結婚前の名が高階栄子。高階家は受領(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者のこと)で、はじめ後白河法皇の側近であった【平業房】に嫁ぎ、5人の子供を産み育てている。業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命接待に努めた気配があるそうである。
治承3年(1179)平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。
その後、彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。
以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という政治体制の中で権勢をふるった。
以上がweb情報からである。
手持ちの【後白河天皇】美川圭著 ミネルヴァ日本評伝選 からも少々ご紹介したいと思う。
建久元年(1190年)源頼朝上洛
頼朝は十一月七日、ついに上洛した。後白河は密かにその行列を、鴨川河畔の牛車から見物した。…
九日、申刻(午後四時頃)まずイン御所六条殿に向かい、そこで後白河と三十年ぶりの再会をする。…
二人は他人を交えることなく、暗くなるまで語り合ったらしい。このとき後白河は六十四歳、頼朝は四十四歳である。二人はほぼ親子の年齢差があった。
…十三日になると、頼朝は後白河に、砂金八百両、鷲羽二櫃、御馬百疋を、後鳥羽天皇(11歳)には龍蹄(駿馬)十疋うを贈った。
また、十六日には、鶴丸蒔絵唐櫃に納められた桑糸二百疋と紺絹百疋が、頼朝から後白河寵愛の丹後局(高階栄子)に贈られた。
~~と本にある。
頼朝も無視できないほどの力を持っていた高階栄子。
そしてとうとう、大姫入内の話も持ち上がるのである。
入内問題に関しては、web wikipediaの大姫に詳しかったので、そこから抜粋したいと思う。
源義高が殺害された直後の元暦元年(1184年)8月、後白河法皇は台頭する頼朝との関係を強化すべく、摂政・近衛基通に頼朝の娘を嫁がせる意向を示した(『玉葉』同年8月23日条)。
近衛家には頼朝の乳母である比企尼の外孫である惟宗忠久(島津氏の祖)が仕えており、法皇や基通が惟宗忠久を介して頼朝周辺に働きかけた可能性がある。
しかし、基通に代えて叔父の九条兼実を摂政として推す意向に傾いていた頼朝は最終的には拒絶している。
建久5年(1194年)8月、頼朝の甥で都の貴族である18歳の一条高能が鎌倉へ下ってくる。17歳になった大姫が病床から一時小康状態になった時、頼朝と政子は高能との縁談を勧めるが、大姫は「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と一言のもとに拒絶。頼朝はそれ以上話を進める事をあきらめる。
頼朝はその年の10月から上洛の準備を始め、翌建久6年(1195年)2月、政子と大姫・頼家らの子女を伴って京都へ上る。
表向きは東大寺の落慶供養であったが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていた。
頼朝は宮廷の実力者である土御門通親と丹後局にさかんに接触を図る。
3月29日(5月10日)には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をし、その従者たちにまで引き出物を送った。
前回の上洛では胸襟を開いて語り合った盟友の九条兼実には一度しか面会せず、雑事ばかりを語って政治的な話はせず、贈り物は馬2頭のみであった。
兼実は娘がすでに後鳥羽天皇の中宮になっており、土御門通親・丹後局とは政敵であった。
頼朝は妹婿で重用していた一条能保との参詣の予定も突然反故にし、丹後局に同行している。
頼朝はかつて後白河法皇の死去の直前、院近臣の通親や丹後局が勝手に院の荘園として分捕ろうとした国衙領を、兼実とともに断固たる処置で元に戻した。
丹後局と接触した頼朝は、この兼実の決定を突然取り消したのである。翌年、兼実は一門と共に失脚する(建久七年の政変)。
頼朝は多大な犠牲を払って大姫の入内を計ったが、大姫は病から回復する事なく建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去した。享年20。
大姫入内運動は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらした。
頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御となるも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。
それまで常に冷徹な政治家であった頼朝のこれらの最大の失策は父親としての思いからとも、娘を天皇の后に立て自らが外戚になるという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されている。
~~繊細な大姫。二十歳でこの世を去ることになり、あまりに不憫である。~~ 義高11歳と大姫6歳の時の出会いが、あまりに楽しく輝いていたのだと思う。
親の不純な動機とは別に、大姫は本当に初恋に命を費やしてしまった。
義高を命により処刑した者を処罰せざるを得なくなった頼朝。
父は、娘に右往左往させられる。女房の命により。かな?
もうばれてはいると思いますが、かなりの歴史音痴です。
自分のルーツを知りたいがために、調べ調べつつ進めているところなのです。
高階氏、藤原季仲の妻であり、藤原實明の母は高階泰仲女なので、気になる氏です。
❶の実明…と(私は言っているのですが、)❷の実明(閑院流)…どちらかが、九里の祖と関係していそうで、探っております。
何か情報がありましたら、ぜひぜひ教えてくださいませ!