミズリー号で日本国は連合国に「降伏文書」調印した

8月15日は「ポッダム宣言受諾」の意向を連合軍に通告し、それを昭和天皇陛下が国民に前もって伝えた、というのが正式。だからこの時点ではまだ戦争は終わっていなかったわけ

その後「サンフランシス講話条約」が連合国との間で締結され、正式な終戦となった。それが9月2日。この締結に参加しなかったソ連とは「日ソ共同宣言」中国とは「日中共同声明」をして、賠償問題、戦争に関する問題を一括処理することで、この戦争の責任と義務は日本国は果たしている(いまだにぐずぐず脅されているけどね)

8月15日を終戦と思い込んだ日本軍の隙をついてソ連は北方領土に8月18日に乗り込み奪いとった。日本は戦争が終わっていると思っていたので、対戦は防戦のみとなっていたし、戦争放棄と取られてやすやす北方領土のソ連占領を許してしまった

以上の真実を知ったのは、昭和40年以降。我が家に国後島出身の女性が寄宿するようになり、彼女らの北方領土問題に首を突っ込まざるを得なかった
生まれた土地から無条件に追い出され、其れに関して当時は国も責任は取らず、人事のような対応しか受けとれず、島を離れた人たちは不安な生活を送っていた

私達夫婦が出来ることは、彼女たちの職を探し、精神面に落ち着きを与えることしかできなかった。そして改めて北方領土がなぜソ連に奪われたのかの真実を知ったとき、本当の戦争終結は8月15日ではなかったということも理解できた

日本人の「人の良さ、優しさ」というものが時として国民を不幸にする
命令系統がしっかりしている時はいいが、崩れると自分で考えられない人間を作っているのも日本。それは現在の社会でもそう。

この度のパンデミック、オリンピックにも、日本人の人の好さ、優しさ、優柔不断、自分を責める癖がどのようにこの国を変えていくのか、大きな間違いが起こらないように今こそ、自分で考える自立の精神が大切。人を責めず、もちろん自分もず責めず、俯瞰して物事を考え、処理していく日本人にならなければと思う

それにしてもわきが甘く、いろんな失敗があっても、日本という国は人品卑しからぬ国であることに間違いない。不思議な国だ
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着物が繋ぐもの 446

2021年08月14日 10時50分30秒 | 日記
兵児帯姿は西郷さんそして父その他のお父さんや青年
昔の男は角帯はあまりしなかった
角帯は礼装用とか商人、渡世人が使っていた
東映の仁侠映画がはやってから「角帯」が男着物の前面に登場してきたように思う
今では浴衣まで角帯だもの

今はもうないけど竺仙には浴衣に「燕帯」という帯があった
木綿で出来ていて両端には芯が入っていなくて、前は角帯後ろは兵児帯になるというアイデアもの。先代の発案であったらしい
つい最近現社長に「燕帯はないの?」と聞いたら、今はね説明しても理解できないのでね作っていないとおっしゃる「惜しいなあ」浴衣にはぴったりだし、着物初心者にはありがたい帯

そうだ兵児帯
あるとき舞台の衣裳担当を務めていて、さえない男がわが子おぶるのにどうしたらいいかと、演出家が頭を悩ましていた。
そのとき口出したチャ子ちゃん先生
「兵児帯で子供をおぶり、下駄はいたら感じ出ますよ」
さすが松竹衣裳兵児帯をすぐ取り寄せ、子供をどうおんぶするかのレクチャーが始まった

子供の背中に帯を当て、子供の手の両脇からオブる人の方に布を持ってくる。胸の前で布をばってんにして、後ろに回し子供のお尻をしっかり包んでもう一度布を前に持ってきて結ぶ。兵児帯一本が子供を大人の背に括り付けるのだ。この安定感はすごい
そしてちびた下駄をはいた男は、何の説明もなく悲しき男に一丁上がり!
演出家も役者も大喜び

