義仲の周辺で、九里と関係があったのでは…と気になっている人が何人かいる。
wikipediaによると、
【源 義平】(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%B9%B3
その中の「逃避行」の欄に、近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」の名前が一族として挙がっている。源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。
兄弟が同じ側に立っているとは限らないのだが、この周辺に生きていた事は、確かだ。
もう少し、調べてみると、
重成の父は、重実、祖父は重宗である。
重成の曽祖父は、定宗である。
定宗は、源満政の孫にあたる。
定宗の母は、藤原斉信の娘である。
【源重定(貞)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E8%B2%9E
角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
【備考】 比牟礼神社あり・カ22661嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)
もしも比牟礼神社の代官が重定であったならば、80歳は過ぎていると思う。
長生きだったようなので、可能性はゼロではないと思う。
つぎに、義仲の兄である【源仲家】である。
【源 仲家(みなもと の なかいえ)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E5%AE%B6
平安時代末期の河内源氏の武将。八条院蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。
久寿2年(1155年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。ただし『平家物語』は六条院蔵人としている。
治承4年(1180年)5月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた>。のち以仁王らと奈良へ向かったが、5月17日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。
前出の義平と仲家はいとこ同士であるが、大蔵合戦の時は、敵対関係にあったらしい。
以仁王と共に活動しているため、九里のことを知っている人かもしれず、気になっている。
wikipediaによると、
【源 義平】(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%B9%B3
その中の「逃避行」の欄に、近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」の名前が一族として挙がっている。源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。
兄弟が同じ側に立っているとは限らないのだが、この周辺に生きていた事は、確かだ。
もう少し、調べてみると、
重成の父は、重実、祖父は重宗である。
重成の曽祖父は、定宗である。
定宗は、源満政の孫にあたる。
定宗の母は、藤原斉信の娘である。
【源重定(貞)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E8%B2%9E
角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
【備考】 比牟礼神社あり・カ22661嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)
もしも比牟礼神社の代官が重定であったならば、80歳は過ぎていると思う。
長生きだったようなので、可能性はゼロではないと思う。
つぎに、義仲の兄である【源仲家】である。
【源 仲家(みなもと の なかいえ)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E5%AE%B6
平安時代末期の河内源氏の武将。八条院蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。
久寿2年(1155年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。ただし『平家物語』は六条院蔵人としている。
治承4年(1180年)5月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた>。のち以仁王らと奈良へ向かったが、5月17日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。
前出の義平と仲家はいとこ同士であるが、大蔵合戦の時は、敵対関係にあったらしい。
以仁王と共に活動しているため、九里のことを知っている人かもしれず、気になっている。
頼政とのニアミスも。それにしても関係者は入り組んでますね。