野田氏が関わり、また、九里氏も関わっていたのが『三村庄』であった。
野田氏は他に『速水荘』『河道荘』を担当していたようであり、文書が残っている。(東寺百合文書)
九里氏も関わった『三村庄』に関して、調べてみようと思う。
コトバンク
近江国にあった荘園。蒲生(がもう)郡島郷(現,滋賀県近江八幡市)を中心とする一帯と考えられるが,愛知郡域とする説もある。鳥羽(とば)上皇の御願寺宝荘厳(ほうしょうごん)院(白河御堂)領の一つで,1159年に米300石,油1石6斗,薦(こも)300枚の年貢が課されていた。1228年後堀河天皇が領家(りょうけ)職を延暦(えんりゃく)寺西塔(さいとう)に寄進したが,翌年幕府の要求で停止されており,のち園城(おんじょう)寺円満院に伝領されたと考えられる。1330年宝荘厳院の敷地および執務職が後醍醐(ごだいご)天皇から京都東寺に寄進されたが,すでに東寺から六角氏頼(うじより)に荘半分が売却されており,またその家臣らの所領もあったようである。1362年頃から宝荘厳院と東寺の雑掌の間で相論が続くが,1374年には同職や荘内の島郷以下の寺領が東寺領とされている。一時,華頂門跡(かちょうもんぜき)に半済(はんぜい)分が与えられたが,1478年に再三の訴えで東寺に還付されている。島郷には市が立てられ,1501年横関商人と保内(ほない)商人が呉服座をめぐって争う事件が起きている。
コトバンクよりもう一つ
1159年(平治1)には上座法眼静憲が預所を務め,米300石,油1石6斗,薦(こも)300枚の年貢の上納が義務づけられていた。1228年(安貞2)延暦寺西塔領となったが,翌年停止され,鎌倉末まで王家領であった。1330年(元徳2)宝荘厳院の執務職が東寺に寄進され,貞治年間(1362‐68)以降,同院雑掌と東寺雑掌の間で相論が続く。
上記の【静憲】は、ほかの資料によると
後白河法皇の側近の僧・静憲(じょうけん)とある。
つまり【静賢】と同一人物だったのだ。この人の父は信西である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E8%B3%A2
鹿ヶ谷の事件で関りがあったかもしれない人物でもある。
安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀で謀議が行われた山荘は、『平家物語』では俊寛のものとされるが、『愚管抄』では静賢のものとされる。この事件では院近臣の多くが処罰されたが、静賢は関与責任を問われることはなかった。その後、治承3年(1179年)4月に平清盛の命令によって法勝寺執行を解任されている(『山槐記』)が、鹿ケ谷の陰謀との関連は不詳。
三村庄に関係する文書で年月のわかるものの内、1159年の文書のあとは1344年迄飛んでしまう。
1344年 (地頭代)左衛門尉範宗
1348年 (地頭代)左近将監範氏
1350年 蜂屋左近将監」善心」貞文」玄妙 嶋郷沙汰人
1354年 蜂屋 任願西口□ 佐々木備中入道 源内左衛門 杉山 □三郎 高倉
三上 弓□八郎 目賀田 馬渕 伊佐入道 杉富
1354年 福善」定俊」蜂屋」願西
1355年
円明」大載僧都」松島」願西」定俊」福善」讃岐法橋」速水河内」近江弾正」富田住阿 |
1356年 願西 □寿丸 定俊 成就寺法師 福善法師 願西之息女
1357年 願西
1363年 渋谷遠江守
1368年 時光(林と思われる)
1368年 公文円*
1369年 時光
1370年 西方院大僧都 治部卿大僧都 円良 実相寺法印 大輔大僧都 弁律師 刑部卿阿闍梨
1370年 東寺雑掌頼憲 雑掌良賢 匡遍法印
1370年 公文円良 増長
1371年 沙弥道□ 佐々木四郎兵衛尉 東寺雑掌頼憲
1371年 近江國守護四郎右衞門 高詮(佐々木)
1371年 伊庭」竹村」時光
1371年 公文円良
1373年 公文円良
1373年 乗くん(観) 円良 五郎 門指 公文
1373年 頼憲 野田五郎左衛門入道 沙弥(仁木義尹) 佐々木四郎兵衛尉
1374年 公文円良 乗円 中サワ(信綱カ) 門指 布施(資連) 新院(後光厳上皇) 公文
1374年 野田五郎左衛門入道 東寺雑掌頼憲
頼憲は「東寺雑掌頼憲」とある。
黒枠が三村庄 のようである。
「東寺領近江国三村荘に関する諸問題
-その所在地を中心に-」著 吉田功治
平安時代後期、京都白河の地に鳥羽上皇御願寺として建立された宝荘厳院には、寺領荘園としてる近江国三村荘が設定されていた。
こちらの論文より、九里と関係がありそうな図を拝借し、色を付けた。
黒枠が三村庄のあったと思われる場所である。
以下の九里はアバウトな形である。
オレンジが長田
黄緑が九里
水色が野田