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肥前国 串山郷 有間朝澄一期の後は越中政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言あり。

2024-04-21 | 九里バラバラ情報
串山郷は有間朝澄一期の後は越中政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言をたてに、政員は朝澄に押書を置かせよう …

これは、有間朝澄と越中政員が、縁戚関係であったという事ではないのだろうか?
養母という事なので、朝澄が養子、政員が実子か孫と思われる。

此の養母、初めは比企尼か、比企氏関係者かと思ったのだが、、、、
いろいろと調べているうちに、下河辺・小山氏の周辺なのではないか?と思い始めた。

野本時員は、実は下河辺政義の息子であった。が、野本基員の養子に入った人なのである。母は河越重頼の娘である。


上記のwikipediaによると以下のようにある。

野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。



 

此の越中七郎左衛門政員もまた野本氏なのではないだろうか?と仮定し、
ではなぜ越中氏となったのか、を調べてみようと思う。

コトバンクによると以下のようになる。
高来東郷
たかくとうごう
  • 長崎県:南高来郡
  • 高来東郷
中世にみえる郷名。高来郡内のうち伊佐早庄を除いた地域、したがってほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられる。史料上は郷内に神代こうじろ村(現国見町)、御墓野村、三会村(現島原市)、深江村(現深江町)・有馬庄(現北有馬町など)などがみえる。



承久三年(一二二一)八月三〇日の関東裁許下知状(保阪潤治氏所蔵文書)に「東郷」とみえ、平家没官領で京都仁和寺領の高来西郷が慈円の所領となったため不輸の地となり、その年貢を東郷地頭の野本行員が肩代りして納めることになったという。

寛元二年(一二四四)有馬を本拠とする有間朝澄は「高木東郷」地頭職について幕府に訴えたが、棄却されている(「吾妻鏡」同年六月二七日条)。

訴訟の相手はこの年以前に高来東郷の惣地頭職を給付されていた東国御家人の越中政員と考えられ、政員は同四年朝澄と串山くしやま郷(現南串山町など)をめぐって相論になり、朝澄一期の後は政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言を盾に朝澄に押書を作成するよう訴えているが、寛元四年(一二四六)幕府はこれを棄却している(「吾妻鏡」同年三月一三日条)。


その野本氏の基員の息が斎藤野本頼員と「源頼朝」頼一字賜わって元服したという。建久4年(1193年) 


越中氏とは、もともとは稲毛庄関係の、宇都宮頼綱の妻となり時綱を産んだ稲毛重成の娘、その時綱の息を預かった時綱の同母弟の横田頼業から始まっているようなのである。
横田頼業は越中守でもあった。

このもともとは稲毛氏が預かっていた皇嘉門院領と交換となった肥前国高来郡である。

そして、此の本日のブログのはじめの「養母」は頼綱の養母であった寒河尼か、時綱の母か、なのではないだろうか?(次のブログで詳細を書きたい)

時綱の息:長高、時村、元朝、時親、泰親、景親 
時村と泰親が宝治合戦で父の時綱と共に歿している。

肥前国高来東郷・高来西郷と高来一揆 外山幹夫 著

上記の論文も、非常にためになった。
その後に登場してくる越中新左衛門尉長員の父が、越中七郎左衛門次郎政員ではないかという事である。

高来郡の惣地頭職…現地出身者ではなく 、 武蔵国御家人野本氏であり 、 北条氏一 門であり 、 さらに詳細な出身地は不明であるが 、 恐らく東国御家人とみられる越中氏である 。 …(略)とあり、
私もこれから調べてみようと思う次第である。





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