おぶったことはないがそういう姿が当たり前の景色の時代があった。母と子は常に一心同体だ。
母と子ともに絹の兵児帯でつながっているので、いまさらながら気持ちよかったであろうことは察しが付く。

子供たちはその兵児帯を家から持ち出して、繋いで結んで輪を作り「電車ごっこ」をして遊んだ。どこかのお姉さんのハンドバックが車掌の切符切り、運転手の帽子はお兄ちゃんの学生帽。お客さんは色紙を切って、色によって行き先が決まる。子供たちは遊びの天才、「遊びにけりと生まれけり」だ

お父さんの兵児帯がいろんな役目をしていたのだ

お相撲さんもほとんど兵児帯、ぐるぐる巻いて挟み込むだけ。またやくざの親分も兵児帯愛好者が多い。総絞りの兵児帯は超高価で、それを巻いて歩いていると「おお」と引く人も多かったであろう。現代人のネクタイと同じ位置を占めていたのかもしれない
それにして総絞りの兵児帯は今のおかねで言えば100万円はくだらない高級品

古着屋さんでは兵児帯の意図が分からず何千円で取引されているようで、見つけたら購入するのも悪くない。それでおんぶして子供との体温交換を楽しむのも悪くない

一昨日聞いた話だが
大水に流された親子、確りおんぶをしていた母と子は助かったが、前に抱いたいた子供は流されたそうだ。母の知恵が子供を救った

戦後は兄の兵児帯は姉たちのブラウスになっていたが結構お洒落だった
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マスクでラジオ体操

2021年08月12日 10時35分37秒 | 日記
解せない
ラジオ体操の時間に公園に行ったら、今日は涼しいのでかなりの人が集まっていた
そして99%の人がマスクをつけて手足を動かしている
苦しくないのかな?
朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸うための朝のラジオ体操ではないんかしらん

自分が吐いた息をまた吸ってということになりますでしょう?マスクは
そう考えたらマスクをする愚は、自分をおろそかにしてしまうことになる

本日朝、フエイスぶっくでそのようにコメントしたら
長年の友人が「仕方ないでしょう?」と言ってきた
そう
いま日本人はみんな「仕方ない病」にかかっている
テレビで新聞で言われるとおりの行動を起こしている
言われた通りに行動をしている。絶対自分で調べない。こういう民族にしようともくろんだ「人」はもう少しで日本人を家畜にすることが出来る
家畜は与えられた餌をただ黙って食べ、命を繋ぐ。考える能力は必要がない。あたえられたことだけをやっていれば生きていける。しかしそれは自分のために生きているのではなく、いづれはえさを与えた人たちに食べられるためだ

目前に迫った家畜の世界を国民がひっくり返すかえすことが出来るのか?
ワクチンを国民が打ち始めて逆にコロナ患者が増えている
その理由を心ある医師が説明している。私は親切ではないのでこのブログを読んだ方はご自分で探してほしい。テレビや新聞には絶対のらない説明だ

ただ日本人の体は「免疫高く」出来ているので、他国のような悲惨なことにはならないであろうと、希望を少し持っているけど、世界一農薬使用国、世界一添加物使用国、世界一電磁波器具の保有国となると、ちょっと心配

自然豊かな浄化作用も化学兵器に適わない状態になりつつある
自分自身を守ることは、日本を守ることにもなる
どうかテレビ新聞の記事をうのみにせず、ご自分で調べ、納得したら行動に移してほしい。羊飼いの言うとおりには動かない狼でいたい
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戸定邸

2021年08月10日 10時17分52秒 | 日記
松戸にある戸定邸に行ってきた
徳川昭武さまの私邸
今回四回目だが、なぜかひどく惹かれている
ふと思い出していきたくなる屋敷だ
それが今回理由が分かった
この度は松戸でカオリというレストランを営む友人のセッチングで学芸員の方の説明付き

これまで疑問だったことを質問できて、ますますこの屋敷が好きになった
昭武さまは29歳で隠居、この戸定邸を2年かけて建築。細部にわたり自然の命を取り入れている。明治14年から着工、2年かけて作り上げたという
かねて疑問であったことが解けていくうち、日本の建築美学の奥深さに感動する

