波多野遠義 1082年生ー1155年没
1155年という事は、朝長が生まれたのが1143年、歿したのが1160年。
久経が生まれたのが仮定1145年~1155年と幅を持たせてみようと思うが、
もしかすると遠義は孫の久経に会ったことがあるかもしれない。
筑後守の国司というので、調べてみると、wikipedia の波多野遠義の順番が不確か。
1155年までに入れるようにしなくては。高階成章の後に入ることになるのだろうか?
筑後とは宇都宮氏に寄寓した「平貞能」がいた場所である。
もしも権守であれば、築後に赴いていない可能性もあるかもしれないが、
国司となっているので、そこに赴任したのではないかと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%AE%98
そういえば、系図に佐伯二郎三郎とある。
この波多野遠義は佐伯氏なのだ。遠義の先祖は九州にいたのだろうか?
豊後の佐伯氏とか。。。
さて、三浦氏の研究という本には「義通の父を遠義といい、その曽祖父に経範という者があって、母は佐伯氏、天喜五年(一〇五七)、前九年の役で討死したという。」とある。
経範は前九年と関係があるほど古い人物であったようだ。
また、荒木村重の下克上とういう本の中には「前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こり 」
纏めてみると以下のような系図になった。
経資ー経範ー経秀ー秀遠ー遠義ー義通となる。義通の五代前が経範という。
という事は、遠義の四代前が経範。
経範が頼義と共に居た、前九年の役は1051年~1062年
経範は、この頃が活躍期と考え、1020年代の人物だろうか。1063年に歿している。
「波多野氏の祖経範を仮に公経としたならば、文行―公光|公経—経秀—秀遠―遠義―義通を作成した名残りであるのかも知れない。佐伯氏の名が出るのは、波多野秀遠の女が文郷に嫁して光郷を生んでいる関係から、佐伯氏とは重縁の関係」(波多野市史)
(従五位下遠義(波多野刑部公光の子経範は、初め母方の姓佐伯を名〇六三年)に戦死してしまった。 ... 波多野民部・経秀と称す、母は出羽城介信従五位下越前波*野波多野五郎波多野次郎中務/義重(盛瑞鶴品鄭)十才頃より鎮守府将軍源頼義の部下(googlebooks)
素晴らしく良い系図を見つけた!!
関係部分をお借りします!
(是非訪れてみて下さい。波多野遠義の弟が比企遠光になっております!)
http://himagine1110.web.fc2.com/keizu/hatano.htm
鎌倉殿の13人。長年追いかけていた源三位頼政があっという間に滅ぼされてしまいました。😭
京都では、鵺退治や頼政道、頼政の首塚、宇治橋の戦、平等院の最後と関連遺跡が多数有ったのに。
最後の観光地紹介されたのは良かった。
拙句
埋れ木も宇治の蛍で輝いて
コメントありがとうございます。
あまりしらない俳優さんが多いためか、一体誰?が続いている大河です。
もっともっと下に人名が出て欲しいな、と思います。
文覚の「どくろ、まだあるから‥‥」には、笑いましたが。
源頼政も、歌の一つも披露しないままでしたね。