六角氏頼は1354年に政界復帰しており、更に近江守護にかえり咲いていた。
という事は、野田氏は氏頼の許で働いていたことになる。
備中大夫判官家人野田氏で合っていたのだ。
良かった!
中世後期近江国蒲生郡下部・上部《境界地域》と佐々木六角氏(著 若林陵一)の論文に興味深い記述があった。慈恩寺は氏頼の母親の菩提のために建立した、とあった。
母親とは、長井時千の娘である。
長井氏は大江氏である。
以前書いた記事よりピックアップすると
「大江宗秀は、父は長井時秀、母は安達義景の娘。
北条実時(金沢実時)の娘を妻とし、その間の子に長井貞秀がいる。
その他の男子に、長井時千、長井冬時がいる。
時千は「ときゆき」というらしい。」
この長井時千の娘が氏頼の母親であった。
その菩提寺が慈恩寺であるという。
また、野田氏に関してだが、高嶋郡に「野田」という地名がある。
「永田」の近くでもある。
そして近江八幡にも長田と野田が程近くにあるのだ。
この符号は、意味があると思う。
そして金剛寺と金田は九里の所領があった場所である。
すぐ隣が野田氏。
そして、氏頼の母が大江氏。
永田胤信は千葉氏(桓武平氏)とのつながりを感じる。
つまりここにも、鎌倉からのつながりがあるのではないだろうか。
この辺りから、何か解き明かせないものだろうか。