13歳で将軍名代という大役でパリを訪れ、ナポレオン三世に敬愛され、しかもパリ万博では諸外国の党首たちの尊敬を集めている

それは堂々とした武士魂、そして何百年と続いた指導者としての遺伝子、日本人の美学もある
その証拠に日本パピリオンでは、大好評で今の金に換算すると8億円の売り上げを作っている。薩摩の画策で薩摩からの出品もあったが、ナポレオン三世は幕府を日本国の代表として扱った
それだけ諸外国から日本国乗っ取り劇が盛んだったのだ。そこを将軍名代として君臨できたことは、しかも数えの14歳の少年がやってのけた日本人魂はあっぱれというしかない
しかも日本は「グランプリ」までいただいている
それが与えられた最も大きな要因は「養蚕技術」であった

フランス語も話せ、英語も通じる頼もしい名代であった

その後も二度の留学もあり、西洋の文化を身に付けているが、この戸定邸は日本の美学の総決算。それも質素な感覚の中にいかに手の込んだことをしているか、職人たちが自らの腕の限りを尽くして作り上げた建築でもある

「何かいいな」という感じの中で過ごしていたが、一つ一つの疑問に肩えていただいた今回、この屋敷のすごさは日本美学そのものと持った。しかも私邸なので家族が日常に暮らしている
こういう家庭が日本にあった

きっと他にもある
ただ古からと壊してしまう前にちょっと待った!柱一つ、壁一つを点検し、そこに携わった職人たちの魂を感じたい

本当に美しいものは普通に見える。しかも使い勝手がいい

松戸市への寄贈は昭和26年。松戸市戸定歴史館 戸定邸 月曜日休館
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着物が繋ぐもの 445

2021年08月09日 08時05分48秒 | 日記
オリンピックが終わった
選手たちの真摯な活躍ぶりはみんなの胸を熱くした
その結果は、アメリカ、中国に次いで3位のメタル数だそうだ
日本の上にアメリカと中国がいることが意味深だが今日はそれには触れないぞ

宝塚の生徒さんたち、民謡の方々、さすがに常日頃着物で活躍しているだけあって、着物がもう皮膚の一部のようで涼やかであった

着物が繋ぐものは静と動のバランス
着付け方ひとつで大きな動作も可能だし(私は見ていなかったが足を踏ん張って旗を持つことが分かっているので、小池知事は裾をゆったりと着付けていたそうだ)臨機応変の着付けが尊い

宝塚の生徒の袴の丈が短いという批評があったが、あの袴の丈が一番美しいとチャ子ちゃん先生は思う。しかもあの丈は宝塚の決まりでもある
袴の働きの本来は動きやすさが重要視されている。あの恰好でボール投げや徒競争もしていた戦前の女学生。なぎなたの訓練も袴。その時誰もぞろりと袴は付けない。
袴は着物ではなく、活動着である。あの姿で自転車に乗っている姿が昔の女学生だ
袴の丈一つとっても、日本の歴史を垣間見ることが出来る

静と動を使い分ける着物の多様性を私達はもっと理解したい
日本の盆踊りは浴衣で踊るから美しい
袖口から覗く腕の色っぽさ、運ぶ足の軽やかさは、浴衣の裾からちらりと出るから美しい。自粛で盆踊りや花火も中止になっているが、政府のやることはすべてが中途半端

昔からこの日本は民衆の方が賢い。民衆のワンネスの感覚がこれからもきっと日本をリードしていくと思う。
オリンピック後は民衆の知恵がこの国をリードしていくのだろう

日本人は勤勉と言われているが、賢いので何でもできるが、本来は「楽しい、嬉しい、興味シンシン」と暮らす民族

変に苦しんだり、いかったり、恐れたりは苦手なはず。自分の本心を見つめて暮らそう。着物の持つ静と動、なんでも受け入れ楽しむ心、これを機会にきものを着ませう
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