頼朝の実の妹である「坊門姫」は、後藤実基に育てられたという。
後藤実基のwikipediaより
藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子として誕生。
京において源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長男・義平に従軍する。乱の後の動向は明確ではないが、『平治物語』によると京において義朝の娘・坊門姫(後に一条能保室となる)を養育したとされる。
治承4年(1180年)に義朝の遺児・頼朝が挙兵すると、養子・基清と共にその麾下に参加。平家追討の戦いでは源義経軍に加わり、屋島の戦いに際しては、平家軍が海上に逃れた後にその城塞を焼き払い、反撃意欲を絶つという活躍を見せている。
その実基の養子が後藤基清となる。
後藤基清
生没年:1155?-1221
父:佐藤仲清
義父:後藤実基
通称:左衛門尉
従五位上
検非違使
左衛門少尉
1185 屋島の戦い
-1199 讃岐守護
播磨守護
1221 承久の乱
正室:
基成
1181-1256 基綱(美作後藤氏へ)
基重(播磨後藤氏へ)
太田基連
ここからずっと祖まで遡ると意外なことがわかった。
世界帝王事典からである。
後藤公則
生没年:
父:民部少輔 斎藤伊博
義父:河内守 源章経
駿河守
従四位下
正室:
公員
兼則
忠念
則経
斎藤氏。
藤原公則のことと思われる。つまり藤原利仁流となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%89%87
後藤氏の系図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F#cite_ref-1
章経は、佐々木氏となった人物だろうか?
章経の父は源兼宣となっているので、別人のようであるが。。。
そこで、章経の別名である佐々木義経の Weblio辞書より
(源扶義の成頼の息にあたる)
佐々木 義経(ささき のりつね、長保2年(1000年) - 天喜6年(1058年))は、平安時代後期の武将。初名は章経(あきつね)。宇多源氏佐々木氏の祖。下級貴族である兵庫助・源成頼の子。官位は従五位下・兵部丞。兵部大夫と号す。
===*===
後藤氏は中原氏と共に一条家の家司のような仕事についていた。同僚だったと思われる。
三左衛門事件となった「対源通親」に共に立ち上がった仲間でもある。
その藤原実遠の後室として入ったのが真野宗連の先妻でもあった「妙勝」。
つまり上記の後藤実基の母か、継母となる人物が、真野氏に嫁いでいたことがある女性であった、という事になる。
妙勝の所領は、巡り巡って真野宗明が譲り受けることとなる。
この真野氏は三浦氏流で、佐原氏でもある。
藤原実明の孫公雅の妻が三浦(佐原)盛連の娘となっている。(息は公名)
さらに矢部禅尼が妻として入ったのも盛連である。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%9B%9B%E9%80%A3
矢部禅尼
建久5年(1194年)2月に13歳の泰時が元服した際、源頼朝の命により三浦義澄の孫から良い娘を選んで泰時と娶せる事が決められる。この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、義澄の嫡男義村の娘(のちの矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年長男の時氏が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男時実を建暦2年(1212年)に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでも無く、理由は不明である。
その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。
嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。
北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。
康元元年(1256年)4月10日、不食の所労により70歳で死去。時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。
再婚相手の盛連は時氏との血縁を利用して側近になって上洛しているが(『明月記』嘉禄2年正月24日条)、盛連は乱行で京都中に知られており、在京でも乱暴行為で知られており時氏を悩ませたと伝わる。
===*===
三浦義明ー佐原十郎左衛門尉義連ー太郎左衛門尉景連ー真野五郎左衛門尉胤連…その子孫 真野宗明
…の部分に、真野時連(新宮時連)が入るようなのであるが。。。
時連は矢部禅尼と盛連の息である。
さらに上記の系図の胤連はwikipediaでは胤義の息となっているのだが…
複雑ではあるが、三浦氏が西園寺家とも一条家とも何等かのつながりがあったことになろうと思う。
一条家にも、藤原秀郷流の後藤実基の父にも「実遠」がいるので、ちょっと混乱している。
年代を確かめる必要があると思うが、上記は後藤実基の父のことと思われるが。。。
蘆名氏へ繋がってるかも?ですね。
蘆名氏って家康のブレーンにも繋がるんでしょうかね〜?知識あるわけですね。
佐原って場所も好きで佐原氏っていう文字から蘆名ですから嬉しいです。
あと猪苗代湖も父に連れられて行き、そして数年前にも行ったんですよね。超ワクワクします。
福島の一宮には行ったような行っていないような?
なんかあるんでしょうね。
今年は熱田神宮行きたいんですけど、それを妨害している何かを祓う切符があるのか?ちょっと期待しています。
ちょっとここに関係ないのですけど、反正天皇が気になってましてね。歯の神みたいに思ってまして。歯の神調べてみたら熊本あるんですよね。玉名だからドンピシャです。で和仁氏ってのが菊地氏と関わるんですよね。
それからお城は田中城で田中の神も追ってます。
それからもう一個、和邇と言ったら小野って思うんですけど小野へも養子で入ったような情報もあり今興奮中ですよ。和仁氏っていつ頃からいたのか?岐阜と岡山と大阪なんでおそらく古墳で言うと吉備系になるんでしょうね。大阪だと反正さんの柴の付く神社がある辺りが王仁の文字が地図に出ましたよ。大阪と玉名繋げると卑弥呼も出てくるかもしれませんよ!
近くに大塚古墳ってあるのであれがまた超気になってます。最近大塚ばっかりでして。東京とも接点ありそうに思いますし、逆に極端な事言えば大塚と付くと吉備系だったりして?元は円墳で全盛期は前方後円墳もありかな?出土品では刀子辺りが出てくると同じ系列かも?です。各地の小野調べましたけど、和邇からの変化とみたら見えてくる事あるかもしれませんね。
治水関係も出来るはず、人柱使わないでもね。
和邇氏関係なので春日の神さんも喜んでいるといいですが。
その天海を産んだ女性。
足利義澄のお世話役に配した女性が蘆名盛高の娘であったという本があり、舞台は九里氏の近江国水茎岡山城。つまり九里が義澄を匿った城です。
「考証武家の世界」千人社
でも、年代が合わないと思うのです。
1511年に亡くなった義澄。1536年あたりに生まれたという天海。
義澄の息ならばありえそうですが…
こちらのプログに出会う前は年代や他の関係者との関係も情報通りしかないと思っていましたけど、どうも多少の誤差やそれぞれの代の違いも記載者の思惑もありそうなのもびっくりでしたよ。
蘆名系は多分大柄の方だと思うんですよね。天海は小柄なイメージ。同じ家系に両方出る可能性も最近ちょこっと考えてはいますが、役割は別なのかも?
清正とかも知識あったのでしょうね。
それからもう一つこの時代なのか?私はよく分からないんですけど、父の周りはどうも葛西氏が絡むんですよね。さっき調べていたらWikiさんの情報では、1190頼朝の関係で選ばれたのが後藤基清さんで残り6人がまたドンピシャの一族名でして三浦義澄、千葉胤正、工藤祐経、足立遠元、葛西清重、八田知重、この方々なんか文字見ただけでワクワクしてきましたよ。知識の共有はあったでしょうね。