三村庄を調べている際に、出てきた人物がいる。
【紀太孫左衛門】
https://kyotofukoh.jp/report505.html
https://www.city.yawata.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000004/4633/20180121sympo.pdf
近江八幡の八幡は、石清水八幡の八幡でもあり、宇美八幡宮にも繋がる。
宇美宮
紀太蔵人、「嶋郷内 三村庄」に関する東寺百合文書にその名が出てくる。
この紀太氏とともに河井氏が登場するが、1384年あたりから東寺百合文書に出てくるそうである。
河井の居館跡は近江八幡本郷にあったそうで、九里と同じ場所である。嶋郷代官とある。
1451年からは、九里の名も出てくる。
こちらは、紀太であろうと思われるのだが【木田】と記載がある。
そこで、木田で検索をかけると、新たに出てきた。
更に深堀すると、今度は松田氏が出てきた。
松田氏は以前から松田数秀と九里員秀(かずひで)が気になっていた。
同じ対馬守でもある。
九里源兵衛は対馬守を称している。員秀は備前守?美作守?
九里美作守賢秀が美作守であった。
中原久経の同母兄(異父兄)が源朝長である。朝長が十三歳まで松田にいたとすると、久経も松田で育ったこととなるのではないだろうか?(とすると久経の母は東国にいた中原氏に嫁いだのか?それとも朝長は松田において行かれて養母が育てたのだろうか?)
源朝長が松田殿
平致頼の裔にも丹後松田氏 (長田氏と同じ祖)
朝長が13年住んでいたという松田の館は、頼朝が修繕させて訪れることもあったそうだ。
1143年~1156年 その後は1160年迄、義朝の許で武士として、父を支えようと共に京にいたのかもしれない。
朝長の二歳年上の兄となる【義平】の母親は三浦義明の娘であり、兄弟姉妹が
杉本義宗、三浦義澄、大多和義久
佐原義連、多々良義春、長井義季、
杜重行、源義朝側室、畠山重能正室
金田頼次室、長江義景正室、大河戸広行室
となる。
さらに三浦義明自身の兄弟姉妹は
三浦義明、津久井義行、蘆名為清、
岡崎義実、大友経家室、中村宗平室
そして義明の母親は秩父重綱の娘であるという。
義平の妻は新田一族の者で、娘が一人おり、武田信光の室になったという。
武田信光とは、鎌倉殿の十三人で殺された一条忠頼の弟となる。
松田氏、特に丹後の松田氏、気になる存在である。