九里 【九里】を探して三千里

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三村庄と紀太孫左衛門 この人物が九里種信と関係か?

2022-05-06 | 九里バラバラ情報

三村庄を調べている際に、出てきた人物がいる。

【紀太孫左衛門】

https://kyotofukoh.jp/report505.html

https://www.city.yawata.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000004/4633/20180121sympo.pdf

近江八幡の八幡は、石清水八幡の八幡でもあり、宇美八幡宮にも繋がる。

宇美宮

紀太蔵人、「嶋郷内 三村庄」に関する東寺百合文書にその名が出てくる。

 

この紀太氏とともに河井氏が登場するが、1384年あたりから東寺百合文書に出てくるそうである。

河井の居館跡は近江八幡本郷にあったそうで、九里と同じ場所である。嶋郷代官とある。

 

 

 

1451年からは、九里の名も出てくる。

 

こちらは、紀太であろうと思われるのだが【木田】と記載がある。

そこで、木田で検索をかけると、新たに出てきた。

 

更に深堀すると、今度は松田氏が出てきた。

松田氏は以前から松田数秀と九里員秀(かずひで)が気になっていた。

同じ対馬守でもある。

九里源兵衛は対馬守を称している。員秀は備前守?美作守?

九里美作守賢秀が美作守であった。

 

中原久経の同母兄(異父兄)が源朝長である。朝長が十三歳まで松田にいたとすると、久経も松田で育ったこととなるのではないだろうか?(とすると久経の母は東国にいた中原氏に嫁いだのか?それとも朝長は松田において行かれて養母が育てたのだろうか?)

源朝長が松田殿

平致頼の裔にも丹後松田氏 (長田氏と同じ祖

朝長が13年住んでいたという松田の館は、頼朝が修繕させて訪れることもあったそうだ。

1143年~1156年 その後は1160年迄、義朝の許で武士として、父を支えようと共に京にいたのかもしれない。

朝長の二歳年上の兄となる【義平】の母親は三浦義明の娘であり、兄弟姉妹が

杉本義宗三浦義澄大多和義久
佐原義連多々良義春長井義季
杜重行源義朝側室、畠山重能正室
金田頼次室、長江義景正室、大河戸広行

となる。

さらに三浦義明自身の兄弟姉妹は

三浦義明津久井義行蘆名為清
岡崎義実大友経家中村宗平

そして義明の母親は秩父重綱の娘であるという。

 

義平の妻は新田一族の者で、娘が一人おり、武田信光の室になったという。

武田信光とは、鎌倉殿の十三人で殺された一条忠頼の弟となる。

 

松田氏、特に丹後の松田氏、気になる存在である。

 


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