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大坂 両替商 紀伊国屋正三郎 と その周辺(2) 有川十右衛門(矢九郎の兄)・石河確太郎

2021-01-03 | 九里バラバラ情報



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紀伊国屋庄三郎は嘉永四年銭相場引立てにつくしたことで賞せられ、また元治元
年川淡および砲台築造費を献金したことで賞せられている。中級の両替屋であっ
たろう。姓は九里(久里)で、のち五代の嗣子となった五代龍作はここの息子とも甥

==*==

上記の部分の「川淡」はgooglebooksのいたずらで「川浚」かも知れないと教えていただいた。
川浚は、大層お金がかかる事業だったようだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%B5%9A%E5%86%A5%E5%8A%A0%E9%87%91

この事業のみならず砲台築造費を献金。中級の両替商でも、世の中に寄与しようという大坂商人! 

その後、五代友厚と出逢ったことで大坂をより大きな「商いの街、金融の街」へと変貌させる事業にも協力し始めることとなったのである。
この紀伊国屋正三郎の店は「紀正」と思われる。
その紀伊国屋正三郎は【五代友厚関係文書目録(大阪商工会議所)】によると、(現在気が付いた所のみで、後々書き加えていこうと思う。)

有川十右衛門書翰
明治五年(1872年) 三月七日 昨十月中当官より紀伊国屋正三郎方へ返金致したる一万両の儀を書加へる
明治五年 九月   紀伊国屋正三郎、小松家に関する金銭出入覚

石河確太郎書翰
明治○年 三月二十二日 昨日願上の綿代金拝借の件聞済下され有難し、紀正方払分九八両三歩だけ此者へ渡されまじくや
明治○年 八月二十九日 紡機の件ご配慮下され、又紀正殿へ引き合わせ下され談判なされたる趣誠に安心、不日上棟、いつか面会希望

==*==

以上の二人は、どのような人物だろうか?

有川十右衛門は薩摩藩
https://mairi.me/-/1123861
弟の矢九郎に関しての部分に兄の名があった。
【幕末から明治時代の薩摩藩士、武士・実業家。
父は、有川貞馨(始 清七郎、後 六右衛門)、母は吉田六郎右衛門の娘、志津子。
兄に有川 十右衛門(ありかわ じゅううえもん)】


石河確太郎は蘭学者であり、また英学者でもあった。

http://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0208.pdf 
上記の11頁に記載がある。

【石河確太郎文政8年(1826)~明治28年(1895)大和国(現奈良県)に生まれ、弘化3年(1846)に江戸に上って、蘭学者・杉田成卿に入門。その後、長崎に遊学し、複数の藩から召し抱えの要請を受けたが、安政2年(1855)、薩摩藩に仕える。藩主・島津斉彬の殖産興業策に従い、斉彬が亡くなった後もその遺志を継ぎ、鹿児島紡績建設、蒸気船の建造などの事業に携わった。開成所教師も勤めた。維新後は明治政府に出仕し、富岡製糸場の機械据え付けをはじめ、全国各地で紡績工場の設立に紡績技術者としてかかわった。】



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